どその頃《ころ》支那《しな》に出來《でき》た古《ふる》い錢《ぜに》が、一《いつ》しょに發見《はつけん》されるからであります。その古錢《こせん》は小刀《こがたな》の形《かたち》をした刀錢《とうせん》や鍬《くは》の形《かたち》をした布泉《ふぜん》といふものでありまして、それが周《しゆう》の終《をは》り頃《ごろ》に出來《でき》た錢《ぜに》であるといふので、年代《ねんだい》が確《たしか》にきめられるのであります。日本《につぽん》には滿洲《まんしゆう》や北朝鮮《きたちようせん》よりも少《すこ》し後《おく》れて金屬《きんぞく》がはひつて來《き》たらしく思《おも》はれますが、それは今《いま》から二千年《にせんねん》ほど前《まへ》支那《しな》の王莽《おうもう》の頃《ころ》出來《でき》た貨泉《かせん》といふ錢《ぜに》が時々《とき/″\》出《で》るのでわかります。しかし金屬《きんぞく》がはひつて來《き》たからとてすぐに今《いま》までの石器《せつき》を悉《こと/″\》く捨《す》てゝ全部《ぜんぶ》金屬器《きんぞくき》を使《つか》ふようになつたのではありません。金屬《きんぞく》も最初《さいしよ》は分量《ぶんりよう》が僅《わづ》かで、貴重品《きちようひん》とせられてをつたのが、年《とし》を經《へ》てだん/\石器《せつき》に代《かは》つて行《い》つたのであり、初《はじ》めは石器《せつき》と同時《どうじ》に使用《しよう》せられてゐたものに相違《そうい》ありません。かういふ時代《じだい》を私共《わたしども》は金石併用期《きんせきへいようき》と呼《よ》んでをります。
[#「第五十圖 支那古錢」のキャプション付きの図(fig18371_48png)入る]
いま申《まを》したように、日本《につぽん》へ青銅器《せいどうき》がはひつて來《き》たのは支那《しな》からでありまして、それは多分《たぶん》滿洲朝鮮《まんしゆうちようせん》の海岸《かいがん》を經《へ》てはひつて來《き》たものと思《おも》はれますから、從《したが》つて日本《につぽん》では一番《いちばん》西《にし》の九州《きゆうしゆう》に初《はじ》めて傳《つた》はつたものと考《かんが》へられます。それがだん/\に東《ひがし》へ東《ひがし》へと進《すゝ》んで行《ゆ》きまして、五畿内地方《ごきないちほう》からその附近《ふきん》が金屬《きんぞく》を用《もち》ひる時代《じだい》になりましたが、東北地方《とうほくちほう》にはその後《ご》長《なが》く、石器時代《せつきじだい》の文化《ぶんか》が殘《のこ》つてゐたものと思《おも》はれます。
さて日本《につぽん》に、青銅《せいどう》が傳《つた》はつて、どういふものがまづ造《つく》られたかと申《まを》しますに、初《はじ》めはむろん支那《しな》あたりで造《つく》られた品物《しなもの》がそのまゝ持《も》つて來《こ》られたものと見《み》え、細《ほそ》い形《かたち》の銅劍《どうけん》などは支那《しな》のものとまったく同《おな》じものが日本《につぽん》からも出《で》て來《き》ます。だん/\月日《つきひ》の經《へ》るに從《したが》つて日本《につぽん》でも青銅器《せいどうき》を造《つく》るようになつたのでありますが、材料《ざいりよう》はやはり多《おほ》くは支那《しな》から持《も》つて來《き》たものでありまして、時《とき》には支那《しな》から輸入《ゆにゆう》した古錢《こせん》を鑄《ゐ》つぶして、他《ほか》の品物《しなもの》を造《つく》つたかも知《し》れません。今《いま》では銅貨《どうか》は補助貨幣《ほじよかへい》でありまして、本當《ほんとう》の價値《かち》だけ重分量《じゆうぶんりよう》をもつてをりませんけれども、昔《むかし》は支那《しな》などでは、銅貨《どうか》が主《おも》な貨幣《かへい》でありましたから、地金《じがね》と同《おな》じだけの價値《かち》があつたのです。ですからそれを地金《じがね》として鑄《ゐ》つぶしたのはむりではないと思《おも》はれます。日本《につぽん》で最初《さいしよ》造《つく》られた銅器《どうき》は前《まへ》よりは幅《はゞ》の廣《ひろ》い銅《どう》の劍《つるぎ》や鉾《ほこ》の類《るい》でありまして、その一《ひと》つはくりす[#「くりす」に傍点]型《がた》といふ劍《つるぎ》で、この劍《つるぎ》はつば[#「つば」に傍点]に當《あた》るところが斜《なゝめ》にまがつてゐます。これは支那《しな》の『戈《か》』といふ武器《ぶき》と同《おな》じように、劍《つるぎ》の頭《かしら》を柄《つか》に直角《ちよつかく》に横《よこ》にくっつけて使《つか》つたものと思《おも》はれるのであります。その次《つ》ぎは銅鉾《どうほこ》といふもので、幅《はゞ》の廣《ひろ》い大型《おほがた》のものでありまして、實用《じつよう》に使《つか》つたものでなく、何《なに》か儀式《ぎしき》にでも用《もち》ひたものと見《み》え、刃《やいば》のところも鋭《するど》くはなく、實際《じつさい》に使用《しよう》するものとしてはあまり大《おほ》きすぎるのです。(第四十七圖《だいしじゆうしちず》)これらの物《もの》が、日本《につぽん》で造《つく》られたといふ證據《しようこ》には、それを造《つく》る時《とき》に用《もち》ひた石《いし》の型《かた》が發見《はつけん》されるのでわかるのであります。この劍《つるぎ》や鉾《ほこ》の類《るい》は九州《きゆうしゆう》が最《もつと》も多《おほ》く發見《はつけん》されます。その他《た》では中國《ちゆうごく》や四國《しこく》などで出《で》るばかりで、東《ひがし》の方《ほう》東北地方《とうほくちほう》には今日《こんにち》までまだ一《ひと》つも發見《はつけん》されてをりません。とにかく支那《しな》のものと深《ふか》い關係《かんけい》のあることはたしかです。また石《いし》でもつてこの銅劍《どうけん》などの形《かたち》を作《つく》つたものが時々《とき/″\》發見《はつけん》せられますが、やはりこの時代《じだい》のものと思《おも》はれます。(第四十九圖《だいしじゆうくず》)
[#「第四十七圖 日本青銅器」のキャプション付きの図(fig18371_49.png)入る]
次《つ》ぎに、大體《だいたい》この頃《ころ》のものと思《おも》はれる銅器《どうき》に、銅鐸《どうたく》といふものがあります。これは少《すこ》し平《ひら》たい釣《つ》り鐘《がね》のような形《かたち》をしたもので、小《ちひ》さいものは四五寸《しごすん》、大《おほ》きいものになると四五尺《しごしやく》もあり、すてきに大《おほ》きなものであります。その表面《ひようめん》には袈裟襷《けさだすき》といつて、坊《ぼう》さんの袈裟《けさ》のように格子型《かうしがた》に區畫《くかく》した模樣《もよう》をつけたものや、また流水紋《りゆうすいもん》といつて長《なが》い渦卷《うづま》きの模樣《もよう》をつけたものもあり、時《とき》には人間《にんげん》や動物《どうぶつ》の形《かたち》を簡單《かんたん》に現《あらは》したものがついてをります。この銅鐸《どうたく》は今《いま》まで古墳《こふん》から出《で》たことはなく、岩《いわ》の間《あひだ》や、山《やま》かげなどからひょこっと出《で》るのが普通《ふつう》であり、そしてたくさんの數《かず》が一度《いちど》に出《で》ることも時々《とき/″\》あります。また九州地方《きゆうしゆうちほう》からは一《ひと》つも出《で》たことはなく、主《おも》に畿内《きない》から東海道方面《とうかいどうほうめん》にかけて多《おほ》く發見《はつけん》されるのであります。銅鐸《どうたく》はその形《かたち》が、釣《つ》り鐘《がね》のようでありますから、やはり樂器《がつき》ではあるまいかといふ人《ひと》もありますが、さて樂器《がつき》に使《つか》つた跡《あと》も見《み》られませんので、何《なに》か寶物《ほうもつ》として持《も》つてゐたものだらうと考《かんが》へるより仕方《しかた》がありません。劍《つるぎ》や鉾《ほこ》のように、これを鑄《ゐ》た型《かた》が日本《につぽん》では發見《はつけん》されないので、あるひは支那《しな》の方《ほう》から輸入《ゆにゆう》したものだらうといはれますが、支那《しな》には、これと同《おな》じ品物《しなもの》がありませんので、やはり日本《につぽん》で造《つく》つたとするより外《ほか》はないのであります。(第四十八圖《だいしじゆうはちず》)
