も多《おほ》くの土器《どき》が發見《はつけん》されます。私共《わたしども》が石器時代《せつきじだい》の遺蹟《いせき》を探《さが》すには、石器《せつき》に眼《め》をつけるよりも、田圃《たんぼ》の中《なか》に散《ち》らばつてゐる土器《どき》の破片《はへん》を見《み》つけることが一番《いちばん》の早道《はやみち》だと思《おも》はれるくらゐであります。この土器《どき》も石器《せつき》と同《おな》じように、あるひは石器《せつき》よりもより以上《いじよう》に、一度《いちど》破損《はそん》した場合《ばあひ》はとうてい修繕《しゆうぜん》が出來《でき》ない。もっとも時《とき》には大形《おほがた》の土器《どき》に罅《ひゞ》がはひつたり破《わ》れたりした時《とき》、兩側《りようがは》に孔《あな》をあけて紐《ひも》で縛《しば》りつけたものがないではありませんが、多《おほ》くは捨《す》てゝしまつたものと見《み》え、遺《のこ》つてゐる土器《どき》はたいてい破《わ》れ物《もの》であります。もっとも墓場《はかば》だとか、その他《ほか》の場所《ばしよ》に完全《かんぜん》な土器《どき》が埋《うづ》もれてゐることもありますが、私共《わたしども》の發見《はつけん》するのは多《おほ》くは破片《はへん》です。それは發掘《はつくつ》する時《とき》、壞《こは》れるのでなくて、たいてい元《もと》から壞《こは》れてゐるのであります。
 この當時《とうじ》の土器《どき》は、まだ完全《かんぜん》な轆轤《ろくろ》を使用《しよう》しなかつたのでありますが、そのわりあひに形《かたち》もよく整《とゝの》つて、歪《ゆが》んだものなどは甚《はなは》だ稀《まれ》であり、かなり巧《たく》みに造《つく》られてゐるように思《おも》はれます。それはおそらく平《ひら》たい籠《かご》のようなものゝ上《うへ》で、まはしながら作《つく》つたのでせう。その頃《ころ》にはすでに土器《どき》を造《つく》る專門《せんもん》の技術者《ぎじゆつしや》もゐたのでせうけれども、後《のち》の時代《じだい》のようにたくさんの土器《どき》を一時《いちじ》に製造《せいぞう》するようなことは少《すくな》かつたらしく、粗末《そまつ》な仕入《しい》れものと見《み》られるものは甚《はなは》だ稀《まれ》であります。それで形《かたち》や模樣《もよう》なども同《おな》じものが少《すくな》く、一《ひと》つ/\違《ちが》つてゐるのが普通《ふつう》でありますが、この時分《じぶん》には、まだ土器《どき》を燒《や》く窯《かまど》が知《し》られてゐなかつたと見《み》え、後《のち》の時代《じだい》のように綺麗《きれい》な色《いろ》に出來《でき》てをりません。素燒《すや》きでありますけれども、黒《くろ》ずんだ茶色《ちやいろ》で爐《ろ》に燻《いぶ》されたのが多《おほ》いのです。そしてその土《つち》の質《しつ》も細《こま》かい砂《すな》や、時《とき》には大粒《おほつぶ》の砂《すな》がまじつてゐるために平均《へいきん》してをりません。これら土器《どき》の形《かたち》は、その棚《たな》に竝《なら》べてあるように、非常《ひじよう》に種類《しゆるい》が多《おほ》いのでありまして、後《のち》の時代《じだい》や今日《こんにち》のものと比《くら》べて、かへって變化《へんか》が多樣《たよう》を極《きは》めてゐるのには寧《むし》ろ驚《おどろ》かされます。たゞ皿《さら》の類《るい》は餘《あま》り見當《みあた》りませんが、鉢《はち》、壺《つぼ》、土瓶《どびん》、急須《きゆうす》のたぐひから香爐型《こうろがた》のものなどがあつて、それに複雜《ふくざつ》な形《かたち》の取手《とつて》や、耳《みゝ》などがついてをり、模樣《もよう》はたいてい繩《なは》や莚《むしろ》の型《かた》を押《お》しつけその上《うへ》に曲線《きよくせん》で渦卷《うづま》きだとか、それに類似《るいじ》の模樣《もよう》がつけてありますが、時《とき》には突出《とつしゆつ》した帶《おび》のような裝飾《そうしよく》をつけたものもあります。