》へによりますと、垂仁天皇《すいにんてんのう》の時《とき》に、天皇《てんのう》の御弟倭彦命《おんおとうとやまとひこのみこと》が薨去《こうきよ》になつた際《さい》、その頃《ころ》貴人《きじん》が死《し》ぬと、家臣《かしん》などが殉死《じゆんし》といつて、お伴《とも》に死《し》ぬ習慣《しゆうかん》がありましたので、多《おほ》くの家臣《かしん》が命《みこと》のお伴《とも》をして生《い》きながら墓場《はかば》に埋《うづ》められました。ところがなか/\死《し》に切《き》れないので、その悲《かな》しい泣《な》き聲《ごゑ》が、天皇《てんのう》の御殿《ごてん》にまで聞《きこ》えて來《き》ました。それで、天皇《てんのう》は殉死《じゆんし》の風俗《ふうぞく》は甚《はなは》だ人情《にんじよう》にそむいた殘酷《ざんこく》なことであるから、これはどうしてもやめなければならぬとお考《かんが》へになりました。その後《ご》數年《すうねん》を經《へ》て、皇后日葉酢媛命《こうごうひはすひめのみこと》が御崩御《ごほうぎよ》になりました時《とき》に、野見宿禰《のみのすくね》といふ者《もの》がありまして、天皇《てんのう》に今後《こんご》は土《つち》でもつて人間《にんげん》の像《ぞう》を作《つく》り、それを人間《にんげん》の代《かは》りに埋《うづ》めましたならば、古《ふる》くから傳《つた》はつてゐる風俗《ふうぞく》をも保存《ほぞん》し、また人間《にんげん》を生《い》き埋《うづ》めにするような、可愛《かわい》そうなことをなくすることが出來《でき》ると思《おも》ひますと申《まを》し上《あ》げましたので、天皇《てんのう》は、それは眞《まこと》によい思《おも》ひつきであると御賞《おほ》めになつて、それからは土《つち》で作《つく》つた人間《にんげん》などの像《ぞう》を墓《はか》の側《そば》に埋《うづ》めることになつたのだといふことです。元來《がんらい》墓《はか》の周圍《しゆうい》に、一《ひと》つは土《つち》が崩《くづ》れないように、もう一《ひと》つは飾《かざ》りのために、土《つち》で作《つく》つた筒形《つゝがた》の陶器《とうき》を竝《なら》べて埋《うづ》めるといふことは、その以前《いぜん》からもあつたように思《おも》はれますから、この野見宿禰《のみのすくね》のような人《ひと》は、支那《しな》で行《おこな》はれた石《いし》で造《つく》つた人間像《にんげんぞう》や動物《どうぶつ》の像《ぞう》を墓側《はかそば》に立《た》てる風俗《ふうぞく》を聞《き》いて、それを土《つち》で作《つく》ることに考《かんが》へついたのかも知《し》れません。この野見宿禰《のみのすくね》といふ人《ひと》は、あの相撲《すまふ》をはじめたといはれてゐる同《おな》じ人《ひと》であります。とにかく埴輪《はにわ》といふものが垂仁天皇《すいにんてんのう》の御代前後《みよぜんご》から始《はじ》まつて、四五百年《しごひやくねん》ぐらゐもつゞいたことは確《たしか》らしいのであります。この埴輪《はにわ》といふ言葉《ことば》の埴《はに》といふのは粘土《ねんど》といふことで、輪《わ》といふのは輪《わ》の形《かたち》に竝《なら》べることから出《で》た名前《なまへ》だといふことであります。それで私共《わたしども》が古墳《こふん》へ行《い》つても、埴輪《はにわ》の人形《にんぎよう》や、筒形《つゝがた》のものゝ破片《はへん》などが發見《はつけん》された時《とき》には、その塚《つか》がごく古《ふる》いこの時代《じだい》のものであることを、推定《すいてい》することが出來《でき》るのであります。
[#「第五十二圖 日本古墳埴輪人物」のキャプション付きの図(fig18371_53.png)入る]
