か》の上《うへ》なぞに少《すこ》しく手《て》を加《くは》へた圓《まる》い塚《つか》だとか、前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》を築《きづ》いたのでありまして、その頂上《ちようじよう》には石《いし》の棺《かん》を收《をさ》めるといふのが普通《ふつう》のやり方《かた》でありました。また中《なか》には粘土《ねんど》で固《かた》めた棺《かん》のようなものもありました。そしてこの石棺《せきかん》といふものは、一番《いちばん》はじめは、自然《しぜん》の薄《うす》い板石《いたいし》を組《く》み合《あは》せて作《つく》つた、小《ちひ》さな箱《はこ》のようなものにすぎませんでしたが、それがだん/\大《おほ》きな石《いし》を用《もち》ひることになり、遂《つひ》には長《なが》さ一間以上《いつけんいじよう》もある、大《おほ》きな長持《ながもち》のような形《かたち》をしたものが造《つく》られるようになりました。こんな大《おほ》きい石棺《せきかん》になりますと、その石《いし》を運搬《うんぱん》するのに不便《ふべん》でありますから、石《いし》のまはりに疣《いぼ》のような突起《とつき》を數箇所《すうかしよ》に附《つ》けて、運《はこ》ぶのにつごうよくしてをりますが、後《のち》にはその突起《とつき》がまた飾《かざ》りの意味《いみ》にも役立《やくだ》つことになつたのであります。またその次《つ》ぎには石《いし》を組《く》み合《あは》せて棺《かん》を造《つく》ることをしないで、蓋《ふた》と身《み》とは別々《べつ/\》として、石《いし》をくり拔《ぬ》いて、大《おほ》きな棺《かん》を造《つく》るように進歩《しんぽ》して來《き》ました。この類《るい》の石棺《せきかん》の蓋《ふた》は、家《いへ》の屋根《やね》に似《に》た形《かたち》に出來《でき》てゐるのもあり、また竹《たけ》を二《ふた》つに割《わ》つた形《かたち》をしてゐるのもあります。もっとも、この蓋《ふた》にはやはり今《いま》お話《はなし》した突起《とつき》が四隅《よすみ》に附《つ》いてゐるのが普通《ふつう》であります。(第五十六圖《だいごじゆうろくず》)このような石棺《せきかん》はなか/\大《おほ》きく、立派《りつぱ》なものでありまして、その中《なか》には、死者《ししや》のふだん所持《しよじ》してゐた大切《たいせつ》な品物《しなもの》をも、一《いつ》しょに收《をさ》めたのでありますが、何分《なにぶん》空氣《くうき》が棺《かん》の中《なか》へ侵入《しんにゆう》するので、今日《こんにち》これを開《あ》けて見《み》ても骨《ほね》の遺《のこ》つてゐるのはごく稀《まれ》であつて、わづかに齒《は》が殘《のこ》つてゐるくらゐであります。しかし死者《ししや》と共《とも》に葬《はうむ》つた品物《しなもの》はたいてい遺《のこ》つてをります。それらの品物《しなもの》については後《のち》に述《の》べることにいたします。この石棺《せきかん》の他《ほか》に、陶棺《とうかん》といつて赤《あか》い埴輪《はにわ》のような燒《や》き物《もの》の棺《かん》があります。それはごく古《ふる》い時代《じだい》にもあつて、その時分《じぶん》はたゞ大《おほ》きな[#「大《おほ》きな」は底本では「大《おは》きな」]甕《かめ》や壺《つぼ》を合《あは》せて使《つか》つたのですが、後《のち》には石棺《せきかん》をまねて、やはり家形《いへがた》に似《に》た大《おほ》きな棺《かん》が出來《でき》ました。(第五十七圖《だいごじゆうしちず》)
[#「第五十六圖 日本古墳石棺」のキャプション付きの図(fig18371_57.png)入る]
[#「第五十七圖 日本古墳陶棺」のキャプション付きの図(fig18371_58.png)入る]
