千年《ごせんねん》の前《まへ》から日本《につぽん》の島々《しま/″\》には人間《にんげん》が棲《す》んでゐて、石器時代《せつきじだい》の文明《ぶんめい》を長《なが》くつゞけてゐたといふことがわかつて來《き》たのであります。われ/\の祖先《そせん》は、支那《しな》から進《すゝ》んだ文明《ぶんめい》を傳《つた》へて今日《こんにち》の日本《につぽん》を建設《けんせつ》して來《き》たのでありますけれども、その元《もと》はやはり石器《せつき》を使用《しよう》した文明《ぶんめい》の上《うへ》に築《きづ》きあげられたものにほかならぬのであります。それでは日本《につぽん》において石器《せつき》を使《つか》つてゐた人間《にんげん》は、われ/\の祖先《そせん》であるか、または別《べつ》な人種《じんしゆ》であるかといふことになりますと、これはなか/\むつかしい問題《もんだい》でありますが、この石器時代《せつきじだい》の墓《はか》から出《で》た人骨《じんこつ》を調《しら》べますと、今日《こんにち》北海道《ほつかいどう》に遺《のこ》つてゐるアイヌに似《に》た性質《せいしつ》の骨《ほね》もありますが、またむしろ今日《こんにち》の日本人《につぽんじん》に近《ちか》く、アイヌとは大分《だいぶ》違《ちが》つた骨《ほね》もありますので、その時代《じだい》から日本《につぽん》の各地《かくち》には少《すこ》しづゝ變《かは》つた體《からだ》の人間《にんげん》が棲《す》んでゐたことがわかります。それで一方《いつぽう》は、大體《だいたい》現在《げんざい》のアイヌに近《ちか》い體質《たいしつ》をもつてゐた人間《にんげん》が石器《せつき》を使《つか》つてゐたと同時《どうじ》に、またわれ/\の祖先《そせん》もまた石器《せつき》を使《つか》つてゐたといふことも疑《うたが》ふ餘地《よち》がありません。もっとも朝鮮《ちようせん》と臺灣《たいわん》の石器時代《せつきじだい》は、日本内地《につぽんないち》の方《ほう》とはまったく異《ことな》つた、別《べつ》の種族《しゆぞく》が棲《す》んでゐたことは注意《ちゆうい》を要《よう》します。
(ロ) 貝塚《かひづか》、墓地《ぼち》などの遺跡《いせき》
日本《につぽん》の各地《かくち》で石器《せつき》が多數《たすう》に發見《はつけん》されるといふことは、たゞ今《いま》述《の》べたとほりでありますが、それは一體《いつたい》どういふところから出《で》るかと申《まを》しますと、種々《しゆ/″\》ありますが、その中《うち》一《いち》ばん多《おほ》いのは、ヨーロッパのデンマルクなどにあるのと同《おな》じ貝塚《かひづか》からであります。貝塚《かひづか》といふのは、前《まへ》にも申《まを》したとほり、昔《むかし》の人《ひと》が海岸《かいがん》だとか、あるひは湖邊《こへん》だとかに棲《す》んでゐて、平常《へいじよう》食《く》つてゐた貝殼《かひがら》やその他《た》の不用物《ふようぶつ》をすてた掃《は》き溜《だ》めの跡《あと》であります。貝塚《かひづか》は今日《こんにち》、海《うみ》から遠《とほ》く離《はな》れてゐるものが多《おほ》いのですが、昔《むかし》は海岸《かいがん》に近《ちか》くあつたのです。これらの貝塚《かひづか》の廣《ひろ》さは、大《おほ》きなのになると一町歩以上《いつちようぶいじよう》のものもあつて、貝殼《かひがら》のつもつた厚《あつ》さは數尺以上《すうしやくいじよう》に達《たつ》してをります。ことに臺地《だいち》の端《はし》だとか、斷崖《だんがい》の場所《ばしよ》は十數尺《じゆうすうしやく》の厚《あつ》さに及《およ》んでゐるものさへあります。また貝塚《かひづか》は東京附近《とうきようふきん》から東海道《とうかいどう》、山陽道《さんようどう》、九州《きゆうしゆう》その他《た》海《うみ》に近《ちか》い地方《ちほう》には、日本國中《につぽんこくじゆう》到《いた》る處《ところ》に發見《はつけん》せられます。