たまるい》の中《なか》でも一番《いちばん》大切《たいせつ》なものは勾玉《まがたま》であります。勾玉《まがたま》が、八坂瓊《やさかに》の勾玉《まがたま》と申《まを》して、三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》の一《ひと》つにも數《かぞ》へられてゐることは、皆《みな》さんもよく知《し》つてをられるでせうが、この玉《たま》の形《かたち》は頭《あたま》が圓《まる》くて尻尾《しりを》が曲《まが》り、ちょっと英語《えいご》の『,《こんま》』のような形《かたち》をしてゐます。大《おほ》きなものになりますと、長《なが》さが三寸《さんずん》にも達《たつ》するものもありますが、普通《ふつう》は一寸《いつすん》から一寸五分前後《いつすんごぶぜんご》のものであります。そしてその石《いし》は、ごく古《ふる》い時分《じぶん》には、日本《につぽん》に産出《さんしゆつ》しない支那傳來《しなでんらい》の硬玉《こうぎよく》(翡翠《ひすい》、青瑯※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《せいろうかん》)といふ半透明《はんとうめい》の美《うつく》しい緑色《みどりいろ》の石《いし》で作《つく》られてあつて、なか/\綺麗《きれい》なものでしたが、やゝ後《のち》の時代《じだい》になると、出雲《いづも》の國《くに》あたりから出《で》る碧玉《へきぎよく》といふ青黒《あをぐろ》い石《いし》が用《もち》ひられ、さらに後《のち》になると、赤《あか》い瑪瑙《めのう》が普通《ふつう》に使《つか》はれるようになりました。またこの一番後《いちばんのち》の時代《じだい》、奈良朝《ならちよう》ごろになると、勾玉《まがたま》の形《かたち》がコといふ字《じ》の形《かたち》のように、角《かく》ばつて美《うつく》しくありませんが、古《ふる》い時代《じだい》の勾玉《まがたま》はなか/\優美《ゆうび》な形《かたち》をして、その頭《あたま》の孔《あな》のところに、三《みつ》つ四《よつ》つの切《き》り目《め》がつけてあるのが普通《ふつう》です。この切《き》り目《め》を丁字頭《ちようじがしら》と申《まを》します。ですから皆《みな》さんは勾玉《まがたま》を見《み》ても、どういふのが古《ふる》いか、またどういふのが新《あたら》しいかを、それで知《し》ることが出來《でき》るのであります。また近頃《ちかごろ》作《つく》つた新《あたら》しい勾玉《まがたま》の模造品《もぞうひん》は、その孔《あな》が眞《まつ》すぐに筒形《つゝがた》にあいてゐますが、古《ふる》い勾玉《まがたま》はたいてい一方《いつぽう》あるひは兩方《りようほう》から圓錘形《えんすいけい》に近《ちか》い孔《あな》が開《ひら》いてをり、この孔《あな》のあけ工合《ぐあひ》でも、ほんとうに古《ふる》いものか、僞物《にせもの》であるかゞわかるのであります。
勾玉《まがたま》は、昔《むかし》も非常《ひじよう》に貴重《きちよう》にされたものと見《み》えて、日本《につぽん》では一《ひと》つの古墳《こふん》から餘《あま》りたくさん發見《はつけん》せられません。これに反《はん》して、わりあひにたくさん出《で》てくるのは管玉《くだたま》といふ玉《たま》です。これは管《くだ》の形《かたち》をした筒形《つゝがた》の玉《たま》でありまして、その長《なが》さは一寸前後《いつすんぜんご》のものが普通《ふつう》です。石《いし》はみな出雲《いづも》から出《で》る碧玉《へきぎよく》で造《つく》つてあります。昔《むかし》は管玉《くだたま》のことをたか[#「たか」に傍点]玉《だま》といつたのですが、それは竹玉《たけだま》といふ意味《いみ》であつて、この青《あを》い碧玉《へきぎよく》を用《もち》ひたのは、ちょうど青竹《あをだけ》を切《き》つて使《つか》つたのをまねたからだといはれてをります。なほ管玉《くだたま》の中《うち》でごく古《ふる》いものには、非常《ひじよう》に細《ほそ》くて、直徑《ちよくけい》が一分前後《いちぶぜんご》のものが多《おほ》いのでありますが、時代《じだい》がやゝ降《くだ》りますと、だん/\太《ふと》くなつてまゐります。