 さて埴輪《はにわ》の筒形《つゝがた》のものは、墓《はか》の丘《をか》のまはり、時《とき》には堀《ほり》の外側《そとがは》の土手《どて》にも、一重《ひとへ》二重《ふたへ》あるひは三重《みへ》にも、取《と》り繞《めぐ》らされたのであり、また塚《つか》の頂上《ちようじよう》には家形《いへがた》や、それに似《に》た大《おほ》きな埴輪《はにわ》を置《お》いたものであることは、今《いま》までもわかつてをりましたが、人間《にんげん》や動物《どうぶつ》の埴輪《はにわ》などはどこへ立《た》てたものか、はっきりしたことが、わからなかつたのであります。ところが、最近《さいきん》に上野《かうづけ》の國《くに》のある前方後圓《ぜんぽうこうえん》の古墳《こふん》では、周圍《しゆうい》の堀《ほり》の外側《そとがは》、ちょうど墓《はか》の前《まへ》のところに、筒形《つゝがた》のものを長《なが》い間《あひだ》二重《ふたへ》に竝《なら》べ、その一部分《いちぶぶん》に人間《にんげん》や馬《うま》や鳥《とり》の埴輪《はにわ》を集《あつ》めて立《た》てたのが發見《はつけん》されました。また、ある圓形《えんけい》の墓《はか》では塚《つか》のまはりに筒形《つゝがた》を竝《なら》べ、その前《まへ》のところに人形《にんぎよう》を立《た》てゝあるのが掘《ほ》り出《だ》されました。それでだいぶよくわかつて來《き》ましたが、つまり墓《はか》の前《まへ》とか、墓《はか》の周《まは》りの要所々々《ようしよ/\》と思《おも》はれるところに、人間《にんげん》や馬《うま》や鳥《とり》などの像《ぞう》を竝《なら》べたものに相違《そうい》ありません。
[#「第五十三圖 日本古墳埴輪動物」のキャプション付きの図(fig18371_54.png)入る]
[#「第五十四圖 日本古墳家形埴輪その他」のキャプション付きの図(fig18371_55.png)入る]
 さてこの埴輪《はにわ》はどういふ燒《や》き物《もの》かといひますと、細《ほそ》い刷毛目《はけめ》の線《せん》のはひつた赤色《あかいろ》の素燒《すや》きでありまして、人間《にんげん》の像《ぞう》はたいてい二三尺《にさんじやく》くらゐの高《たか》さで、男子《だんし》もあり婦人《ふじん》もあります。そして男子《だんし》のものには、身《み》に甲胄《かつちゆう》をつけ劍《つるぎ》を佩《は》いてゐる勇《いさ》ましい形《かたち》をしたのがあり、婦人《ふじん》の像《ぞう》には、髮《かみ》を結《むす》びたすき[#「たすき」に傍点]をかけ、何《なに》か品物《しなもの》を捧《さゝ》げてゐるようなのもあります。そして顏《かほ》には赤《あか》い紅《べに》を塗《ぬ》つたのだとか、少《すこ》し口元《くちもと》を歪《ゆが》めて悲《かな》しそうな表情《ひようじよう》をしたものもあります。いづれも至《いた》つて粗末《そまつ》な簡單《かんたん》な人形《にんぎよう》で、脚《あし》の方《ほう》はたいてい一本《いつぽん》の筒形《つゝがた》になり、足《あし》の先《さき》まで現《あらは》してあるのは稀《まれ》であります。しかし、そのうちに、なんともいへない無邪氣《むじやき》な顏《かほ》つきや樣子《ようす》をしてゐるところなど、いかにも昔《むかし》の人《ひと》の飾《かざ》り氣《け》のない心《こゝろ》が窺《うかゞ》はれるばかりでなく、當時《とうじ》の人《ひと》の風俗《ふうぞく》だとか服裝《ふくそう》なども、これによつて知《し》ることが出來《でき》ますから、なか/\大切《たいせつ》なものであります。次《つ》ぎに動物《どうぶつ》の像《ぞう》には馬《うま》が一等《いつとう》多《おほ》く、それには轡《くつわ》だとか鞍《くら》だとかの馬具《ばぐ》をつけてゐるところが見《み》られます。また脚《あし》の方《ほう》は、やはりたいてい筒形《つゝがた》になつて實際《じつさい》の馬《うま》の脚《あし》のようには作《つく》られてをりませんが、そこにかへって面白味《おもしろみ》があります。馬《うま》の他《ほか》動物《どうぶつ》の像《ぞう》には、牛《うし》だとか猿《さる》だとか猪《ゐのしゝ》だとか、また鴨《かも》や鷄《にはとり》などもあり、なか/\面白《おもしろ》いです。