同《おな》じでないためでありまして、すなはち彌生式《やよひしき》の土器《どき》は、われ/\日本人《につぽんじん》の祖先《そせん》の石器時代《せつきじだい》のもので、繩紋式《じようもんしき》の土器《どき》は、アイヌの祖先《そせん》の石器時代《せつきじだい》のものであらうといふ人《ひと》がありますが、あるひはさうであるかも知《し》れません。また人種《じんしゆ》は同《おな》じでも、新《あたら》しい文化《ぶんか》がはひつて來《き》たゝめに、土器《どき》に相違《そうい》が出來《でき》て來《き》たのかも知《し》れないのです。だん/\調《しら》べて行《ゆ》きますと、この二《ふた》つの中《なか》ほどのものも時々《とき/″\》發見《はつけん》されるので、これを作《つく》つた人間《にんげん》に關《かん》する議論《ぎろん》はなか/\むつかしくなりますから、こゝではそれは止《よ》しにいたします。
[#「第四十四圖 日本石器時代及び金石併用期土器(彌生式)」のキャプション付きの図(fig18371_45.png)入る]
(ホ) 朝鮮《ちようせん》と支那《しな》の石器《せつき》
さて今《いま》まで、日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》の遺跡《いせき》と、そこから出《で》る品物《しなもの》について述《の》べて來《き》ましたが、次《つ》ぎに日本《につぽん》に近《ちか》い支那《しな》や朝鮮《ちようせん》などの石器時代《せつきじだい》は、どういふふうであるかといふことをこれから、少《すこ》しくお話《はなし》いたしませう。また支那朝鮮《しなちようせん》の石器時代《せつきじだい》の遺物《いぶつ》を參考《さんこう》のためにこゝに竝《なら》べて置《お》きましたから、皆《みな》さん御覽下《ごらんくだ》さい。
朝鮮《ちようせん》では、南方《なんぽう》からも北方《ほつぽう》からも石器時代《せつきじだい》の遺物《いぶつ》が出《で》ます。そしてこの國《くに》も、また古《ふる》い石器時代《せつきじだい》から開《ひら》けてゐたことがわかるのでありますが、日本《につぽん》に近《ちか》い南朝鮮《みなみちようせん》の邊《へん》には、日本《につぽん》の繩紋式土器《じようもんしきどき》に似《に》たような土器《どき》はほとんど發見《はつけん》せられません。どちらかといひますと、彌生式土器《やよひしきどき》に近《ちか》いものが出《で》まして、石器《せつき》も磨製《ませい》のもので、石斧以外《せきふいがい》に日本《につぽん》ではめったに見《み》ることの出來《でき》ない綺麗《きれい》に磨《みが》いた鋭《するど》い矢《や》の根《ね》や、また石《いし》の劍《つるぎ》が出《で》て來《き》ます。この土器《どき》も石器《せつき》も、日本《につぽん》のものは餘程《よほど》違《ちが》つたところがありまして、石器時代《せつきじだい》の末《すゑ》、金屬《きんぞく》が使用《しよう》されるようになつた時代《じだい》のものかも知《し》れません。たゞ石斧《せきふ》の中《うち》には、日本《につぽん》の各地《かくち》から出《で》るのと同《おな》じように、刳《ゑぐ》りのはひつたものゝ出《で》ることは注意《ちゆうい》すべきでありませう。北朝鮮《きたちようせん》からは石器《せつき》も土器《どき》も出《で》ますが、その土器《どき》は南朝鮮《みなみちようせん》のものとは少《すこ》し違《ちが》つて、どちらかといふと日本《につぽん》の繩紋式土器《じようもんしきどき》に多少《たしよう》似《に》た、あらい線《せん》の模樣《もよう》のあるのが出《で》るのであります。この南朝鮮《みなみちようせん》と北朝鮮《きたちようせん》とは、果《はた》して同一人種《どういちじんしゆ》が遺《のこ》したものであるかどうかは、考《かんが》へなければならぬことでありまして、私共《わたしども》はむしろ別《べつ》の民族《みんぞく》が遺《のこ》したものかと思《おも》ふくらゐであります。(第四十五圖《だいしじゆうごず》)
