く、アジアにもありました。支那《しな》では周《しゆう》から漢《かん》の時代頃《じだいごろ》までは、青銅《せいどう》が重《おも》に使用《しよう》されたのでありますが、その青銅《せいどう》は支那人自分《しなじんじぶん》で發明《はつめい》したものか、また西方《せいほう》の國《くに》から傳《つた》はつたのであるかどうかは、まだ十分《じゆうぶん》に研究《けんきゆう》されてをりません。
 ところが、人間《にんげん》が青銅《せいどう》を使《つか》つてゐる間《あひだ》に、鐵《てつ》の方《ほう》が銅《どう》よりも堅《かた》くて刃物《はもの》などにはつごうの好《よ》いことを知《し》つて來《き》たので、遂《つひ》に青銅《せいどう》に代《かは》つて鐵《てつ》が用《もち》ひられるようになりました。これから後《のち》を鐵器時代《てつきじだい》といふのでありますが、ヨーロッパでは鐵器時代《てつきじだい》の最《もつと》も古《ふる》い時代《じだい》をハルスタット時代《じだい》と稱《しよう》します。それはオウストリヤのハルスタットといふ所《ところ》の古墳《こふん》から掘《ほ》り出《だ》された鐵器《てつき》が、よくその特徴《とくちよう》を現《あらは》してゐたので、さういふ名《な》をつけたのであります。それから少《すこ》し後《のち》のヨーロッパの鐵器時代《てつきじだい》を、私共《わたしども》はラテーヌ時代《じだい》と呼《よ》んでゐますが、これはスヰスのある土地《とち》の名《な》でありまして、そこから掘《ほ》り出《だ》されたものが代表的《だいひようてき》のものとせられてゐるからであります。かのギリシアの文明《ぶんめい》も、鐵器時代《てつきじだい》のものでありまして、今《いま》から三千年程前《さんぜんねんほどまへ》に鐵《てつ》がギリシアにはひつて來《き》て、前《まへ》の青銅器時代《せいどうきじだい》の文明《ぶんめい》に代《かは》つて新《あたら》しく立派《りつぱ》な文明《ぶんめい》をつくり出《だ》したのであります。しかし鐵《てつ》が初《はじ》めて用《もち》ひられた頃《ころ》は、銅《どう》ばかり使《つか》つてゐた前《まへ》の時代《じだい》よりは必《かなら》ずしも文明《ぶんめい》が進《すゝ》んでゐたといふことは出來《でき》ません。前《まへ》に申《まを》しましたとほり、かの立派《りつぱ》なエヂプトの文明《ぶんめい》も、クリート嶋《とう》にあつたギリシア以前《いぜん》の非常《ひじよう》に進《すゝ》んだ文明《ぶんめい》も、皆《みな》青銅《せいどう》の時代《じだい》に屬《ぞく》してゐることを忘《わす》れてはなりません。そしてこの青銅器《せいどうき》から鐵器《てつき》の時代《じだい》における文明《ぶんめい》の話《はなし》になりますと、皆《みな》その國々《くに/″\》によつて皆《みな》異《こと》なつた形《かたち》で現《あらは》れてをりまして、もう歴史以後《れきしいご》の時代《じだい》に入《い》りますので、それらの時代《じだい》に出來《でき》た品々《しな/″\》を悉《こと/″\》くこの博物館《はくぶつかん》に竝《なら》べることはとうてい出來《でき》ません。それはまた別《べつ》の博物館《はくぶつかん》に陳列《ちんれつ》してありますから、皆《みな》さんはそこに行《い》つて見《み》て下《くだ》さい。
 それで、私共《わたしども》は、これから西洋《せいよう》やその他《た》外國《がいこく》のものはこれだけにして、日本《につぽん》で出《で》た石器時代《せつきじだい》からの古《ふる》い品物《しなもの》を見《み》に行《ゆ》くことにいたしませう。しかしちょっとお庭《には》へ出《で》て、私《わたし》はたばこ[#「たばこ」に傍点]を一《いつ》ぷくのみ、皆《みな》さんも一休《ひとやす》みといたしませう。
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第三、考古博物館の卷(下)
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     一、日本先史時代室《につぽんせんしじだいしつ》