その他《た》のものには家《いへ》の形《かたち》もあり、その屋根《やね》には、今日《こんにち》私共《わたしども》が伊勢大神宮《いせだいじんぐう》の建築《けんちく》で見《み》るような、ちぎ[#「ちぎ」に傍点]やかつをぎ[#「かつをぎ」に傍点]を載《の》せてゐるのもありますが、また劍《つるぎ》や靫《ゆき》や巴《ともゑ》といふようなものを模《も》してあるのも發見《はつけん》されます。とにかくこの埴輪《はにわ》といふものは、なか/\面白《おもしろ》いもので、日本人《につぽんじん》の作《つく》つた一番《いちばん》古《ふる》い彫刻物《ちようこくぶつ》といふことが出來《でき》、昔《むかし》の人《ひと》の生活《せいかつ》や風俗《ふうぞく》を知《し》る上《うへ》に最《もつと》もよい材料《ざいりよう》の一《ひと》つであります。また埴輪《はにわ》のあることによつて、その塚《つか》のごく古《ふる》いこともわかるのでありますから、考古學《こうこがく》の研究上《けんきゆうじよう》非常《ひじよう》に大切《たいせつ》なものとせられてをりますが、何分《なにぶん》お墓《はか》の外《そと》に立《た》てゝあつたので、長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》に雨風《あめかぜ》にさらされて壞《こは》れてしまひ、完全《かんぜん》に殘《のこ》つてゐるものが極《きは》めて少《すくな》いのは殘念《ざんねん》なことであります。この部屋《へや》には、たゞ今《いま》お話《はなし》した人間《にんげん》や馬《うま》の埴輪《はにわ》の實物《じつぶつ》を始《はじ》め、今《いま》までに發見《はつけん》された面白《おもしろ》い埴輪《はにわ》の模型《もけい》などが陳列《ちんれつ》してありますから、よく御覽《ごらん》になつて、今後《こんご》古墳《こふん》を調《しら》べる時《とき》に、こんなものゝ破片《はへん》などが落《お》ちてゐるかどうかを注意《ちゆうい》されるように望《のぞ》みます。(第五十二《だいごじゆうに》、三《さん》、四圖《しず》)
[#「第五十五圖 石人」のキャプション付きの図(fig18371_56.png)入る]
 また埴輪《はにわ》の人形《にんぎよう》や馬《うま》と同《おな》じ形《かたち》のものを、石《いし》で作《つく》つてお墓《はか》に立《た》てたこともありました。これを石人《せきじん》、石馬《せきば》などゝ申《まを》してをります。しかしこれは日本《につぽん》のごく一部《いちぶ》に行《おこな》はれたゞけで、九州《きゆうしゆう》の筑後《ちくご》や肥後《ひご》などに時々《とき/″\》見《み》ることが出來《でき》ます。筑後《ちくご》には昔《むかし》繼體天皇《けいたいてんのう》の御時《おんとき》、磐井《いはゐ》といふ強《つよ》い人《ひと》がをつて、朝鮮《ちようせん》の新羅《しらぎ》の國《くに》と同盟《どうめい》して、天皇《てんのう》の命《めい》に背《そむ》いたので、とう/\征伐《せいばつ》されてしまひましたが、この人《ひと》は生《い》きてゐる時分《じぶん》から、石《いし》でお墓《はか》を作《つく》り、石《いし》の人形《にんぎよう》などを立《た》てゝ、豪勢《ごうせい》を示《しめ》してゐたといふことが、古《ふる》い書物《しよもつ》にでてをります。ちょうどこの磐井《いはゐ》のをつた地方《ちほう》に、今《いま》も石人《せきじん》石馬《せきば》が多《おほ》く殘《のこ》つてゐるのは面白《おもしろ》いことです。(第五十五圖《だいごじゆうごず》)

      (ハ) 石棺《せきかん》と石室《せきしつ》

 古墳《こふん》の形《かたち》と、それから外側《そとがは》に立《た》つてゐた埴輪《はにわ》について、たゞいま一通《ひととほ》りお話《はなし》したのでありますが、これからは、古墳《こふん》の内部《ないぶ》にある石棺《せきかん》と石室《せきしつ》のお話《はなし》をいたしませう。日本《につぽん》の古墳《こふん》は元來《がんらい》小高《こだか》い丘《を
前へ 次へ
全29ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング