にく》いので、かへってよく保存《ほぞん》されるのであります。
[#「第三十七圖 日本石器時代遺跡」のキャプション付きの図(fig18371_38.png)入る]
 この石器時代《せつきじだい》の人間《にんげん》は、どういふふうにして葬《はうむ》つたかといふに、足《あし》をまげて膝《ひざ》を體《からだ》に着《つ》け、跪《ひざまづ》いたような形《かたち》をして埋《うづ》めたのが普通《ふつう》でありまして、體《からだ》を伸《の》ばして埋《うづ》めたのは至《いた》つて稀《まれ》です。中《なか》には胸《むね》のあたりに大《おほ》きい石《いし》を置《お》いたものもあります。この體《からだ》をまげて葬《はうむ》るのは日本《につぽん》ばかりでなく、ヨーロッパでも石器時代《せつきじだい》に行《おこな》はれてをりますし、今日《こんにち》の野蠻人《やばんじん》の中《なか》にもまたそれが見出《みいだ》されますが、それは多分《たぶん》死《し》んだ者《もの》が再《ふたゝ》び生《い》き返《かへ》つて來《き》て、その靈魂《れいこん》が生《い》きてゐる人間《にんげん》に惡《わ》るいことをしないために、足部《そくぶ》をまげて縛《しば》るといふことがあつたものと考《かんが》へられるのであります。また石器時代《せつきじだい》のごときまだ開《ひら》けない時代《じだい》でも、親子《おやこ》の情愛《じようあい》といふものは今日《こんにち》と變《かは》りはなかつたのですから、幼兒《ようじ》の死體《したい》でもけっして捨《す》てゝはありません。赤子《あかご》や兒童《じどう》の死體《したい》は、大《おほ》きい土器《どき》の壺《つぼ》に入《い》れて特別《とくべつ》に葬《はうむ》つてある場合《ばあひ》が多《おほ》いのです。また松島《まつしま》では、老母《ろうぼ》と少女《しようじよ》とが抱《だ》き合《あは》せて葬《はうむ》つてありましたが、これは定《さだ》めし祖母《そぼ》と孫娘《まごむすめ》とが同時《どうじ》に病死《びようし》したものを葬《はうむ》つたものと思《おも》はれます。そしてその少女《しようじよ》の頸《くび》には小《ちひ》さい石《いし》の玉《たま》を珠數《じゆず》にして飾《かざ》つてありました。なんといぢらしいことではありませんか。
 私共《わたしども》は、かような墓地《ぼち》を發掘《はつくつ》して、その時分《じぶん》の人々《ひと/″\》がどんな宗教上《しゆうきようじよう》の考《かんが》へをもつてゐたかといふこともわかり、またその體《からだ》につけてゐた種々《しゆ/″\》の裝飾《そうしよく》で、當時《とうじ》の風俗《ふうぞく》を知《し》るばかりでなく、その骨《ほね》を調《しら》べて、どんな人種《じんしゆ》に屬《ぞく》してゐたかといふことが考《かんが》へられるのでありまして、それが今《いま》お話《はなし》した石器時代《せつきじだい》の人種《じんしゆ》がなんであるかといふことの第一《だいゝち》の材料《ざいりよう》となるのでありますから、この墓地《ぼち》の研究《けんきゆう》は、貝塚《かひづか》などよりも一《いつ》そう大切《たいせつ》なものになつて來《く》るのであります。

      (ハ) 石器《せつき》と骨角器《こつかくき》

 日本《につぽん》の貝塚《かひづか》やその他《た》の石器時代《せつきじだい》の遺蹟《いせき》から發見《はつけん》される石器《せつき》は非常《ひじよう》な數《すう》であつて、よくもこんなにたくさん石器《せつき》があるものかと驚《おどろ》くくらゐあります。なぜそんなに多《おほ》くの石器《せつき》が遺《のこ》つてゐるかといふに、その後《ご》の時代《じだい》に使用《しよう》された金屬《きんぞく》の器物《きぶつ》になりますと、土《つち》の中《なか》で腐《くさ》つてしまつてなくなつたり、あるひは腐《くさ》つてゐないものは拾《ひろ》つて他《ほか》の器物《きぶつ》に造《つく》り直《なほ》したりするといふことがある上《うへ》に、昔《むかし》の人《ひと》がはじめから石器《せつき》のように惜《を》し氣《げ》もなく捨《す》てることをしなかつたのです。しかるに石器《せつき》は土《つち》の中《なか》にあつても腐《くさ》ることはなく、また他《ほか》の器物《きぶつ》に改造《かいぞう》することもほとんど出來《でき》ないのでありますから、昔《むかし》から石器《せつき》には餘《あま》り注意《ちゆうい》する者《もの》がなかつたのであります。また石器時代《せつきじだい》の人《ひと》も一度《いちど》石器《せつき》が破損《はそん》した場合《ばあひ》には、たいてい捨《す》てゝしまひ、これを改造《かいぞう》するようなことはなかつた。これが今日《こんにち》多《おほ》くの石器《せつき》が發見《はつけん》される理由《りゆう》の一《ひと》つでありまして、お蔭《かげ》で私共《わたしども》が皆《みな》さんと共《とも》に石器《せつき》を探《さが》しに行《い》つても、獲物《えもの》があるわけです。
 石器《せつき》には種々《しゆ/″\》の種類《しゆるい》がありますが、その棚《たな》に一《ひと》つ一《ひと》つ品物《しなもの》の種類《しゆるい》によつて分類《ぶんるい》して竝《なら》べてありますから、これからだん/\それを見《み》て行《ゆ》きませう。まづ第一《だいゝち》は斧《をの》の形《かたち》をしたものであります。これを石斧《せきふ》と呼《よ》んでゐますが、長《なが》さはたいてい五六寸《ごろくすん》あるひは二三寸《にさんずん》ぐらゐのもので、形《かたち》は御覽《ごらん》のとほり長方形《ちようほうけい》であつて一方《いつぽう》の端《はし》を削《けづ》つて鋭《するど》くしてありますが、たいていは兩面《りようめん》から磨《みが》いて、ちょうど蛤《はまぐり》の口《くち》のようになつてをります。ですから物《もの》を打《う》ち切《き》るためには餘《あま》り良《よ》く切《き》れるものとは思《おも》はれません。また刃先《はさき》が少《すこ》し廣《ひろ》がつて三味線《さみせん》の撥《ばち》のようになつてゐるのもあり、刃《やいば》を一方《いつぽう》からつけた鑿《のみ》のような形《かたち》をしてゐるのもあります。それらの斧《をの》には横側《よこがは》に刳《ゑぐ》りを入《い》れたものが多《おほ》いのであります。これらの石斧《せきふ》は皆《みな》よく磨《みが》いて滑《なめら》かに光《ひか》るように出來《でき》て、非常《ひじよう》に精巧《せいこう》な造《つく》り方《かた》であります。中《なか》には長《なが》さが一寸《いつすん》ぐらゐもない、小《ちひ》さい美《うつく》しい石《いし》で造《つく》つた斧《をの》がありますが、それは實際《じつさい》の役《やく》に立《た》つものとは思《おも》はれません。多分《たぶん》大切《たいせつ》な寶物《ほうもつ》の類《るい》であつたのでせう。またこれとは反對《はんたい》に、一尺《いつしやく》にも近《ちか》い斧《をの》がありますが、これもまだどうも實用《じつよう》には不適當《ふてきとう》です。おそらく寶物《ほうもつ》か、あるひは石斧《せきふ》を造《つく》る家《いへ》の看板《かんばん》であつたかも知《し》れません。鑿《のみ》のような刃《やいば》のついてゐる一寸《いつすん》ぐらゐの小《ちひ》さい石斧《せきふ》もありますが、これは石斧《せきふ》といふよりも、石鑿《いしのみ》といつた方《ほう》が適《てき》してゐるように思《おも》はれます。今《いま》申《まを》したような石《いし》を磨《みが》いて造《つく》つた石斧《せきふ》を私共《わたしども》は磨製石斧《ませいせきふ》といつてゐます。(第三十九圖《だいさんじゆうくず》)
[#「第三十八圖 石器製作の圖」のキャプション付きの図(fig18371_39.png)入る]
 それからまた石斧《せきふ》の中《うち》に、磨《みが》いて造《つく》らずして、たゞ石《いし》を打《う》ちわつて造《つく》つたごく荒《あら》い粗末《そまつ》な斧《をの》があります。それには細長《ほそなが》い短册型《たんざくがた》のものもありますが、時《とき》には分銅型《ふんどうがた》のものもあります。これを打製石斧《だせいせきふ》といつてゐます。しかし打製石斧《だせいせきふ》には實際《じつさい》物《もの》を切《き》るために役立《やくだ》つ刃《やいば》がありません。それならば物《もの》を叩《たゝ》く槌《つち》に使《つか》ふものかといふに、それには餘《あま》り細工《さいく》が過《す》ぎてゐるようにも思《おも》はれるので、果《はた》して何《なに》に使《つか》はれたものか頗《すこぶ》る疑《うたが》はしいくらゐです。この打製石斧《だせいせきふ》は、ある場所《ばしよ》ではずいぶんたくさんに出《で》ます。今《いま》から二十年程前《にじゆうねんほどまへ》に私共《わたしども》が東京《とうきよう》の西《にし》、武藏《むさし》の深大寺《じんだいじ》といふ村《むら》の附近《ふきん》を歩《ある》くと、一時間《いちじかん》に何十本《なんじつぽん》となく拾《ひろ》ひ得《え》られました。その村《むら》の小學校《しようがつこう》には、生徒達《せいとたち》が拾《ひろ》つて來《き》た石斧《せきふ》を、教室内《きようしつない》に竝《なら》べてある五六十《ごろくじゆう》の机《つくゑ》の上《うへ》に一《いつ》ぱい山《やま》のように竝《なら》べてあるのを見《み》ました。その數《かず》は二千以上《にせんいじよう》もあつて實《じつ》に驚《おどろ》いた次第《しだい》でありました。こんなにたくさん打製石斧《だせいせきふ》のあるのは、あるひはこゝで石斧《せきふ》の半製品《はんせいひん》を造《つく》つて、各地《かくち》へ輸送《ゆそう》したものかも知《し》れないと思《おも》はれるのであります。かうした石斧《せきふ》などを探《さが》すのには、畑《はたけ》に轉《ころ》がつてゐる石《いし》を片端《かたはし》から調《しら》べて見《み》るとか、畑《はたけ》の傍《そば》の小溝《こみぞ》の中《なか》の石塊《いしころ》とか、畦《あぜ》に積《つ》まれた捨《す》て石《いし》の中《なか》を熱心《ねつしん》に探《さが》すに限《かぎ》ります。しかし蛇《へび》だとか、蜥蜴《とかげ》だとかゞ、石《いし》の間《あひだ》から飛《と》び出《だ》して驚《おどろ》かされることがありますから、注意《ちゆうい》しなければなりません。私《わたし》は九州《きゆうしゆう》へ旅行《りよこう》しました時《とき》、田圃《たんぼ》の溝《みぞ》の中《なか》に七寸《しちすん》ぐらゐもある大《おほ》きな磨製石斧《ませいせきふ》が潜航艇《せんこうてい》のように沈《しづ》んでゐるのを發見《はつけん》して拾《ひろ》ひ取《と》つたことがありますが、こんなやつを探《さが》し當《あ》てたときは非常《ひじよう》に愉快《ゆかい》です。一體《いつたい》これらの石斧《せきふ》を使用《しよう》するときはどうしたかといひますのに、石《いし》のまゝ握《にぎ》つて使《つか》つたものもありますが、木《き》の柄《え》を着《つ》けた場合《ばあひ》もありまして、稀《まれ》には腐《くさ》つた木《き》の柄《え》が附着《ふちやく》した石斧《せきふ》を發見《はつけん》することがあります。(第三十九圖《だいさんじゆうくず》5)
[#「第三十九圖 日本發見石器」のキャプション付きの図(fig18371_40.png)入る]
 石斧《せきふ》についでたくさんにあるのは、石《いし》の矢《や》の根《ね》(石鏃《せきぞく》)であります。石鏃《せきぞく》は磨製《ませい》もありますが、これは至《いた》つて數《かず》が少《すくな》く、出《で》る所《ところ》も限《かぎ》られてゐまして、たいていは打製《だせい》であります。燧石《ひうちいし》や黒曜石《こくようせき》や、安山岩《あんざんがん》の類《るい》で造《つく》つたものが多《おほ》いのでありますが、時《とき》には水晶《すいしよう》や瑪瑙《めのう
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