高山彦九郎《たかやまひこくろう》、林子平《はやししへい》などゝ共《とも》に寛政《かんせい》の三奇士《さんきし》といはれた蒲生君平《がまうくんぺい》が、御歴代《ごれきだい》の御陵《ごりよう》の壞《こは》れたり、わからなくなつてゐるのを歎《なげ》いて、自分《じぶん》で各地《かくち》の御陵《ごりよう》を探索《たんさく》し、遂《つひ》に『山陵志《さんりようし》』といふ本《ほん》を著《あらは》したりした頃《ころ》から、御陵《ごりよう》の研究《けんきゆう》につれて起《おこ》つたのでありました。そして明治《めいじ》の時代《じだい》になつて、いろ/\日本《につぽん》の學者《がくしや》が研究《けんきゆう》をはじめ、また大阪《おほさか》の造幣局《ぞうへいきよく》へ來《き》てをつた英國人《えいこくじん》のゴーランドといふ人《ひと》などが、やり出《だ》したのでありました。ところが古《ふる》い時代《じだい》の天皇《てんのう》の御陵《ごりよう》は、日本《につぽん》の古墳《こふん》のうちで最《もつと》も大《おほ》きく、また最《もつと》も立派《りつぱ》な代表的《だいひようてき》なものでありますから、古墳《こふん》を研究《けんきゆう》するには、ぜひこれらの御陵《ごりよう》を拜《をが》んで、それをよく調《しら》べなければならず、殊《こと》に古墳《こふん》の時代《じだい》を知《し》るには、御陵《ごりよう》が何《なに》よりの標準《ひようじゆん》となるのであります。私《わたし》なども少年《しようねん》のころ、御陵《ごりよう》を巡拜《じゆんぱい》するといふようなことから、つい/\考古學《こうこがく》に興味《きようみ》を覺《おぼ》えるようになつた次第《しだい》であります。
さて日本《につぽん》の上古《じようこ》から奈良朝《ならちよう》ごろまでの御陵《ごりよう》が、どういふ形《かたち》の塚《つか》から出來《でき》てゐるかといふことをお話《はな》しいたしませう。かの神代《かみよ》の三神《さんしん》、瓊瓊杵尊《にゝぎのみこと》、彦火火出見尊《ひこほほでみのみこと》それから※[#「顱のへん+鳥」、第3水準1−94−73]※[#「滋のつくり+鳥」、第3水準1−94−66]草茅葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》の御陵《ごりよう》は、今日《こんにち》九州《きゆうしゆう》の南《みなみ》の日向《ひうが》、大隅《おほすみ》、薩摩《さつま》の方《ほう》に定《さだ》められてありますが、それは神代《しんだい》の御陵《ごりよう》でありますから今《いま》は申《まを》しません。次《つ》ぎに第一代《だいゝちだい》の神武天皇《じんむてんのう》の御陵《ごりよう》は、大和《やまと》の畝傍山《うねびやま》の麓《ふもと》にあることは皆《みな》さんも知《し》つてをられるとほりであります。しかし、この神武天皇《じんむてんのう》の御陵《ごりよう》は久《ひさ》しく荒《あ》れはてゝをつて、實《じつ》はその形《かたち》もよくわかりませんし、場所《ばしよ》についてもいろ/\の説《せつ》がありますが、とにかくあまり大《おほ》きくない圓《まる》い塚《つか》であつたと思《おも》はれます。それから六七代《ろくしちだい》ばかりの天皇《てんのう》の御陵《ごりよう》も大和《やまと》の南《みなみ》の方《ほう》にありますが、やはり圓《まる》い塚《つか》であつたらしいのです。第十代《だいじゆうだい》崇神天皇《すじんてんのう》と、次《つ》ぎの垂仁天皇《すいにんてんのう》の頃《ころ》から、前《まへ》が角《かく》で後《うしろ》の圓《まる》い前方後圓《ぜんぽうこうえん》の立派《りつぱ》な車塚《くるまづか》が、築《きづ》かれるようになつたことは疑《うたが》ひありません。その垂仁天皇《すいにんてんのう》の時《とき》に、あの野見宿禰《のみのすくね》が埴輪《はにわ》を造《つく》つたと傳《つた》へられてゐることは前《まへ》に申《まを》しました。