》とか八花鏡《はつかきよう》といふ形《かたち》の鏡《かゞみ》は、まったく唐《とう》の時代《じだい》になつて初《はじ》めて出來《でき》たものであり、また柄《え》のついた鏡《かゞみ》や四角《しかく》な鏡《かゞみ》も、唐《とう》や宋《そう》以後《いご》のものであります。それに世間《せけん》では三種《さんしゆ》の神器《じんぎ》の中《なか》にある御鏡《みかゞみ》を、八稜鏡《はちりようきよう》のような恰好《かつこう》のものと思《おも》ふ人《ひと》があるのは間違《まちが》ひで、もちろん、たれもこれを拜《はい》した人《ひと》はないのでありますが、古《ふる》い時代《じだい》の鏡《かゞみ》でありますれば、必《かなら》ず圓《まる》い鏡《かゞみ》でなければなりません。(第六十七圖《だいろくじゆうしちず》)
[#「第六十六圖 日本支那古鏡」のキャプション付きの図(fig18371_67.png)入る]
[#「第六十七圖 日本支那古鏡」のキャプション付きの図(fig18371_68.png)入る]
さて古墳《こふん》の中《なか》から出《で》る鏡《かゞみ》は、ちょうど漢《かん》から六朝時代《りくちようじだい》の鏡《かゞみ》でありまして、その裏面《りめん》、顏《かほ》を寫《うつ》す面《めん》の反對面《はんたいめん》には、たいてい圓《まる》い鈕《じゆう》があつて、その周圍《しゆうい》にはいろ/\の模樣《もよう》が刻《きざ》まれてゐます。時代《じだい》が變《かは》るに從《したが》つてこの紋樣《もんよう》もだん/\變《かは》つて行《ゆ》くのでありますが、漢《かん》の時代《じだい》の鏡《かゞみ》には、曲線《きよくせん》や直線《ちよくせん》をあつめた模樣《もよう》や、寫生的《しやせいてき》でない動物《どうぶつ》の形《かたち》などが現《あらは》れてをります。そこに竝《なら》べてある鏡《かゞみ》を御覽《ごらん》になればよくわかりますが、かような模樣《もよう》をつけた支那《しな》の鏡《かゞみ》は非常《ひじよう》によく出來《でき》てゐますのに、その頃《ころ》日本《につぽん》で出來《でき》た鏡《かゞみ》はまだ作《つく》り方《かた》が拙《まづ》いので、大《たい》へん見劣《みおと》りがいたします。例《たと》へば模樣《もよう》の中《なか》にある支那文字《しなもじ》でも、日本製《につぽんせい》の鏡《かゞみ》にはなんだかわからない字《じ》の形《かたち》になつたり、模樣《もよう》もはつきりいたしません。それでこれをよく見《み》ますと日本製《につぽんせい》か支那製《しなせい》かの區別《くべつ》はわかるのであります。またそれらの鏡《かゞみ》をお墓《はか》に入《い》れるときには、はじめは袋《ふくろ》のようなものに納《をさ》めて入《い》れたに相違《そうい》なく、いま發見《はつけん》される鏡《かゞみ》の端《はし》に腐《くさ》つた布《ぬの》のはし[#「はし」に傍点]が着《つ》いてゐるのを見《み》ても、それを知《し》ることが出來《でき》ます。(第六十六圖《だいろくじゆうろくず》)
古墳《こふん》からは、漢《かん》から六朝頃《りくちようころ》までの鏡《かゞみ》と、それを摸造《もぞう》した日本製《につぽんせい》の鏡《かゞみ》とが出《で》るだけで、唐以後《とういご》の鏡《かゞみ》はほとんど發見《はつけん》されないといつてもよろしい。しかし鏡《かゞみ》は、もちろんその頃《ころ》でも用《もち》ひられてゐたので、たゞ墓《はか》へ餘《あま》り入《い》れなかつたものと思《おも》はれます。しかし日本《につぽん》では平安朝以後《へいあんちよういご》になりますと、唐《とう》の鏡《かゞみ》の模樣《もよう》をだん/\變化《へんか》させて、遂《つひ》にはまったく日本的《につぽんてき》のごく優美《ゆうび》な模樣《もよう》をつけた鏡《かゞみ》を作《つく》るようになりました。さういふ鏡《かゞみ》は古墳《こふん》からは出《で》ませんけれども、經塚《きようづか》といつて、お經《きよう》などを埋《うづ》めた後《のち》の時代《じだい》の塚《つか》からよく發見《はつけん》されます。