ごく珍《めづら》しい例《れい》ではありますが、赤《あか》い繪《え》の具《ぐ》で塗《ぬ》つたものさへ見《み》かけられるのであります。しかし燒《や》き方《かた》はどれも軟《やはら》かい質《しつ》ですから、水《みづ》を入《い》れるとたいていは浸《し》み出《だ》します。それには當時《とうじ》の人《ひと》も定《さだ》めし困《こま》つたこともあらうと思《おも》はれますが、今日《こんにち》のように美《うつく》しい座敷《ざしき》があつて疊《たゝみ》の上《うへ》にゐるわけではなく、少《すこ》しぐらゐは水《みづ》がしみ出《だ》して濡《ぬ》れたとて、さう困《こま》るようなことはなかつたでせう。ところが、この土器《どき》を長《なが》く使用《しよう》してゐるうちに水垢《みづあか》がついたり、魚《さかな》や獸《けだもの》の脂《あぶら》がしみ込《こ》んだりして、そのために水氣《すいき》もしみ出《だ》さないようになりますので、當時《とうじ》はおそらく新《あたら》しい土器《どき》よりも使《つか》ひ古《ふる》された土器《どき》の方《ほう》が大切《たいせつ》がられたかも知《し》れません。(第四十二圖《だいしじゆうにず》)
 當時《とうじ》の土器《どき》の模樣《もよう》は、地方《ちほう》によつて多少《たしよう》の違《ちが》ひがありますし、また時代《じだい》によつても變《かは》つて來《き》たようですから、それらを調《しら》べて見《み》ることは面白《おもしろ》いのであります。同《おな》じ日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》の人々《ひと/″\》のお互《たがひ》の交通《こうつう》とか、文化《ぶんか》の關係《かんけい》などを知《し》るには、土器《どき》の模樣《もよう》や形《かたち》などを研究《けんきゆう》することが必要《ひつよう》であります。石器《せつき》は作《つく》り方《かた》やその形《かたち》もお互《たがひ》に似《に》てゐて、ほとんど世界中《せかいじゆう》、その變《かは》りは少《すくな》いのでありますから、文化《ぶんか》の關係《かんけい》その他《た》の研究《けんきゆう》には土器《どき》ほどに役立《やくだ》ちません。ですから私共《わたしども》は石器時代《せつきじだい》の遺蹟《いせき》に行《い》つても、土器《どき》を熱心《ねつしん》に採集《さいしゆう》し、小《ちひ》さい破片《はへん》でも見遁《みのが》さぬように注意《ちゆうい》してをります。
[#「第四十二圖 日本石器時代土器(繩紋式)」のキャプション付きの図(fig18371_43.png)入る]
 それから、土器《どき》と同《おな》じく粘土《ねんど》で作《つく》つたものに土偶《どぐう》といふものがあります。すなはち土《つち》の人形《にんぎよう》です。それはたいてい二三寸《にさんずん》から四五寸《しごすん》ぐらゐの大《おほ》きさのものが多《おほ》く、時《とき》には一尺以上《いつしやくいじよう》もあるのを見《み》かけますが、いづれも人間《にんげん》の形《かたち》そのまゝの寫生的《しやせいてき》のものでなくて、模樣風《もようふう》に一種《いつしゆ》の型《かた》にはまつたものばかりであります。顏《かほ》でも眼《め》鼻《はな》口《くち》と明《あきら》かに區別《くべつ》されてゐないのが普通《ふつう》であります。男《をとこ》と女《をんな》の別《べつ》は現《あらは》されてゐますが、ことに女《をんな》の土偶《どぐう》がたくさんにありますのは、この時分《じぶん》には女《をんな》の神《かみ》さまを崇拜《すうはい》したゝめに造《つく》つたものだといふ學者《がくしや》もあります。とにかく、何《なに》か宗教上《しゆうきようじよう》のために造《つく》つたもので、玩具《がんぐ》ではなかつたようです。もし玩具《がんぐ》だつたら、人間《にんげん》の形《かたち》をそのまゝ寫《うつ》したものにしなければならないと思《おも》ひます。土偶《どぐう》の他《ほか》に熊《くま》だとか猿《さる》だとかの獸類《じゆうるい》をつくつたものも稀《まれ》には出《で》ることがありますが、これは玩具《がんぐ》と見《み》えて、よくその形《かたち》がそれらの動物《どうぶつ》に似《に》てをります。