》のような綺麗《きれい》な石《いし》で造《つく》つたものもあります。とにかく石鏃《せきぞく》は形《かたち》も小《ちひ》さく可愛《かわい》らしいので、これを採集《さいしゆう》するのが一番《いちばん》愉快《ゆかい》であります。その形《かたち》にも種々《しゆ/″\》變《かは》つたのがあつて、長《なが》い木《こ》の葉《は》形《がたち》、柳《やなぎ》の葉《は》の形《かたち》のようなものや、三角形《さんかくけい》のものや、また二《ふた》つの脚《あし》のついたもの、その脚《あし》が長《なが》くなつてゐるもの、その他《た》兩股《りようまた》の間《あひだ》に矢柄《やつか》を差《さ》し込《こ》む脚《あし》のついたものといつたふうに、いろ/\の種類《しゆるい》がありますが、このうち兩脚《りようあし》の出《で》てゐるものは、一《いつ》たんさゝると中々《なか/\》拔《ぬ》きにくゝ、敵《てき》を殺《ころ》すにつごうがよいので、主《おも》に戰爭《せんそう》に使《つか》はれたといふことです。アメリカなどから出《で》るような形《かたち》の非常《ひじよう》に異《ことな》るものや大型《おほがた》のものは日本《につぽん》では餘《あま》り發見《はつけん》されませんが、たいてい一寸前後《いつすんぜんご》の大《おほ》きさのものが普通《ふつう》であります。またこの棚《たな》に竝《なら》べてある柳《やなぎ》の葉《は》の形《かたち》をした長《なが》さ三寸以上《さんずんいじよう》もある石鏃《せきぞく》に似《に》た大形《おほがた》のものは、普通《ふつう》石槍《いしやり》といつてゐます。それから小形《こがた》で一方《いつぽう》が膨《ふく》れ、他《た》の一方《いつぽう》が尖《とが》つてゐるものがあります。それは石《いし》の錐《きり》(石錐《せきすい》)といふものです。また、石匙《いしさじ》といふものがありますが、昔《むかし》の人《ひと》の天狗《てんぐ》の飯匙《めしさじ》といつてゐたものです。長《なが》い形《かたち》と横《よこ》にひらたいものとがありますが、双方共《そうほうとも》に一方《いつぽう》につまみ[#「つまみ」に傍点]があり、他側《たがは》は切《き》れるほど鋭《するど》くはありませんが、鈍《にぶ》い刃《は》になつてゐます。現在《げんざい》の野蠻人《やばんじん》などが、これと同《おな》じような器物《きぶつ》を使《つか》つてゐるところから考《かんが》へますと、この石匙《いしさじ》は獸《けだもの》の皮《かは》を剥《は》ぐために使用《しよう》したものに相違《そうい》ありません。獸《けだもの》の皮《かは》と肉《にく》との間《あひだ》にある脂肪《あぶら》をごし/\とかき取《と》つて、皮《かは》を剥《は》いで行《ゆ》くのです。(第四十圖《だいしじゆうず》)
[#「第四十圖 日本發見石器及び骨角器」のキャプション付きの図(fig18371_41.png)入る]
今《いま》まで申《まを》しました石器《せつき》は、刃物《はもの》か、それに類似《るいじ》のものでありますが、なほ他《ほか》に刃物以外《はものいがい》のものもあります。その中《なか》でも面白《おもしろ》いのは、石棒《せきぼう》です。これは五六寸《ごろくすん》から一尺《いつしやく》ぐらゐの長《なが》さのものでありまして、圓《まる》い棒《ぼう》の頭《あたま》の所《ところ》が膨《ふく》れてゐます。その膨《ふく》れたところに、種々《しゆ/″\》模樣《もよう》の彫《ほ》つてあるものもあります。この棒《ぼう》の大《おほ》きくないものは、手《て》に持《も》つた棍棒《こんぼう》かと思《おも》はれますが、太《ふと》くて大《おほ》きなものには、とうてい持《も》つて振《ふ》りまはすことの出來《でき》ないものがありますから、それは何《なに》か宗教上《しゆうきようじよう》の目的《もくてき》に使用《しよう》されたものだらうと思《おも》はれます。(第四十圖《だいしじゆうず》)