前《まへ》には日本製《につぽんせい》の鏡《かゞみ》は支那製《しなせい》に比《くら》べて非常《ひじよう》に拙《まづ》かつたのが、この平安朝《へいあんちよう》から足利時代《あしかゞじだい》になつて、支那《しな》の同時代《どうじだい》の鏡《かゞみ》と比《くら》べて、かへって巧《うま》く出來《でき》、なか/\優《すぐ》れたところがあるのであります。この日本製《につぽんせい》の鏡《かゞみ》を和鏡《わきよう》と申《まを》してをります。つまりそれは日本《につぽん》がその時代《じだい》になつて、だん/″\文化《ぶんか》が進《すゝ》んで技術《ぎじゆつ》も秀《すぐ》れて行《い》つたことを示《しめ》す、何《なに》よりもよい證據《しようこ》であります。
(ト) 刀劒《とうけん》と甲冑《かつちゆう》
いまお話《はなし》した古墳《こふん》から出《で》る鏡《かゞみ》は青銅《せいどう》で作《つく》つてあるので、青色《あをいろ》の錆《さび》が出《で》てをつても、腐《くさ》つたものは少《すくな》く、たいてい壞《こは》れないで土《つち》の中《なか》から出《で》て來《き》ます。ところが古墳《こふん》に入《い》れてあつた刀《かたな》や劍《つるぎ》の類《るい》になりますと、その數《かず》は非常《ひじよう》にたくさんありますが、中身《なかみ》がみな鐵《てつ》ですから赤錆《あかさび》になつて、ぼろ/\に腐《くさ》つてしまひ、完全《かんぜん》に取《と》り出《だ》すことはよほど難《むつか》しいのであります。たゞ鞘《さや》の上《うへ》に飾《かざ》つてあつた、金《きん》めっき[#「めっき」に傍点]をした銅《どう》などの部分《ぶぶん》だけが、わりあひによく殘《のこ》つてゐるだけであります。さてこの時分《じぶん》の刀劍《とうけん》の身《み》は、みな眞《まつ》すぐで、後《のち》の時代《じだい》の刀《かたな》のように反《そ》りがありません。また源頼朝《みなもとのよりとも》や義經《よしつね》などの時代《じだい》から後《のち》になりますと、皆《みな》さんも知《し》つてゐるとほり、日本刀《につぽんとう》といふものが盛《さか》んに作《つく》られて、支那《しな》へも輸出《ゆしゆつ》されたくらゐでありましたが、この古《ふる》い時代《じだい》ではかへって支那《しな》や朝鮮《ちようせん》からよい刀劍《とうけん》が輸入《ゆにゆう》されたであります。
刀劍《とうけん》の身《み》の形《かたち》は、たいてい大《たい》した違《ちが》ひはありませんが、柄《つか》の形《かたち》にはいろ/\異《ことな》つたものがありまして、そのうち珍《めづら》しいものには、『くぶつち』の劍《つるぎ》といふのがあります。これは柄《つか》の頭《あたま》が槌《つち》の頭《あたま》、あるひは拳《こぶし》を曲《ま》げたような形《かたち》をしてゐるもので、多《おほ》くは金《きん》めっき[#「めっき」に傍点]をした銅《どう》で出來《でき》て、非常《ひじよう》にきれいなものであります。かういふふうな作《つく》りの劍《つるぎ》は、支那《しな》にも朝鮮《ちようせん》にも見《み》つかりませんので、まづ日本《につぽん》で初《はじ》めて出來《でき》たものだらうと思《おも》はれます。その次《つ》ぎに環頭《かんとう》の劍《つるぎ》といふのがあります。これは柄《つか》の頭《あたま》のところが環《かん》の形《かたち》をして、その中《なか》に鳥《とり》や獸《けだもの》や、あるひは花《はな》の形《かたち》がついてゐるものであります。この種類《しゆるい》のものは朝鮮《ちようせん》や支那《しな》からも出《で》ますので、多《おほ》くはかの地《ち》から日本《につぽん》へ輸入《ゆにゆう》して來《き》たものか、またそれを摸造《もぞう》したものであると思《おも》はれます。それからまた、日本《につぽん》で作《つく》られたと思《おも》はれるものに、蕨手《わらびて》の劍《つるぎ》といふのがありますが、これは大《おほ》きな劍《つるぎ》にはなくて、小《ちひ》さい刀《かたな》にたくさんありまして、柄《つか》の頭《あたま》が蕨《わらび》のように曲《まが》つてゐるものであります。(第六十八圖《だいろくじゆうはちず》)
[#「第六十八圖 日本古墳發見刀劔」のキャプション付きの図(fig18371_69.png)入る]
以上《いじよう》述《の》べた、いろ/\の刀劍《とうけん》の拵《こしら》へは、たいてい金《きん》めっき[#「めっき」に傍点]をした銅《どう》で作《つく》つたものであつて[#「あつて」は底本では「あつつて」]、その中《なか》には『くぶつち』のように日本獨特《につぽんどくとく》の拵《こしら》へもありますが、多《おほ》くは支那朝鮮《しなちようせん》のもの、もしくはそれをまねたもので、かような外國風《がいこくふう》のものを、その時分《じぶん》の人《ひと》が喜《よろこ》んで用《もち》ひたのはむりもありません。しかしまた一方《いつぽう》には、日本《につぽん》に古《ふる》くから行《おこな》はれてゐた作《つく》りの刀劍《とうけん》もやはり用《もち》ひられてゐたものであります。例《たと》へば劍《つるぎ》の柄《つか》のところを鹿《しか》の角《つの》で裝飾《そうしよく》し、その上《うへ》に外國《がいこく》では見《み》られない直線《ちよくせん》や弧線《こせん》の組《く》み合《あは》せた模樣《もよう》をつけた日本風《につぽんふう》な刀劍《とうけん》が、外國的《がいこくてき》な刀劍《とうけん》と同時《どうじ》に用《もち》ひられてゐたのであります。これはそれらの刀劍《とうけん》が同《おな》じ墓《はか》から、一《いつ》しょに發見《はつけん》されることでよくわかります。
昔《むかし》の人《ひと》は、今日《こんにち》田舍《ゐなか》の樵《きこり》や農夫《のうふ》が山《やま》へ行《ゆ》く時《とき》に、鎌《かま》や斧《をの》を腰《こし》に着《つ》けてゐるように、きっと何《なに》か刃物《はもの》を持《も》つてゐたものと思《おも》ひます。また皆《みな》さんが學校《がつこう》へ行《ゆ》く時《とき》、鉛筆《えんぴつ》をけづつたりする場合《ばあひ》にないふ[#「ないふ」に傍点]が必要《ひつよう》であるように、昔《むかし》の人《ひと》も常《つね》に小刀《こがたな》を持《も》つてをりました。その小刀《こがたな》を刀子《とうす》と申《まを》しますが、それが墓場《はかば》からたくさん發見《はつけん》されます。この刀子《とうす》は男《をとこ》ばかりでなく、女《をんな》の人《ひと》もお守《まも》りに持《も》つてゐたと思《おも》はれますが、その鞘《さや》は木《き》でつくつたものゝほかに、毛《け》のついた皮《かは》を縫《ぬ》ひ合《あは》せてつくつたものが、一般《いつぱん》に行《おこな》はれてゐたようです。そしてお墓《はか》の中《なか》にほんとうの刀子《とうす》を納《をさ》めたばかりでなく、石《いし》でつくつた刀子《とうす》で、ちょっと見《み》るとなんの形《かたち》だかわからぬ形《かたち》をしたものをも、たくさん埋《うづ》めたのでありました。それがやはり古墳《こふん》から出《で》て來《く》るのであります。(第七十三圖《だいしちじゆうさんず》)
さて刀劍《とうけん》が出《で》るくらゐでありますから、甲胄《かつちゆう》もまた墓《はか》の中《なか》からたくさん出《で》て來《く》るのです。これはたいてい鐵《てつ》で作《つく》つたものでありまして、後《のち》の時代《じだい》の鎧《よろひ》や劍道《けんどう》のお胴《どう》に似《に》たようなものであります。なにぶん薄《うす》い鐵《てつ》の板《いた》でつくり、これを革《かは》の紐《ひも》で結《むす》び合《あは》せたものでありますから、今《いま》ではぼろ/\に壞《こは》れて、完全《かんぜん》に遺《のこ》つてゐるものは稀《まれ》
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