そしてまた海岸《かいがん》ばかりでなく、湖水《こすい》の傍《そば》などにも淡水産《たんすいさん》の貝殼《かひがら》で出來《でき》てゐる貝塚《かひづか》があるのであります。遠江《とほたふみ》の蜆塚《しゞみづか》などはその一例《いちれい》で、蜆《しゞみ》の貝殼《かひがら》などがあるので、こんな名《な》がつけられたのです。一體《いつたい》貝類《かひるい》は動物中《どうぶつちゆう》で比較的《ひかくてき》早《はや》く形《かたち》を變《か》へやすいものでして、蜆《しゞみ》でも昔《むかし》のものは今日《こんにち》よりは形《かたち》も大《おほ》きかつたのです。螺《ばい》でも昔《むかし》と今《いま》は角度《かくど》が幾分《いくぶん》相違《そうい》してゐるようですし、赤貝《あかゞひ》でも線《せん》の數《かず》が少《すこ》し變《かは》つてゐるといふようなことが、貝塚《かひづか》の貝殼《かひがら》を調《しら》べて見《み》ればわかります。また貝塚《かひづか》から發見《はつけん》された貝《かひ》で、今日《こんにち》もはやその近海《きんかい》にゐなくなつたものもありますが、これらの研究《けんきゆう》は考古學《こうこがく》の範圍《はんい》ではなく、動物學者《どうぶつがくしや》または貝類學者《かひるいがくしや》の研究《けんきゆう》に屬《ぞく》するのでありますが、皆《みな》さんが貝塚《かひづか》に出《で》かけたならば、種々《しゆ/″\》異《ことな》つた種類《しゆるい》の貝殼《かひがら》を採集《さいしゆう》して來《く》る必要《ひつよう》のあることを忘《わす》れてはなりません。
それから貝塚《かひづか》の次《つ》ぎには、貝殼《かひがら》は見當《みあた》らぬけれどもやはり人間《にんげん》の住居《じゆうきよ》した跡《あと》と見《み》えて石器《せつき》やその他《た》の遺物《いぶつ》が土中《どちゆう》に挾《はさ》まつてゐる所《ところ》がありまするし、またそれをその後《ご》百姓《ひやくしよう》が掘《ほ》り返《かへ》し、田畑《たはた》の表面《ひようめん》に石器《せつき》や土器《どき》の散亂《さんらん》してゐる所《ところ》があります。皆《みな》さんが、もしさういふ所《ところ》へ行《い》つたならば、石《いし》の斧《をの》や石《いし》の矢《や》の根《ね》などの落《お》ちてゐるのを拾《ひろ》ふことが出來《でき》るのでありますが、昔《むかし》はたくさんにありましたけれど、近頃《ちかごろ》は百姓達《ひやくしようたち》も石器《せつき》であることを知《し》るようになり、自分《じぶん》で拾《ひろ》ひ取《と》つてしまひますし、またそれを集《あつ》めに行《ゆ》く人《ひと》も多《おほ》くなつたので、容易《ようい》に拾《ひろ》ふことが出來《でき》なくなりました。この貝塚《かひづか》の附近《ふきん》だとか、石器時代《せつきじだい》の人《ひと》が棲《す》んでゐた跡《あと》を發掘《はつくつ》する時《とき》は、をり/\石《いし》でもつて取《と》り圍《かこ》んだ爐《ろ》の跡《あと》だとか、または小屋《こや》を建《た》てた時《とき》の柱《はしら》を植《う》ゑ込《こ》んだ跡《あと》だとかゞ圓《まる》く竝《なら》んでゐることがあります。しかしその小屋《こや》の柱《はしら》だとか屋根《やね》などは朽《く》ちやすいもので造《つく》つてあつたから、今日《こんにち》ではまったく遺《のこ》つてゐません。それらは今日《こんにち》でも田舍《ゐなか》において見《み》かけます物置《ものお》きとか、肥料入《ひりようい》れの納家《なや》のような簡單《かんたん》な小屋《こや》がありますが、まあ、それと大《たい》した相違《そうい》のない程度《ていど》のものと思《おも》はれます。