また錘石《おもりいし》といふのがあります。それは平《ひら》たい石塊《いしころ》の上下《じようげ》を少《すこ》し打《う》ち缺《か》いて紐絲《ひもいと》を懸《か》けるのに便利《べんり》にしてあるもので、網《あみ》の錘《おもり》とか、機織《はたお》りに使用《しよう》したものかといはれてゐます。それから石皿《いしざら》といふものや、砥石《といし》のようなものもあります。(第四十圖《だいしじゆうず》)また石《いし》で造《つく》つた裝飾品《そうしよくひん》もありますが、その中《なか》には後程《のちほど》述《の》べようと思《おも》ふ日本《につぽん》の私共《わたしども》の祖先《そせん》が使《つか》つた勾玉《まがたま》の形《かたち》に似《に》た飾《かざ》り物《もの》があり、日本《につぽん》に出《で》ない美《うつく》しい緑色《みどりいろ》の石《いし》(硬玉《こうぎよく》)で造《つく》つたものが少《すくな》くありません。それらは當時《とうじ》支那《しな》から渡《わた》つた石材《せきざい》を取《と》り寄《よ》せて、つくつたものと思《おも》はれます。またこの美《うつく》しい楕圓形《だえんけい》の石《いし》の眞中《まんなか》に、穴《あな》のあるものなどもあります。これらはみな裝飾品《そうしよくひん》と思《おも》はれますが、果《はた》してどうして使《つか》つたものか、はっきりわかりません。かように、野蠻《やばん》な時代《じだい》でも美《うつく》しい石材《せきざい》を他《た》の地方《ちほう》から輸入《ゆにゆう》して使用《しよう》したことがあるばかりでなく、燧石《ひうちいし》だとか、黒曜石《こくようせき》のようなものでも、その地方《ちほう》に産《さん》しない場合《ばあひ》は、他《た》の地方《ちほう》からこれを輸入《ゆにゆう》して使《つか》つたのであります。私共《わたしども》は、この石《いし》の石質《せきしつ》を調《しら》べることによつて、當時《とうじ》の交通《こうつう》とか貿易《ぼうえき》の跡《あと》とかをたどることが出來《でき》るのでありますから、皆《みな》さんも石器時代《せつきじだい》の石《いし》の性質《せいしつ》を調査《ちようさ》することが必要《ひつよう》であります。(第四十一圖《だいしじゆういちず》)
[#「第四十一圖 日本石器時代装飾品」のキャプション付きの図(fig18371_42.png)入る]
また石器時代《せつきじだい》といひましても、當時《とうじ》の人間《にんげん》が用《もち》ひてゐたものは、石器《せつき》ばかりではなく、他《た》の材料《ざいりよう》をもつて作《つく》つたものもないではありません。その主《おも》なるものは、かれ等《ら》が食物《しよくもつ》の材料《ざいりよう》として捕《とら》へた獸類《じゆうるい》の骨《ほね》や角《つの》で作《つく》つた物《もの》であります。まづ石器《せつき》と同《おな》じような刃物《はもの》の類《るい》をやはり骨《ほね》や角《つの》で作《つく》るのでありますが、もっともこれを作《つく》るには石器《せつき》を用《もち》ひたのでありませう。この骨《ほね》や角《つの》は石《いし》よりも軟《やはら》かいのでありますけれども、また一方《いつぽう》には石《いし》よりも強《つよ》くてをれ易《やす》くないといふことがその特長《とくちよう》であります。それがために物《もの》を突《つ》き刺《さ》したり孔《あな》をあける錐《きり》の類《るい》、ことに毛皮《けがは》だとか織《お》り物《もの》だとかを、縫《ぬ》つたり綴《つゞ》り合《あは》せたりするためには、石《いし》の錐《きり》は堅《かた》くてもをれ易《やす》くてだめ[#「だめ」に傍点]ですから、それにはどうしても、骨《ほね》や角《つの》でつくつた錐《きり》に限《かぎ》ると思《おも》はれます。また魚《さかな》を釣《つ》る時《とき》の釣《つ》り針《ばり》だとか、魚《さかな》を突《つ》き刺《さ》す時《とき》の銛《もり》にも、骨《ほね》や角《つの》で作《つく》つたものでなければ役《やく》に立《た》たないのでありまして、常陸《ひたち》の椎塚《すいつか》といふ貝塚《かひづか》からは、鯛《たひ》の頭《あたま》の骨《ほね》に、骨《ほね》で作《つく》つた銛《もり》がさゝつたまゝ發見《はつけん》せられたのがありました。これで骨製《こつせい》の器物《きぶつ》が漁業《ぎよぎよう》に用《もち》ひられたことを證據立《しようこだ》てゝをります。(第四十圖《だいしじゆうず》)