[#「第四十八圖 日本銅鐸」のキャプション付きの図(fig18371_50.png)入る]
まづ今《いま》お話《はなし》したように、劍《つるぎ》と鉾《ほこ》と、それから銅鐸《どうたく》などが、青銅《せいどう》が初《はじ》めて日本《につぽん》へはひつた時分《じぶん》の遺物《いぶつ》でありますが、支那《しな》ではすでに漢《かん》の時代《じだい》から盛《さか》んに鐵《てつ》が使用《しよう》されるようになつてゐたので、日本《につぽん》へも間《ま》もなく鐵《てつ》がはひつて來《き》て、刀《かたな》その他《た》の武器《ぶき》に鐵《てつ》を用《もち》ひることゝなりました。それでヨーロッパの諸國《しよこく》や支那《しな》のように青銅器《せいどうき》の時代《じだい》といふものを區別《くべつ》するほどの間《あひだ》もなく、すぐに鐵器《てつき》の時代《じだい》に移《うつ》つてしまつたのです。そして日本《につぽん》は歴史《れきし》のある時代《じだい》にはひつて、われ/\の祖先《そせん》の遺《のこ》した品物《しなもの》が、だん/\と現《あらは》れて來《く》るのであります。皆《みな》さん、こゝにある銅劍《どうけん》や銅鉾《どうほこ》や銅鐸《どうたく》などを一巡《いちじゆん》御覽《ごらん》になつたら、次《つ》ぎの室《しつ》に行《ゆ》くことにいたしませう。
[#「第四十九圖 日本及び朝鮮石劍」のキャプション付きの図(fig18371_51.png)入る]
[#改ページ]
二、日本原史時代室《につぽんげんしじだいしつ》
(イ) 日本《につぽん》の古墳《こふん》
石《いし》の器物《きぶつ》ばかりを使《つか》つてゐた石器時代《せつきじだい》から、次《つ》ぎには少《すこ》しづゝ金屬《きんぞく》の器物《きぶつ》を用《もち》ひた時期《じき》を過《す》ぎて、日本《につぽん》も遂《つひ》に金屬《きんぞく》の利器《りき》を主《おも》に使用《しよう》するいはゆる金屬時代《きんぞくじだい》にはひりました。そしてその金屬《きんぞく》は前《まへ》にも申《まを》したとほり、青銅《せいどう》だけを使用《しよう》した時代《じだい》は極《きは》めて短《みじか》く、あるひはほとんどないくらゐで、すぐに鐵《てつ》を使《つか》ふ時代《じだい》になつたのであります。これと同時《どうじ》に、日本《につぽん》は歴史《れきし》のない時代《じだい》から、少《すこ》しづゝ歴史《れきし》がわかる時代《じだい》になつて來《き》たのであります。かようにまだ歴史《れきし》が十分《じゆうぶん》に明《あきら》かではないが、ぼんやりわかつて來《き》た時代《じだい》を、われ/\は原史時代《げんしじだい》といふのであります。
日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》の遺物《いぶつ》を殘《のこ》した人間《にんげん》は、どういふ人種《じんしゆ》であつたかといふことについてはいろ/\議論《ぎろん》がありますが、この原史時代《げんしじだい》にはひつて金屬《きんぞく》の器物《きぶつ》を使《つか》つてゐた人間《にんげん》になりますと、今日《こんにち》のわれ/\と同《おな》じ日本人《につぽんじん》であつたことが疑《うたが》ひないのであります。さてこの時代《じだい》の日本人《につぽんじん》の殘《のこ》した遺跡《いせき》には、どんなものがあるかと申《まを》しますと、古《ふる》くから石《いし》や煉瓦《れんが》で家屋《かおく》を造《つく》つた外國《がいこく》などでは、家屋《かおく
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