いまお話《はなし》したような石棺《せきかん》を塚《つか》に藏《をさ》めるときには、ぢかに土《つち》の中《なか》に埋《うづ》めたものもありますが、たいていは石棺《せきかん》の周《まは》りに當《あた》る場所《ばしよ》に、まづ石圍《いしかこ》ひをして、その中《なか》に石棺《せきかん》を納《い》れ、上《うへ》に蓋《ふた》をしたのであります。これを竪穴式石室《たてあなしきせきしつ》と呼《よ》んでゐる人《ひと》がありますが、實《じつ》は石《いし》の部屋《へや》といふほどのものではなく、たゞ簡單《かんたん》な石《いし》の圍《かこ》ひにすぎないのであります。ところが、その後《ご》多分《たぶん》朝鮮《ちようせん》支那《しな》の風《ふう》が傳《つた》はつたのでありませうが、横《よこ》からはひる長《なが》い石《いし》の部屋《へや》が塚《つか》の中《なか》に造《つく》られることになりました。この石《いし》の室《しつ》は、圓塚《まるづか》ではたいていその前《まへ》の方《ほう》(南《みなみ》に向《む》いたものが多《おほ》いのですが)に口《くち》を開《ひら》いてをり、前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》では、後《うしろ》の方《ほう》の圓《まる》い丘《をか》の横《よこ》に入《い》り口《ぐち》を開《ひら》いてゐるのが普通《ふつう》であります。この石室《せきしつ》の大《おほ》きさや形《かたち》は、いろ/\種類《しゆるい》がありますが、なかには綺麗《きれい》な切《き》り石《いし》で造《つく》つたものもありますし、また、さう手《て》を加《くは》へない重《おも》さ何噸《なんとん》といふほどの大《おほ》きな石《いし》を用《もち》ひて、造《つく》つたのも少《すくな》くはありません。この石室《せきしつ》の入《い》り口《ぐち》は一體《いつたい》に低《ひく》く狹《せま》くて、大人《おとな》が體《からだ》をかゞめてはひらねばならぬくらゐですが、内部《ないぶ》は廣《ひろ》くて天井《てんじよう》は人間《にんげん》の身長《しんちよう》よりも高《たか》いのが普通《ふつう》で、中《なか》には身長《しんちよう》の二倍《にばい》ぐらゐのものもあります。この石室《せきしつ》の作《つく》り方《かた》は西洋《せいよう》の『どるめん[#「どるめん」に傍点]』あるひは『石《いし》の廊下《ろうか》』といふものに非常《ひじよう》に似《に》てゐますけれども、日本《につぽん》のは西洋《せいよう》のものゝように古《ふる》いものではなく、また本當《ほんとう》の『どるめん[#「どるめん」に傍点]』といふほど簡單《かんたん》なものは、日本《につぽん》ではほとんど見當《みあた》りません。(第五十八《だいごじゆうはち》、九圖《くず》)
[#「第五十八圖 日本古墳石室」のキャプション付きの図(fig18371_59.png)入る]
[#「第五十九圖 日本古墳石室」のキャプション付きの図(fig18371_60.png)入る]
石室《せきしつ》の中《なか》には、たいてい石棺《せきかん》を一《ひと》つ入《い》れてありますが、また二《ふた》つ以上《いじよう》の石棺《せきかん》を入《い》れたのもあります。例《たと》へば河内《かはち》にある聖徳太子《しようとくたいし》の御墓《おはか》には、太子《たいし》の母后《ぼこう》と、太子《たいし》の妃《きさき》と三人《さんにん》の御棺《おかん》を容《い》れてあるとのことです。また中《なか》には死者《ししや》を石棺《せきかん》でなく木棺《もくかん》にいれて葬《はうむ》つた石室《せきしつ》も多《おほ》くあります。これは木棺《もくかん》はくさつてしまつても、それに使《つか》つた鐵《てつ》の釘《くぎ》などが殘《のこ》つてゐるのでわかります。元來《がんらい》以前《いぜん》は一《ひと》つの塚《つか》には一人《ひとり》しか葬《はうむ》らなかつたのが、この石室《せきしつ》を造《つく》る時代《じだい》になつてからは、一人《ひとり》だけを葬《はうむ》る場合《ばあひ》もありましたが、家族《かぞく》の者《もの》をも一《ひと》つの石室《せきしつ》に葬《はうむ》る風《ふう》が出來《でき》たかと思《おも》はれます。皆《みな》さんは、かような石《いし》の室《むろ》にはひつたことがありますか。