》を始《はじ》め他《ほか》の建築物《けんちくぶつ》の遺蹟《いせき》が多數《たすう》に殘《のこ》つてゐるのでありますが、日本《につぽん》では今日《こんにち》と同《おな》じように、多《おほ》く木材《もくざい》で家《いへ》を建《た》てたので、その跡《あと》はまったくなくなつて殘《のこ》つてをりません。たゞ、今少《いますこ》し後《のち》の時代《じだい》のお寺《てら》や宮殿《きゆうでん》などから、柱《はしら》の礎《いしずゑ》や瓦《かはら》がたくさんみつかるだけであります。また日本《につぽん》は島國《しまぐに》であつて、外國人《がいこくじん》から攻《せ》められるといふ心配《しんぱい》もありませんでしたから、城《しろ》を築《きづ》く必要《ひつよう》も少《すくな》くなかつたので、さうした種類《しゆるい》の遺蹟《いせき》もたくさんはありません。たゞ遺《のこ》つてゐるのは、その時分《じぶん》の人《ひと》の造《つく》つたお墓《はか》であります。この墓《はか》は形《かたち》も大《おほ》きく大《たい》さう岩乘《がんじよう》に造《つく》られてありますから、千年《せんねん》二千年後《にせんねんご》の今日《こんにち》まで、幸《さいは》ひ元《もと》のまゝで遺《のこ》つてゐるものがたくさんあり、古《ふる》く日本人《につぽんじん》が住《す》んでゐたところは、南《みなみ》は九州《きゆうしゆう》から北《きた》は東北地方《とうほくちほう》に至《いた》るまで、どこでも必《かなら》ずこの古《ふる》い墓《はか》を見《み》ることが出來《でき》ます。しかし墓《はか》の他《ほか》には、僅《わづ》かに陶器《とうき》を造《つく》つた窯跡《かまあと》のようなものがあるくらゐで、ほとんどいふに足《た》るものはありません。それで私《わたし》も、これから皆《みな》さんと一《いつ》しょに私共《わたしども》の祖先《そせん》の造《つく》つた古《ふる》いお墓《はか》がどういふものであつたか、またそのお墓《はか》の中《なか》からどういふものが發見《はつけん》されるかを見《み》て行《ゆ》きたいと思《おも》ひます。そしてこれをよく調《しら》べると、その時分《じぶん》の人《ひと》がいかなる文化《ぶんか》をもつてゐたかとか、どういふ技術《ぎじゆつ》の所有者《しよゆうしや》であつたかといふことがわかりますので、お墓《はか》を研究《けんきゆう》することは歴史《れきし》の書物《しよもつ》を讀《よ》むのと少《すこ》しも變《かは》らないのであります。
[#「第五十一圖 日本古墳の外形」のキャプション付きの図(fig18371_52.png)入る]
さて日本人《につぽんじん》の古《ふる》い墓《はか》は今日《こんにち》のように石碑《せきひ》や石塔《せきとう》を立《た》てたのではなく、たいてい土饅頭《つちまんじゆう》のように高《たか》くなつてゐるので、私共《わたしども》はこれを高塚《たかつか》とか、古墳《こふん》と申《まを》してをります。そのうち一番《いちばん》古《ふる》い形《かたち》で、また一番後《いちばんのち》まで遺《のこ》つてゐたのは圓形《まるがた》の塚《つか》であります。一《いつ》たい圓《まる》い塚《つか》は、どこの國《くに》でも昔《むかし》からあるのでありまして、人間《にんげん》の死體《したい》をまづ地上《ちじよう》に置《お》いた上《うへ》に土《つち》を盛《も》りかけると、自然《しぜん》に圓《まる》い塚《つか》の形《かたち》が出來《でき》るのでありますから、どこの國《くに》の人間《にんげん》でも、自然《しぜん》にかうした塚《つか》を造《つく》ることになるのであります。ところがこの圓《まる》い塚《つか》を、土《つち》で死體《したい》の上《うへ》をおほふばかりでなく、次第《しだい》に立派《りつぱ》に造《つく》るようになりまして、高《たか》さも高《たか》くなり、周圍《しゆうい》もだん/\大《おほ》きくなつて行《ゆ》きまして、あるひは鏡餅《かゞみもち》を重《かさ》ねたように、圓《まる》い塚《つか》に段々《だん/\》をつけたような形《かたち》も出來《でき》てまゐりました。