それから降《くだ》つて景行天皇《けいこうてんのう》、成務天皇《せいむてんのう》また神功皇后《じんぐうこう/″\》の[#「神功皇后《じんぐうこう/″\》の」は底本では「神后皇后《じんぐうこう/″\》の」]御陵《ごりよう》などは、皆《みな》奈良《なら》の南《みなみ》あるひは西《にし》の方《ほう》にありまして、やはり大《おほ》きな前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》でありますが、仲哀天皇《ちゆうあいてんのう》、應神天皇《おうじんてんのう》に至《いた》つて、始《はじ》めて河内《かはち》の南方《なんぽう》に御陵《ごりよう》がつくられ、次《つ》ぎの仁徳天皇《にんとくてんのう》から三代《さんだい》ばかりは、昔《むかし》は河内《かはち》の國《くに》であつたが今《いま》の和泉《いづみ》の國《くに》の北方《ほつぽう》、堺《さかひ》の附近《ふきん》に御陵《ごりよう》が設《まう》けられることになりました。ところがこの應神《おうじん》、仁徳兩天皇《にんとくりようてんのう》の御陵《ごりよう》は、日本《につぽん》の御陵中《ごりようちゆう》でも一番《いちばん》大《おほ》きい立派《りつぱ》な前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》と申《まを》すべきで、なかにも仁徳天皇《にんとくてんのう》の御陵《ごりよう》の周圍《しゆうい》は約半里《やくはんり》くらゐもあり、世界中《せかいじゆう》にかような大《おほ》きな古墳《こふん》は、エヂプトのぴらみっと[#「ぴらみっと」に傍点]を除《のぞ》いてはあまりないかと思《おも》はれます。そしてこの御陵《ごりよう》のごときは、二重《ふたへ》に堀《ほり》をめぐらし、その周圍《しゆうい》には陪塚《ばいちよう》といつて臣下《しんか》の人《ひと》だちの墓《はか》がたくさん竝《なら》んでをります。遠《とほ》くから見《み》ますと小山《こやま》のようであり、近《ちか》くに行《ゆ》きますと大《おほ》きな松《まつ》の木《き》が御陵《ごりよう》のまはりに生《は》え茂《しげ》つて實《じつ》に神々《かう/″\》しく、參拜者《さんぱいしや》は誰《たれ》でもその威嚴《いげん》に打《う》たれるのであります。(第六十三圖《だいろくじゆうさんず》)
[#「第六十三圖 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵」のキャプション付きの図(fig18371_64.png)入る]
仁徳天皇《にんとくてんのう》の御陵《ごりよう》と、應神天皇《おうじんてんのう》の御陵《ごりよう》とは、その大《おほ》きさが優《すぐ》れてゐるばかりでなく、歴史上《れきしじよう》から見《み》ても最《もつと》もたしかなもので、これが標準《ひようじゆん》になつてわれ/\は、その頃《ころ》日本《につぽん》に前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》が盛《さか》んに行《おこな》はれ、そして埴輪《はにわ》が飾《かざ》られてをつたことなどを知《し》ることが出來《でき》るのであります。それゆゑ考古學《こうこがく》の上《うへ》からも最《もつと》も貴重《きちよう》な御陵《ごりよう》と申《まを》さなければなりません。
それから六七代《ろくしちだい》の間《あひだ》、かの佛教《ぶつきよう》が日本《につぽん》にはひつて來《き》た時分《じぶん》、敏達天皇頃《びだつてんのうころ》[#ルビの「びだつてんのうころ」は底本では「びんたつてんのうころ」]までは、少《すこ》し形《かたち》は小《ちひ》さくなりましたけれども、やはり御陵《ごりよう》はみな前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》でありました。ところが用明天皇《ようめいてんのう》、推古天皇《すいこてんのう》、すなはち聖徳太子《しようとくたいし》の頃《ころ》の天皇《てんのう》から天智天皇頃《てんちてんのうころ》までは、支那《しな》の影響《えいきよう》を受《う》けた四角《しかく》な塚《つか》が御陵《ごりよう》に行《おこな》はれて、まったく樣子《ようす》が變《かは》つて來《き》ました。