管玉《くだたま》の次《つ》ぎにたくさん出《で》るものに、切《き》り子《こ》玉《だま》といふのがあります。これはほとんどみな水晶《すいしよう》で造《つく》つてありまして、六角《ろつかく》あるひは八角《はつかく》の方錘形《ほうすいけい》を、底《そこ》の方《ほう》で二《ふた》つつないだ恰好《かつこう》になつてをります。その他《ほか》の玉類《たまるい》には棗玉《なつめだま》、丸玉《まるだま》、平玉《ひらだま》、小玉《こだま》など、いろ/\の種類《しゆるい》がありますが、これらの小《ちひ》さい玉《たま》は多《おほ》く紺色《こんいろ》、あるひは緑色《みどりいろ》のがらす[#「がらす」に傍点]で造《つく》つてあるのが普通《ふつう》であります。これによつても、この時分《じぶん》からすでに色《いろ》がらす[#「がらす」に傍点]がつくられたことがよくわかりますが、無色透明《むしよくとうめい》の板《いた》がらす[#「がらす」に傍点]はまだ世界中《せかいじゆう》どこにもありませんでした。かような玉《たま》は古墳《こふん》が發掘《はつくつ》せられたとき、たいてい土《つち》の中《なか》に混《まじ》つてゐますから、すぐに見《み》つからないことがあります。それで土《つち》を篩《ふるひ》にかけてよく探《さが》さなければなりません。(第六十四《だいろくじゆうし》、五圖《ごず》)
[#「第六十四圖 日本古墳發見勾玉」のキャプション付きの図(fig18371_65.png)入る]
[#「第六十五圖 日本古墳發見玉類及び金裝耳飾り」のキャプション付きの図(fig18371_66.png)入る]
いま申《まを》した、いろ/\の種類《しゆるい》の玉《たま》の中《なか》で、勾玉《まがたま》は日本以外《につぽんいがい》では、たゞ朝鮮《ちようせん》の南方《なんぽう》から出《で》るだけで、他《た》の國《くに》ではほとんど發見《はつけん》せられませんから、まづ日本獨特《につぽんどくとく》の玉《たま》といふことが出來《でき》ます。ところがこの面白《おもしろ》い勾玉《まがたま》の形《かたち》が、どうして出來《でき》たのであるかといひますと、昔《むかし》の人《ひと》が狩《か》りをして獸《けだもの》をとり、その牙《きば》や齒《は》に孔《あな》をあけて飾《かざ》りにした風習《ふうしゆう》が傳《つた》はつて、その牙《きば》や齒《は》の形《かたち》の曲《まが》つたのをまねて、次第《しだい》に勾玉《まがたま》の美《うつく》しい形《かたち》になつたのだと、多《おほ》くの學者《がくしや》はいつてをります。かういふ孔《あな》をあけた獸類《じゆうるい》の牙《きば》や齒《は》は、日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》の遺跡《いせき》や、また外國《がいこく》の遺跡《いせき》からもずいぶんたくさん發見《はつけん》せられますが、勾玉《まがたま》のように美《うつく》しい形《かたち》の玉《たま》は、外國《がいこく》ではまったく見《み》られません。また玉《たま》を體《からだ》につけて飾《かざ》る風習《ふうしゆう》は、世界《せかい》いづれの國《くに》にもありますが、日本《につぽん》は支那《しな》などに比《くら》べて、よけいに玉《たま》を愛《あい》したと見《み》えて、支那《しな》の墓《はか》からはそれほどたくさんの玉《たま》が發見《はつけん》せられることはありません。なほ玉類《たまるい》のほかに體《からだ》へつけた裝飾品《そうしよくひん》には、金鐶《きんかん》といふ銅《どう》にめっき[#「めっき」に傍点]をした環《かん》がありまして、これはたいてい一對《いつゝひ》づゝ出《で》るので、多分《たぶん》耳飾《みゝかざ》りなどに使《つか》つたものと思《おも》はれます。またこの鐶《かん》にはーと[#「はーと」に傍点]型《がた》などの細《こま》かい飾《かざ》りがぶら下《さが》つてゐる、立派《りつぱ》な耳飾《みゝかざ》りが時々《とき/″\》出《で》ることがありますが、これは南朝鮮《みなみちようせん》の古墳《こふん》からたくさん發見《はつけん》せられるもので、朝鮮風《ちようせんふう》のものといふことが出來《でき》ます。(第六十五圖《だいろくじゆうごず》)
(ヘ) 古《ふる》い鏡《かゞみ》
古墳《こふん》から銅《どう》で作《つく》つた鏡《かゞみ》がたくさん出《で》ますが、ことに古《ふる》い時代《じだい》の古墳《こふん》には多數《たすう》の鏡《かゞみ》を棺《かん》の中《なか》に入《い》れてあるのでありまして、時《とき》には一《ひと》つの古墳《こふん》に十枚《じゆうまい》二十枚《にじゆうまい》或《あるひ》はそれ以上《いじよう》あることもあります。そして、その鏡《かゞみ》はたいてい支那《しな》で出來《でき》たものであり、時《とき》にはまた日本《につぽん》で作《つく》つた鏡《かゞみ》もありますが、それもまったく支那《しな》の鏡《かゞみ》をまねて作《つく》つたものであります。ところが支那製《しなせい》の鏡《かゞみ》は皆《みな》、その頃《ころ》大陸《たいりく》から輸入《ゆにゆう》されたものでなくてはなりませんが、不思議《ふしぎ》なことには朝鮮《ちようせん》の南《みなみ》、昔《むかし》の新羅《しらぎ》の國《くに》の古墳《こふん》は日本《につぽん》の古墳《こふん》とよく似《に》てゐて、その中《なか》から勾玉《まがたま》のような日本特有《につぽんとくゆう》のものも出《で》るにかゝはらず、鏡《かゞみ》に至《いた》つてはほとんどまったく發見《はつけん》せられないのです。王樣《おうさま》の墓《はか》と思《おも》はれる立派《りつぱ》な墓《はか》でも、鏡《かゞみ》は一枚《いちまい》も掘《ほ》り出《だ》されないのは、實《じつ》に奇妙《きみよう》に思《おも》はれますが、まさか新羅《しらぎ》の人《ひと》でも鏡《かゞみ》を使《つか》はず、お化粧《けしよう》をしなかつたとは思《おも》はれませんので、鏡《かゞみ》は用《もち》ひてゐたけれども、死人《しにん》の棺《かん》の中《なか》に、何《なに》かの理由《りゆう》で入《い》れなかつたものと考《かんが》へられます。しかし次《つ》ぎの高麗《かうらい》といふ時代《じだい》の墓《はか》からは鏡《かゞみ》がたくさん出《で》ます。とにかく鏡《かゞみ》は昔《むかし》支那《しな》でも顏《かほ》を寫《うつ》すばかりのものではなく、これを持《も》つてゐると、惡魔《あくま》を除《よ》けるといふような考《かんが》へがあつたので、墓《はか》に收《をさ》めたのもさういふ意味《いみ》があつたかも知《し》れないのです。かように新羅《しらぎ》の人《ひと》は鏡《かゞみ》を使《つか》つたにしても、墓《はか》に埋《うづ》めないから、支那《しな》からたくさんの鏡《かゞみ》がはひつて來《き》たとは思《おも》はれません。それゆゑ日本《につぽん》へ來《き》た支那《しな》の鏡《かゞみ》は、朝鮮《ちようせん》を經《へ》ないで恐《おそ》らく南支那邊《みなみしなへん》から、直接《ちよくせつ》に來《き》たものと思《おも》はれます。
さて支那《しな》では周《しゆう》のすゑ秦《しん》の時代頃《じだいころ》から、鏡《かゞみ》が作《つく》られてゐたらしいのでありますが、漢《かん》の時代《じだい》になつてから非常《ひじよう》にたくさんに作《つく》られ、六朝時代《りくちようじだい》を經《へ》て唐《とう》の時代《じだい》まで、盛《さか》んに立派《りつぱ》な鏡《かゞみ》が現《あらは》れましたが、その後《ご》宋《そう》の時代《じだい》からは、だん/\拙《まづ》い粗末《そまつ》なものになつてしまひました。また鏡《かゞみ》の形《かたち》は唐《とう》の時代頃《じだいころ》までは多《おほ》く圓《まる》い鏡《かゞみ》でありまして、あの花瓣《かべん》のように周圍《しゆうい》が切《き》れてゐる八稜鏡《はちりようきよう
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