ヨーロッパでは舊石器時代《きゆうせつきじだい》に氣候《きこう》が非常《ひじよう》に寒《さむ》かつたので、洞穴《ほらあな》の中《なか》に人間《にんげん》が棲《す》んでゐたことがありました。日本《につぽん》でも新石器時代《しんせつきじだい》に棲《す》むのに適當《てきとう》な洞穴《ほらあな》のあるところでは、やはりその中《なか》に住居《じゆうきよ》したことがないではありません。例《たと》へば越中《えつちゆう》氷見《ひみ》の大洞穴《だいどうけつ》の中《なか》には、今《いま》は小《ちひ》さい社《やしろ》が祀《まつ》られてありますが、その穴《あな》の中《なか》から石器時代《せつきじだい》の遺物《いぶつ》がたくさんに出《で》て來《き》ました。その他《ほか》にも各地《かくち》でかような洞穴《ほらあな》は發見《はつけん》されましたが、山腹《さんぷく》に當《あた》つて二三尺《にさんじやく》ぐらゐの穴《あな》が竝《なら》んで設《まう》けられてゐるいはゆる横穴《よこあな》といふもの、これは石器時代《せつきじだい》のものでなく、もっと後《のち》の時代《じだい》の墓《はか》でありますから、これは後《のち》にお話《はなし》をすることにいたします。
しかし石器時代《せつきじだい》の人間《にんげん》もお墓《はか》を造《つく》りました。たゞそれは今《いま》申《まを》しました横穴《よこあな》でもなく、また高《たか》い塚山《つかやま》を築《きづ》くのでもなく、普通《ふつう》は貝塚《かひづか》のある所《ところ》、あるひは人間《にんげん》の住居《じゆうきよ》の附近《ふきん》に、土地《とち》を二三尺《にさんじやく》掘《ほ》つてそこに死體《したい》を埋《うづ》めて置《お》いたのです。そして墓標《ぼひよう》のようなものを造《つく》つたかも知《し》れませんが、それも現在《げんざい》では何《なに》も遺《のこ》つてゐませんからわかりません。それゆゑ私共《わたしども》が貝塚《かひづか》を掘《ほ》つたり石器《せつき》の散《ち》らばつてゐる所《ところ》を掘《ほ》つてゐますと、その下《した》から石器時代《せつきじだい》の人間《にんげん》の骨《ほね》が出《で》て來《く》るので、初《はじ》めてそこが墓地《ぼち》であつたことが知《し》られるのであります。このような墓場《はかば》も今《いま》から十年前《じゆうねんぜん》まではよくわからなかつたのでありますが、だん/″\わかつて來《き》て各地《かくち》において續々《ぞく/\》發見《はつけん》されてまゐりました。陸前松島《りくぜんまつしま》の宮戸島《みやとじま》だとか、三河《みかは》の吉胡《よしこ》だとか、河内《かはち》の國府《こふ》だとか、備中《びつちゆう》の津雲《つぐも》だとか、肥後《ひご》の阿高《あこう》などでは、ずいぶんたくさん人間《にんげん》の骨《ほね》が出《で》て、ある一《ひと》つの場所《ばしよ》からは百體《ひやくたい》三百體以上《さんびやくたいいじよう》の骨《ほね》が、一間《いつけん》ほどの距離《きより》を置《お》いて竝《なら》んでゐるといふようなあり樣《さま》であります。石器時代《せつきじだい》の墓場《はかば》があり/\とこの世《よ》の中《なか》に現《あらは》れたわけで、發掘《はつくつ》に行《い》つた私共《わたしども》も實《じつ》に驚《おどろ》いたものでした。そして、それらの人間《にんげん》の骨《ほね》はほとんど完全《かんぜん》に、指先《ゆびさき》の骨《ほね》まで遺《のこ》つてゐる場合《ばあひ》がすくなくないのであります。かへって後《のち》の時代《じだい》の大《おほ》きな古墳《こふん》で、石棺《せきかん》の中《なか》に入《い》れた人間《にんげん》は骨《ほね》まで腐《くさ》つてゐるのが普通《ふつう》でありますのに、この棺桶《かんをけ》もなく土中《どちゆう》に埋《うづ》めた人間《にんげん》の骨《ほね》が、よく遺《のこ》つてゐるのは一見《いつけん》不思議《ふしぎ》に感《かん》ぜられますが、それは棺《かん》の中《なか》は空氣《くうき》が侵入《しんにゆう》して腐《くさ》り易《やす》いが、直接《ちよくせつ》に土中《どちゆう》に埋《うづ》める時《とき》は空氣《くうき》が入《い》り難《
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