いま申《まを》した天皇樣《てんのうさま》の御陵《ごりよう》はたいてい大和《やまと》から河内《かはち》などにありますが、天智天皇御陵《てんちてんのうごりよう》は山城《やましろ》の國《くに》京都《きようと》の東《ひがし》の方《ほう》にありまして、四角《しかく》の塚《つか》で上部《じようぶ》が圓《まる》くなつてゐるといふことであります。この天智天皇御陵《てんちてんのうごりよう》にかたどつて、明治天皇《めいじてんのう》、昭憲皇太后《しようけんこうたいごう》[#「昭憲皇太后《しようけんこうたいごう》」は底本では「照憲皇太后《しようけんこうたいごう》」]、大正天皇《たいしようてんのう》の御陵《ごりよう》などもつくられたといふことであります。あなた方《がた》はこの御陵《ごりよう》へは參拜《さんぱい》したことがありませうが、あゝいふ風《ふう》に出來《でき》てをつたのです。
その後《ご》奈良朝《ならちよう》から平安朝《へいあんちよう》の始《はじ》めの御陵《ごりよう》になりますと、また昔《むかし》にかへって圓《まる》い形《かたち》の塚《つか》になりました。そして佛教《ぶつきよう》が盛《さか》んになつて來《き》てからは御陵《ごりよう》は一《いつ》そう簡單《かんたん》になり、また後《のち》には火葬《かそう》が行《おこな》はれまして、小《ちひ》さな御堂《おどう》や石《いし》の塔《とう》を御陵《ごりよう》に建《た》てることになり、ことに武家《ぶけ》が勢力《せいりよく》を占《し》めるに至《いた》つた時代《じだい》からは、皇室《こうしつ》の御陵《ごりよう》は甚《はなは》だ小《ちひ》さなものになつてしまつたのです。それに引《ひ》きかへて日光《につこう》にある徳川氏《とくがはし》の廟《びよう》があのとほり立派《りつぱ》なのを見《み》て、蒲生君平《がまうくんぺい》などが憤慨《ふんがい》して尊王《そんのう》の念《ねん》を起《おこ》したので、まことにむりのないことであります。それはとにかく、われ/\は日本《につぽん》の古《ふる》い時代《じだい》の御陵《ごりよう》を巡拜《じゆんぱい》すれば、一方《いつぽう》日本《につぽん》[#ルビの「につぽん」は底本では「たつぽん」]の古墳《こふん》の造《つく》り方《かた》の變遷《へんせん》をも知《し》ることが出來《でき》、歴史《れきし》の研究《けんきゆう》にも非常《ひじよう》に役《やく》に立《た》つわけでありますから、私《わたし》は皆《みな》さんがたゞ高《たか》い山《やま》などに登《のぼ》るばかりでなく、遠足《えんそく》のときにはかういふ方面《ほうめん》へも出《で》かけることをおすゝめいたします。
(ホ) 勾玉《まがたま》などの玉類《たまるい》
さて話《はなし》は前《まへ》に戻《もど》り古墳《こふん》の中《なか》には、どういふものが埋《うづ》められてゐるかと申《まを》しますと、石棺《せきかん》あるひは石室《せきしつ》の中《なか》、死體《したい》を收《をさ》めてあつた所《ところ》、しかももっともその體《からだ》に近《ちか》いところにあるものはその人《ひと》の身《み》につけてあつた著物《きもの》と飾《かざ》り物《もの》とであります。しかし著物《きもの》はみな腐《くさ》つてしまつて殘《のこ》つてをりませんが、飾《かざ》り物《もの》の中《うち》で一番《いちばん》眼《め》に立《た》つのは、まづ勾玉《まがたま》その他《た》の玉類《たまるい》であります。これはたいてい堅《かた》い石《いし》かがらす[#「がらす」に傍点]で造《つく》つてあるので、その色《いろ》もかはらず完全《かんぜん》に保存《ほぞん》せられてをり、それで發掘《はつくつ》されたとき、誰《たれ》にでもすぐに目《め》につき發見《はつけん》されやすいのであります。
これらの玉類《たまるい》は、もとは結《むす》びつらねて、頸《くび》から胸《むね》あるひは手頸《てくび》、脚頸《あしくび》など[#「など」は底本では「なと」]にめぐらしたものであることは、埴輪人形《はにわにんぎよう》に現《あらは》されてゐるのを見《み》てもわかります。
さて玉類《
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