[#「第四十五圖 支那朝鮮新石器時代石器」のキャプション付きの図(fig18371_46.png)入る]
さて、支那《しな》にはひりますと、朝鮮《ちようせん》に近《ちか》い滿洲《まんしゆう》にも、旅順《りよじゆん》や大連《だいれん》あたりからも石器《せつき》が非常《ひじよう》に多《おほ》く出《で》るのでありますが、石斧《せきふ》の中《なか》には平《ひら》たくて孔《あな》があり、角《かく》ばつた鑿《のみ》のようなものがありまして、支那《しな》の内地《ないち》から出《で》るものと非常《ひじよう》によく似《に》てゐるので、どうしてもこれは支那人《しなじん》の祖先《そせん》が使用《しよう》したものらしく思《おも》はれるのであります。土器《どき》はやはり日本《につぽん》の彌生式《やよひしき》に近《ちか》い種類《しゆるい》のものが普通《ふつう》でありまして、時《とき》には珍《めづら》しく、だんだら模樣《もよう》に彩色《さいしき》した美《うつく》しいものが出《で》ることもあります。支那《しな》では、また太《ふと》い三本脚《さんぼんあし》のついたれき[#「れき」に傍点](鬲)という形《かたち》の土器《どき》が出《で》ますが、これは支那《しな》や支那《しな》の文化《ぶんか》の影響《えいきよう》を受《う》けた地方《ちほう》に限《かぎ》つて出《で》るのであつて、やはり滿洲《まんしゆう》からも出《で》ます。支那内地《しなないち》の石器時代《せつきじだい》のことはまだよく調《しら》べがついてゐませんが、山東省《さんとうしよう》や陝西省《せんせいしよう》その他《た》からも石器《せつき》が出《で》て來《き》ます。いまお話《はなし》した滿洲《まんしゆう》より出《で》るのと同《おな》じように、孔《あな》のあいた石斧《せきふ》などであります。土器《どき》では三本脚《さんぼんあし》のれき[#「れき」に傍点]などでありますが、近頃《ちかごろ》にいたつて河南省《かなんしよう》や甘肅省《かんしゆくしよう》あたりでは、墨色《すみいろ》の繪《え》の具《ぐ》で模樣《もよう》を描《か》いた美《うつく》しい土器《どき》が、石器《せつき》と一《いつ》しょにたくさんに發見《はつけん》されますが、これは石器時代《せつきじだい》の末期《まつき》にあつたものと思《おも》はれます。この土器《どき》は、滿洲《まんしゆう》から出《で》る彩色《さいしき》の土器《どき》とは違《ちが》つてゐて、餘程《よほど》西《にし》の方《ほう》の國《くに》から出《で》るものに似《に》てゐるところがありますから、古《ふる》く西方諸國《せいほうしよこく》の文明《ぶんめい》が支那《しな》へ入《い》りこんだものといふことが想像《そう/″\》されて面白《おもしろ》いものであります。(第四十六圖《だいしじゆうろくず》)
[#「第四十六圖 支那新石器時代土器」のキャプション付きの図(fig18371_47.png)入る]
支那《しな》では、たゞ今《いま》申《まを》したように新石器時代《しんせつきじだい》のものが出《で》るばかりではなく、その北方《ほつぽう》黄河《こうが》の流《なが》れが北《きた》へ曲《まが》つて、また南《みなみ》へをれて來《く》るあたりでは、近年《きんねん》舊石器時代《きゆうせつきじだい》の古《ふる》い遺物《いぶつ》が發見《はつけん》されるといふことでありますし、なほ北方《ほつぽう》のシベリヤの南部《なんぶ》においても、舊石器時代《きゆうせつきじだい》のものが現《あらは》れて來《き》たところから見《み》ますと、支那《しな》にも古《ふる》く舊石器時代《きゆうせつきじだい》から人間《にんげん》が棲《す》んでゐたことがわかるのであります。しかし、何分《なにぶん》支那《しな》は廣《ひろ》い國《くに》でありますし、またその東部《とうぶ》は大河《たいが》の流《なが》した泥《どろ》だとか、風《かぜ》が吹《ふ》き送《おく》つてきた小《ちひ》さい砂《すな》だとかゞつもつて、非常《ひじよう》にそれが深《ふか》いために、その下《した》に石器時代《せつきじだい》のものがあるのですから容易《ようい》に調《しら》べがつかず、今日《こんにち》までよく知《し》られてをりません。それで、將來《しようらい》われ/\が一《いつ》しょう懸命《けんめい》に調《しら》べて行《い》つたら、きっと面白《おもしろ》いことが發見《はつけん》されることゝ信《しん》じます。