しかし、世界中《せかいじゆう》どこにもあるこの圓《まる》い塚《つか》の他《ほか》に、日本《につぽん》では他國《たこく》に見《み》ることの出來《でき》ない一種《いつしゆ》の型《かた》の塚《つか》が作《つく》られたのです。それは圓《まる》い塚《つか》の前《まへ》の方《ほう》が延《の》びて四角《しかく》になつた形《かたち》で、ちょっと昔《むかし》の口《くち》の廣《ひろ》い壺《つぼ》を伏《ふ》せて、横《よこ》から見《み》たような形《かたち》をしてゐるものであります。あるひはお茶《ちや》をひく茶臼《ちやうす》の形《かたち》にも似《に》てゐるところがあり、また車《くるま》の形《かたち》にも似《に》てゐますので、罐子塚《かんすづか》だとか、茶臼塚《ちやうすづか》とか、車塚《くるまづか》だとか、いろ/\の名《な》がついてをりますが、私共《わたしども》は前方後圓《ぜんぽうこうえん》の塚《つか》と呼《よ》んでをります。それは前《まへ》が四角《しかく》で後《うしろ》が圓《まる》いといふ意味《いみ》であります。この塚《つか》の模型《もけい》は特《とく》に置《お》いてありますから、それを御覽《ごらん》になるとよくわかります。またその後《うしろ》の圓《まる》いところと、前《まへ》の四角《しかく》なところとのつなぎめのところの兩側《りようがは》に、小《ちひ》さい圓《まる》い丘《をか》がついてゐることがあります。それがいかにも車《くるま》の兩輪《りようりん》に似《に》てゐますから、昔《むかし》の人《ひと》が車塚《くるまづか》といつたのは面白《おもしろ》い見《み》かただと思《おも》ひます。もっともこの形《かたち》の古墳《こふん》は、昔《むかし》でも偉《えら》い人《ひと》を葬《はうむ》るために造《つく》つたものでありまして、天皇樣《てんのうさま》だとか、皇族《こうぞく》の方々《かた/″\》の御墓《おはか》に多《おほ》く用《もち》ひたのでありまして、下々《しも/″\》のものはやはり、圓《まる》い塚《つか》を用《もち》ひたのであります。その大《おほ》きいものになりますと、周圍《しゆうい》が十町以上《じつちよういじよう》のものもあり、外側《そとがは》に、たいてい堀《ほり》をめぐらしてあります。この形《かたち》の塚《つか》は日本《にほん》に近《ちか》い朝鮮《ちようせん》や支那《しな》においても、けっして見《み》ることの出來《でき》ない、實《じつ》に日本獨特《につぽんどくとく》のものといつてよろしい。しかし、どうしてかような形《かたち》の塚《つか》が出來《でき》たかといふことについては、種々《しゆ/″\》議論《ぎろん》もありますが、どうもはつきりはわかりません。(第五十一圖《だいごじゆういちず》下《した》)
また一方《いつぽう》には古《ふる》くからある圓《まる》い塚《つか》から、だん/\變化《へんか》して四角《しかく》な形《かたち》の古墳《こふん》も出來《でき》て來《き》ましたが、この四角《しかく》の形《かたち》の塚《つか》は、支那《しな》では古《ふる》く秦《しん》や漢《かん》の時代《じだい》から天子《てんし》の墓《はか》などにあつたもので、それを日本《につぽん》が支那《しな》と交通《こうつう》を始《はじ》めてから後《のち》にまねたものが多《おほ》いようであります。そして天皇《てんのう》の御陵《ごりよう》などにこの四角《しかく》の形《かたち》のお墓《はか》が造《つく》られるようになりました。それですから日本《につぽん》の古《ふる》い墓《はか》の形《かたち》は、まづ圓《まる》いのと四角《しかく》なのと、前方後圓《ぜんぽうこうえん》なのとの三通《みとほ》りといふことが出來《でき》ます。その中《うち》最《もつと》も古《ふる》くからあつたのは圓塚《まるづか》、その次《つ》ぎに出來《でき》たのが前方後圓《ぜんぽうこうえん》、それから最後《さいご》に流行《りゆうこう》して來《き》たのは四角塚《しかくづか》でありますが、この前方後圓《ぜんぽうこうえん》と四角《しかく》な形《かたち》はやがて廢《すた》れてしまつて、奈良朝時代《ならちようじだい》からは、普通《ふつう》の圓塚《まるづか》が專《もつぱ》ら行《おこな》はれるようになりました。