      (イ) 日本《につぽん》の石器時代《せつきじだい》

 さぁこれからは西洋《せいよう》の品物《しなもの》でなく、私《わたし》どもの生《うま》れた日本《につぽん》の國《くに》の古《ふる》い時代《じだい》の品物《しなもの》を見《み》、そのお話《はなし》をするのです。ところが今《いま》まで述《の》べましたような石器時代《せつきじだい》からだん/″\金屬器《きんぞくき》の時代《じだい》に、人類《じんるい》の進歩《しんぽ》して行《い》つた順序《じゆんじよ》は、日本《につぽん》においても西洋《せいよう》と同《おな》じようになつてゐるのです。けれども、初《はじ》めに話《はな》しました一《いち》ばん古《ふる》い舊石器時代《きゆうせつきじだい》といふ時代《じだい》は、日本《につぽん》にもあつたかも知《し》れないが、今日《こんにち》までその遺物《いぶつ》が少《すこ》しも見《み》つかつてをりません。それゆゑ今《いま》までのところでは、日本《につぽん》で一番《いちばん》古《ふる》いのは、新石器時代《しんせつきじだい》のものでありまして、それから金屬器《きんぞくき》の時代《じだい》につゞいてゐるのであります。
 さて日本《につぽん》はいつ頃《ごろ》まで石器時代《せつきじだい》であつたかと申《まを》しますに、よくはわかりませんが、少《すくな》くとも今《いま》から二千年程前《にせんねんほどまへ》まで石器《せつき》の使用《しよう》が殘《のこ》つてゐたようであります。そして、その前《まへ》の千年間《せんねんかん》ぐらゐも石器時代《せつきじだい》であつたかと思《おも》はれますけれども、そのへんのことになると、殘念《ざんねん》ながら年數《ねんすう》を明《あきら》かにすることが出來《でき》ません。
 日本《につぽん》でも昔《むかし》から百姓《ひやくしよう》が土地《とち》を耕《たがや》したり、山《やま》が崩《くづ》れたりした時《とき》、ひょっこり石器《せつき》の發見《はつけん》されたことが屡々《しば/\》ありましたが、昔《むかし》はそれらの石器《せつき》を人間《にんげん》が造《つく》つたものとは思《おも》はないで、石《いし》の斧《をの》を見《み》て雷神《らいじん》が落《おと》したものであるとか、あるひは石《いし》の矢《や》の根《ね》を見《み》ては神樣《かみさま》が戰爭《せんそう》した時《とき》の矢《や》であると考《かんが》へたり、あるひは自然《しぜん》に出來《でき》たものであると信《しん》じたりしてゐました。
[#「第三十四圖 木内石亭翁」のキャプション付きの図(fig18371_35.png)入る]
 もっともかように考《かんが》へたのは日本《につぽん》ばかりでなく、西洋《せいよう》でも支那《しな》でも昔《むかし》はみな同《おな》じように思《おも》つてゐたのでありました。またこの不思議《ふしぎ》な石《いし》をよせ集《あつ》める物好《ものず》きな人《ひと》があつて、中《なか》にずいぶんたくさん集《あつ》めた人《ひと》もありました。中《なか》にも有名《ゆうめい》なのは、今《いま》から百年《ひやくねん》ばかり前《まへ》に、近江《あふみ》に木内石亭《きのうちせきてい》といふ人《ひと》で、これらの人達《ひとたち》も多《おほ》く集《あつ》めてゐる間《あひだ》に、これは天狗《てんぐ》の使《つか》つたものだとか神樣《かみさま》のものとかではなくて、人間《にんげん》が昔《むかし》使用《しよう》したものであらうと考《かんが》へ出《だ》して來《き》ました。また新井白石《あらゐはくせき》のような偉《えら》い學者《がくしや》は、これは昔《むかし》北海道《ほつかいどう》から樺太《からふと》に棲《す》んでゐた肅愼《しゆくしん》といふ民族《みんぞく》が使用《しよう》したものであらうと考《かんが》へ、百年《ひやくねん》ほど前《まへ》に日本《につぽん》へ來《き》たシーボルドといふ西洋人《せいようじん》は、これは昔《むかし》のアイヌ人《じん》が使《つか》つたものだらうといつてをりました。