それからもと支那《しな》の領地《りようち》であつて、今《いま》は日本《につぽん》の一部《いちぶ》になつた臺灣《たいわん》にも石器時代《せつきじだい》の遺物《いぶつ》が出《で》ますが、支那《しな》から出《で》るものとよく似《に》てをります。しかし琉球《りゆうきゆう》のものになりますと、臺灣《たいわん》とは似《に》ないで、日本内地《につぽんないち》の繩紋式土器《じようもんしきどき》と同《おな》じ性質《せいしつ》の土器《どき》と一《いつ》しょに出《で》るのであります。
以上《いじよう》述《の》べましたように、支那《しな》や朝鮮《ちようせん》の石器時代《せつきじだい》のものは、その土器《どき》の上《うへ》から見《み》て、日本《につぽん》のものとは關係《かんけい》を有《ゆう》してゐないようでありますが、たゞ彌生式土器《やよひしきどき》のようなものになつて始《はじ》めて少《すこ》し似《に》て來《く》るといふのでありますから、まづ石器時代《せつきじだい》には、日本《につぽん》は朝鮮《ちようせん》や支那《しな》とは獨立《どくりつ》の發達《はつたつ》をしてをつた民族《みんぞく》が住《す》んでゐたものと見《み》なければなりません。それが石器時代《せつきじだい》の終《をは》り頃《ごろ》になつて、支那朝鮮《しなちようせん》を經《へ》て金屬《きんぞく》の器物《きぶつ》を使《つか》ふことが日本《につぽん》に傳《つた》へられまして、初《はじ》めて日本《につぽん》と支那《しな》あたりの間《あひだ》に深《ふか》い關係《かんけい》が生《しよう》ずるようになるのであります。それらを證據立《しようこだ》てる品物《しなもの》は、次《つ》ぎの室《しつ》に竝《なら》べてありますから、そこへ行《ゆ》くことにいたしませう。
(ヘ) 青銅器《せいどうき》と銅鐸《どうたく》
今《いま》まで申《まを》した日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》は、幾年《いくねん》ほどつゞいたかといふことは、確《たしか》にはわかりませんが、けっして二百年《にひやくねん》や三百年《さんびやくねん》の短《みじか》い期間《きかん》ではなくて、あるひは千年《せんねん》にも近《ちか》い長《なが》い間《あひだ》のことゝ思《おも》はれます。そして石器時代《せつきじだい》の文明《ぶんめい》もだん/\進《すゝ》んで來《き》ましたが、ちょうど今《いま》から三千年《さんぜんねん》ほど前《まへ》に、お隣《とな》りの支那《しな》では周《しゆう》の末《すゑ》から漢《かん》の初《はじ》めにかけて、支那人《しなじん》の勢力《せいりよく》が非常《ひじよう》に盛《さか》んになつて、どし/\各地《かくち》へ植民《しよくみん》をしだしたと共《とも》に、今《いま》まですでに用《もち》ひてゐたところの金屬《きんぞく》、銅《どう》や青銅《せいどう》で造《つく》つた器物《きぶつ》の使用《しよう》が東亞《とうあ》の諸國《しよこく》へ擴《ひろ》められることになりました。その結果《けつか》滿洲《まんしゆう》から朝鮮《ちようせん》日本《につぽん》に及《およ》び、それで日本《につぽん》も初《はじ》めて支那《しな》の金屬《きんぞく》を傳《つた》へて、石器時代《せつきじだい》の文化《ぶんか》から金屬器時代《きんぞくきじだい》の文化《ぶんか》に進《すゝ》むことになりました。それでは支那《しな》から日本《につぽん》へ金屬《きんぞく》が傳來《でんらい》したことが、なぜわかるかといひますと、それはちょう
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