さて今《いま》申《まを》したいろ/\の形《かたち》の古墳《こふん》は、今日《こんにち》遺《のこ》つてゐるものには、たいてい松《まつ》の木《き》や他《た》の樹木《じゆもく》が生《は》え繁《しげ》つて、遠方《えんぽう》から眺《なが》めると、こんもりした森《もり》のように見《み》えるのですが、昔《むかし》はそんなに樹木《じゆもく》が生《は》えてゐたわけでなく、たいていそれらの塚《つか》の上《うへ》には、圓《まる》い磧石《かはらいし》を載《の》せて、全體《ぜんたい》を蔽《おほ》うてをつたものでありました。ちょうど今日《こんにち》、明治天皇《めいじてんのう》や大正天皇《たいしようてんのう》の御陵《ごりよう》において拜《をが》めるように、樹木《じゆもく》が生《は》えないようにしてあつたのです。それが年月《としつき》を經《へ》るに從《したが》つて石《いし》が崩《くづ》れたり、その中《なか》に木《き》の種《たね》が落《お》ちて芽《め》を出《だ》したりして、塚《つか》の上《うへ》に樹木《じゆもく》が茂《しげ》つて來《き》たのであります。もっとも墓《はか》の周圍《しゆうい》などには、昔《むかし》はおまゐりする時《とき》に、お供《そな》へ物《もの》をしたり、おまつりをするために、いろ/\のものが置《お》いてあつたに違《ちが》ひありませんが、それらの器物《きぶつ》は今日《こんにち》ではたいてい土《つち》に埋《うづ》もれて見《み》えなくなつたり、壞《こは》れてなくなつてしまつて、遺《のこ》つてゐるものは甚《はなは》だ少《すくな》いのであります。たゞ埴輪《はにわ》といつて、人《ひと》の像《ぞう》や動物《どうぶつ》の形《かたち》や壺《つぼ》の形《かたち》を土《つち》で造《つく》つたものが竝《なら》べてあつたことは、その殘《のこ》り物《もの》があるのでわかります。またこれらの墓《はか》の中《なか》には、死骸《しがい》をぢかに入《い》れたのではなく、石《いし》で造《つく》つた石棺《せきかん》だとか、石《いし》で造《つく》つた大《おほ》きい石《いし》の部屋《へや》が設《まう》けられて、その中《なか》に石棺《せきかん》あるひは木棺《もくかん》に、死骸《しがい》を納《をさ》めて葬《はうむ》られたのであります。私《わたし》はこれからまづ、墓《はか》の外《そと》にめぐらしてあつた、埴輪《はにわ》についてお話《はなし》をいたしまして、それから墓《はか》の中《なか》の石棺《せきかん》や、石《いし》の部屋《へや》のことに話《はなし》を進《すゝ》めませう。
(ロ) 埴輪《はにわ》と石人《せきじん》
さてお隣《とな》りの支那《しな》では、漢《かん》の時代頃《じだいころ》から後《のち》、墓《はか》の中《なか》に土《つち》で作《つく》つた人形《にんぎよう》や動物《どうぶつ》の像《ぞう》、その他《ほか》いろ/\の品物《しなもの》の形《かたち》を入《い》れ、また陵墓《りようぼ》の前《まへ》に石《いし》で造《つく》つた人間《にんげん》や動物《どうぶつ》の像《ぞう》を竝《なら》べて飾《かざ》りとすることが流行《はやり》だしましたが、日本《につぽん》でもまた古《ふる》く前方後圓《ぜんぽうこうえん》の古墳《こふん》が造《つく》られた時分《じぶん》には墓《はか》の前《まへ》などに、土《つち》で造《つく》つた人間《にんげん》や動物《どうぶつ》の像《ぞう》を竝《なら》べる習慣《しゆうかん》がありました。この土《つち》で造《つく》つた像《ぞう》を埴輪《はにわ》樹《た》て物《もの》と申《まを》します。昔《むかし》からの傳《つた
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