[#「第三十五圖 モールス先生」のキャプション付きの図(fig18371_36.png)入る]
 しかし、この石器《せつき》が人間《にんげん》の使《つか》つたものであり、また、かような石器《せつき》を使《つか》つた人間《にんげん》が日本《につぽん》のこゝかしこにも棲《す》んでゐたといふことを、現場《げんじよう》を掘《ほ》つて研究《けんきゆう》し、本當《ほんとう》によくわかつて來《き》たのは新《あたら》しいことであります。それは今《いま》から五十年程前《ごじゆうねんほどまへ》に、アメリカから日本《につぽん》の大學《だいがく》の教授《きようじゆ》になつて來《き》たモールスといふ先生《せんせい》が、初《はじ》めてわれ/\に教《をし》へてくれたのであります。この先生《せんせい》は動物學者《どうぶつがくしや》でありまして、日本《につぽん》へ來《く》る前《まへ》に、アメリカのフロリダといふ所《ところ》で石器時代《せつきじだい》の貝塚《かひづか》を掘《ほ》つた經驗《けいけん》があり、その方面《ほうめん》の學問《がくもん》にも詳《くは》しい人《ひと》でありました。明治十二年《めいじじゆうにねん》に船《ふね》で横濱《よこはま》に着《つ》きまして、その頃《ころ》出來《でき》てゐました汽車《きしや》で東京《とうきよう》へ行《ゆ》く途中《とちゆう》、汽車《きしや》の窓《まど》からそこら邊《へん》の風景《ふうけい》を眺《なが》めてをりました。ところが大森驛《おほもりえき》[#ルビの「おほもりえき」は底本では「おはもりえき」]の附近《ふきん》において線路《せんろ》の上《うへ》に白《しろ》い貝殼《かひがら》が多《おほ》く散亂《さんらん》してゐるのを見《み》つけまして、これはきっと石器時代《せつきじだい》の貝塚《かひづか》があるのに違《ちが》いないと思《おも》ひ、それから間《ま》もなくこの大森《おほもり》へ發掘《はつくつ》に出《で》かけました。果《はた》してそれは貝塚《かひづか》でありまして、石器《せつき》や土器《どき》が多數《たすう》に出《で》て來《き》たのです。これが日本《につぽん》において貝塚《かひづか》を研究《けんきゆう》するために發掘《はつくつ》した最初《さいしよ》であります。モールス先生《せんせい》は、三四年前《さんよねんぜん》アメリカで亡《な》くなられましたが、近頃《ちかごろ》この大森《おほもり》に先生《せんせい》の記念碑《きねんひ》が建《た》てられました。このモールス先生《せんせい》の弟子達《でしたち》や、またその後《ご》に出《で》て來《き》た學者達《がくしやたち》が、熱心《ねつしん》に東京附近《とうきようふきん》の貝塚《かひづか》を調査《ちようさ》いたしまして、石器時代《せつきじだい》の事柄《ことがら》を研究《けんきゆう》したのでありますが、中《なか》でも今《いま》から十數年前《じゆうすうねんまへ》に歿《ぼつ》せられました、東京帝國大學《とうきようていこくだいがく》の教授《きようじゆ》であつた坪井正五郎博士《つぼゐしようごろうはかせ》は、最《もつと》も熱心《ねつしん》に研究《けんきゆう》されたのであります。私《わたし》なども中學生《ちゆうがくせい》の時分《じぶん》から、坪井先生《つぼゐせんせい》の教《をし》へを受《う》け、それから一《いつ》そうこの學問《がくもん》が好《す》きになつたのであります。
[#「第三十六圖 坪井正五郎先生」のキャプション付きの図(fig18371_37.png)入る]
 今日《こんにち》では日本全國《につぽんぜんこく》の到《いた》る處《ところ》、北《きた》は樺太《からふと》北海道《ほつかいどう》から本州全體《ほんしゆうぜんたい》四國《しこく》九州《きゆうしゆう》、西《にし》は朝鮮《ちようせん》、南《みなみ》は臺灣《たいわん》まで、どこでも石器時代《せつきじだい》の遺蹟《いせき》の發見《はつけん》されぬところはありません。そして三千年《さんぜんねん》五
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