大《おほ》きい石室《せきしつ》は奧行《おくゆ》きが十間近《じつけんちか》くもあり、室内《しつない》は眞暗《まつくら》ですから大《たい》そう氣味《きみ》の惡《わる》いものでありますが、蝋燭《ろうそく》を點《とも》したり、懷中電燈《かいちゆうでんとう》を携《たづさ》へて行《ゆ》きますと、内部《ないぶ》の模樣《もよう》がよくわかります。内部《ないぶ》は案外《あんがい》綺麗《きれい》でありますから、ちょっとこゝで住居《じゆうきよ》してもよいと思《おも》ふほどであります。道理《どうり》で時《とき》には乞食《こじき》などが、この石室《せきしつ》に住《す》んだりしてをります。冬《ふゆ》は暖《あたゝか》くて夏《なつ》は涼《すゞ》しいので、住居《じゆうきよ》には申《まを》し分《ぶん》がないといふことです。
[#「第六十圖 吉見[#「吉見」は底本では「横見」]百穴」のキャプション付きの図(fig18371_61.png)入る]
また古墳《こふん》の中《なか》には横穴《よこあな》といつて、山《やま》の崖《がけ》のようなところに、横《よこ》に穴《あな》をあけたのがあります。つまり塚《つか》をこしらへるのを儉約《けんやく》して、自然《しぜん》の崖《がけ》を利用《りよう》し、たゞ部屋《へや》だけを作《つく》つたものといふことが出來《でき》ます。これはたいてい一《ひと》つところに多《おほ》くの穴《あな》が群集《ぐんしゆう》して、なかには蜂《はち》の巣《す》のようにたくさんの横穴《よこあな》が遺《のこ》つてゐるのもあります。その名高《なだか》いものには埼玉縣《さいたまけん》の吉見《よしみ》の百穴《ひやくあな》といふのがあります。以前《いぜん》はこの横穴《よこあな》をば、人間《にんげん》が穴住居《あなずまゐ》をしてゐた跡《あと》だと考《かんが》へてをりましたが、やはり昔《むかし》の人《ひと》の墓場《はかば》なのです。それですからこの横穴《よこあな》は古墳《こふん》の石室《せきしつ》と同《おな》じ意味《いみ》のものでありまして、その作《つく》り方《かた》と大體《だいたい》[#ルビの「だいたい」は底本では「だいてい」]においてよく似《に》てをります。しかしたいていはそれほど大《おほ》きくはなく、四角《しかく》あるひは圓《まる》い部屋《へや》が一《ひと》つあるくらゐですが、時《とき》に珍《めづら》しいのになりますと、横穴《よこあな》の中《なか》に石棺《せきかん》が造《つく》つてあつたり、石《いし》の床《とこ》が三方《さんぽう》に設《まう》けて死體《したい》を置《お》くようになつてあつたり、天井《てんじよう》に家屋《かおく》の屋根《やね》をまねてあるのもあつたり、内部《ないぶ》に刀劍《とうけん》の形《かたち》を彫《ほ》つたものなどがあります。しかしまづそんなのは例外《れいがい》であつて、普通《ふつう》はなんの裝飾《そうしよく》もなく簡單《かんたん》な小《ちひ》さな穴《あな》に過《す》ぎません。(第六十一圖《だいろくじゆういちず》)
[#「第六十一圖 日本古墳横穴」のキャプション付きの図(fig18371_62.png)入る]
(ニ) 上古《じようこ》の帝陵《ていりよう》
今《いま》まで私《わたし》はわが國《くに》の古墳《こふん》の形《かたち》と構造《こうぞう》について述《の》べてまゐり、次《つ》ぎには古墳《こふん》から發見《はつけん》せられる、いろ/\の品物《しなもの》についてお話《はなし》をするつもりでありますが、その前《まへ》にごく古《ふる》い時代《じだい》の天皇樣《てんのうさま》の御陵《ごりよう》、すなはち『みさゝぎ』について、少《すこ》し申《まを》し上《あ》げたいと思《おも》ひます。
[#「第六十二圖 蒲生君平」のキャプション付きの図(fig18371_63.png)入る]
元來《がんらい》日本《につぽん》の古墳《こふん》の研究《けんきゆう》は、かの
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