とにかく日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》の土器《どき》は、外國《がいこく》の石器時代《せつきじだい》の土器《どき》に比《くら》べて、餘程《よほど》進歩《しんぽ》し巧妙《こうみよう》に造《つく》られてをり、日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》の人間《にんげん》は、土器《どき》を造《つく》ることが上手《じようず》でもあり、好《す》きでもあつたと思《おも》はれます。(第四十三圖《だいしじゆうさんず》)
[#「第四十三圖 日本石器時代土偶」のキャプション付きの図(fig18371_44.png)入る]
 今《いま》まで述《の》べた土器《どき》の話《はなし》は、主《しゆ》として關東《かんとう》から奧羽地方《おううちほう》において出《で》る土器《どき》について申《まを》したのでありますが、關西地方《かんさいちほう》、あるひはその他《た》の地方《ちほう》から、少《すこ》しくこれと違《ちが》つた種類《しゆるい》の土器《どき》が石器《せつき》と共《とも》に發見《はつけん》せられます。その石器《せつき》には餘《あま》り變《かは》りはありませんが、たゞ石庖丁《いしほうちよう》だとか刳《ゑぐ》りのある石斧《せきふ》などが、どちらかといふと多《おほ》く出《で》て來《き》ます。これは、前《まへ》の黒《くろ》ずんだ色《いろ》の土器《どき》とは異《こと》なつて、たゞの茶色《ちやいろ》の土器《どき》です。(第四十四圖《だいしじゆうしず》)それは作《つく》る時《とき》の窯《かまど》が、前《まへ》のものより進歩《しんぽ》して、燒《や》く時《とき》に燻《いぶ》されなかつたからでありまして、土器《どき》の製作法《せいさくほう》が一段《いちだん》進《すゝ》んだものと見《み》られますが、その土器《どき》の形《かたち》からいひますと、前《まへ》のものほど多《おほ》くの種類《しゆるい》がありません。壺《つぼ》とか鉢《はち》とかきまつた形《かたち》のものばかりでありまして、ことに壺《つぼ》には尻《しり》の方《ほう》が、つぼんだ無花果《いちじゆく》のような形《かたち》をしたものが多《おほ》いのです。また模樣《もよう》はたいていありません。よしありましても、直線《ちよくせん》などを細《ほそ》く切《き》り込《こ》んだもので、前《まへ》に述《の》べた土器《どき》のように、曲線《きよくせん》だとか繩《なは》だとか莚《むしろ》だとかの形《かたち》を押《お》したものは見當《みあた》りません。一般《いつぱん》に形《かたち》や模樣《もよう》は單純《たんじゆん》であつて、前《まへ》のものほど複雜《ふくざつ》でないといふことが出來《でき》ます。しかも同《おな》じ形《かたち》をした土器《どき》が同時《どうじ》に多《おほ》く出《で》て來《き》ますところを見《み》ますと、これらの土器《どき》は、今日《こんにち》のように工業的《こうぎようてき》に製造《せいぞう》せられたものと想像《そう/″\》することが出來《でき》ます。私共《わたしども》はこの種《しゆ》の土器《どき》を彌生式土器《やよひしきどき》と呼《よ》んでをりますが、それは最初《さいしよ》東京本郷《とうきようほんごう》の帝國大學《ていこくだいがく》の裏《うら》の所《ところ》に當《あた》る彌生町《やよひちよう》にあつた貝塚《かひづか》から出《で》た土器《どき》から名《な》を取《と》つたのです。これに對《たい》し前《まへ》の形《かたち》の土器《どき》を繩文式土器《じようもんしきどき》と稱《しよう》してをります。かように二《ふた》つの土器《どき》の種類《しゆるい》があつて、互《たがひ》に違《ちが》つてゐるのは、これを作《つく》つた民族《みんぞく》の人種《じんしゆ》が
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