しかしこの骨角器《こつかくき》は、當時《とうじ》においてはその數《すう》がたくさんあつたことでせうが、腐《くさ》り易《やす》いために石器《せつき》のように今日《こんにち》多《おほ》く遺《のこ》つてをりません。それから、これら骨角器《こつかくき》によつて獸《けだもの》の種類《しゆるい》を調《しら》べて見《み》ますと、たいてい猪《ゐのしゝ》と鹿《しか》のものであることがわかり、また貝塚《かひづか》から出《で》て來《く》る骨《ほね》や角《つの》の類《るい》を見《み》ても、やはり猪《ゐのしゝ》や鹿《しか》が主《おも》なるものであります。それから推《お》して石器時代《せつきじだい》の人間《にんげん》は貝《かひ》や魚《さかな》の他《ほか》に、主《おも》に猪《ゐのしゝ》だとか鹿《しか》だとかを狩《か》りして食料《しよくりよう》にしてゐたことが知《し》られます。
また骨角器以外《こつかくきいがい》に貝殼《かひがら》で造《つく》つた器物《きぶつ》もないではありませんが、それは主《おも》に裝飾《そうしよく》に用《もち》ひられたもので、中《なか》でも一番《いちばん》多《おほ》いものは貝《かひ》の腕輪《うでわ》であります。これはたいてい赤貝《あかがひ》の類《るい》の貝殼《かひがら》を刳《ゑぐ》り拔《ぬ》き、その周圍《しゆうい》ばかりを殘《のこ》して前腕《まへうで》にはめ込《こ》むでので[#「はめ込《こ》むでので」はママ]ありまして、石器時代《せつきじだい》の墓場《はかば》から出《で》る人骨《じんこつ》に、この貝輪《かひわ》がそのまゝ腕骨《わんこつ》にはまつてゐるのをたび/\發見《はつけん》されました。中《なか》には一方《いつぽう》の腕《うで》に七《なゝ》つ八《やつ》つも貝輪《かひわ》をはめてゐるのもありました。この貝輪《かひわ》を腕《うで》にはめる風俗《ふうぞく》は、今日《こんにち》でも南洋《なんよう》あたりの野蠻人《やばんじん》の間《あひだ》に多《おほ》く見受《みう》けられますが、たゞその貝輪《かひわ》はその刳《ゑぐ》り孔《あな》がわりあひに小《ちひ》さいので、掌《てのひら》を通《とほ》して前腕《まへうで》にはめることは餘程《よほど》困難《こんなん》であつたことゝ思《おも》はれます。今日《こんにち》私共《わたしども》が、その貝輪《かひわ》をとつて前腕《まへうで》にはめようとすると容易《ようい》にはまりませんが、これは今日《こんにち》でも南洋《なんよう》あたりにあるように、うまく氣合《きあひ》でもつて手《て》にはめ込《こ》む專門家《せんもんか》があつたかと思《おも》はれます。このついでに他《ほか》の裝飾品《そうしよくひん》について述《の》べますが、この時分《じぶん》の人《ひと》は耳《みゝ》にも石《いし》や土《つち》で作《つく》つた大《おほ》きな耳飾《みゝかざ》りをつけたのでした。それは石《いし》の環《かん》の一方《いつぽう》が缺《か》けたような形《かたち》のものや、鼓《つゞみ》の形《かたち》をした土製品《どせいひん》で、前《まへ》に申《まを》した石器時代《せつきじだい》の墓場《はかば》から、よく人骨《じんこつ》の耳《みゝ》のあたりで發見《はつけん》されるのであります。(第四十一圖《だいしじゆういちず》)
(ニ) 土器《どき》と土偶《どぐう》
日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》には土器《どき》が餘程《よほど》盛《さか》んに使用《しよう》されてゐましたと見《み》え、どの遺跡《いせき》に
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