》に立《た》て、その上《うへ》にやはりひらたい大石《おほいし》をのせた一見《いつけん》てーぶる[#「てーぶる」に傍点]の形《かたち》をしたものであります。どるめん[#「どるめん」に傍点]といふ語《ご》も、石《いし》の机《つくゑ》といふ意味《いみ》の言葉《ことば》であります。このてーぶる[#「てーぶる」に傍点]の下《した》に人間《にんげん》を葬《はうむ》つたので、これは疑《うたが》ひもなく墓《はか》であります。(第三十一圖《だいさんじゆういちず》1)、(第三十二圖《だいさんじゆうにず》1)このどるめん[#「どるめん」に傍点]は石器時代《せつきじだい》から、青銅器時代《せいどうきじだい》に亙《わた》つて行《おこな》はれたもので、後《のち》には、だん/\石《いし》で造《つく》つた長《なが》い廊下《ろうか》のような室《しつ》が出來《でき》、その石《いし》の上《うへ》に土《つち》をかぶせて圓《まる》い高塚《たかつか》としたものが現《あらは》れました。この石室《せきしつ》のある塚《つか》は、新石器時代《しんせつきじだい》から次《つ》ぎの青銅器時代以後《せいどうきじだいいご》において、盛《さか》んに世界各國《せかいかつこく》に行《おこな》はれてゐたものでありまして、日本《につぽん》にもたくさんありますが、日本《につぽん》にはごく古《ふる》い石器時代《せつきじだい》のどるめん[#「どるめん」に傍点]はありません。(第三十七圖《だいさんじゆうしちず》34)
[#「第三十二圖 巨石記念物」のキャプション付きの図(fig18371_33.png)入る]
 いま申《まを》しました種々《しゆ/″\》の巨石《きよせき》で造《つく》つた記念物《きねんぶつ》に用《もち》ひられた石《いし》は、多《おほ》くは山《やま》や谷《たに》にある自然石《しぜんせき》の恰好《かつこう》良《よ》いものを取《と》つて來《き》て、そのまゝ使用《しよう》したもので、餘《あま》り人工《じんこう》を加《くは》へてありません。しかし、かような大《おほ》きい石《いし》を運搬《うんぱん》するには、餘程《よほど》の勞力《ろうりよく》が必要《ひつよう》であります。今日《こんにち》のごとく機械《きかい》の力《ちから》がない時代《じだい》でありますから、たゞ多數《たすう》の人間《にんげん》が力《ちから》を合《あは》せて、時《とき》には牛馬《ぎゆうば》の力《ちから》を借《か》りたかもわかりませんが、多《おほ》くは人力《じんりよく》をもつてなされたものに相違《そうい》ありません。ですから當時《とうじ》において既《すで》に協同一致《きようどういつち》して爲事《しごと》をする一《ひと》つの團體《だんたい》、社會《しやかい》といふものが出來《でき》てをり、またそれを支配《しはい》して行《ゆ》く頭《かしら》、すなはち酋長《しゆうちよう》のようなものがなくては、とうていかような爲事《しごと》は出來《でき》ますまいから、この大工事《だいこうじ》の遺物《いぶつ》を見《み》たゞけでも、當時《とうじ》の社會状態《しやかいじようたい》が察《さつ》することが出來《でき》ます。また二十尺《にじつしやく》も三十尺《さんじつしやく》も高《たか》い石《いし》を兩側《りようがは》に立《た》てゝ、その上《うへ》に横《よこ》に巨石《きよせき》を載《の》せてあるものなどは、たゞ人力《じんりよく》だけでもつてなされるものではなく、種々《しゆ/″\》工夫《くふう》を凝《こら》したものでせう。それには遠方《えんぽう》より土《つち》を次第《しだい》につんで傾斜《けいしや》した坂道《さかみち》を築《きづ》き上《あ》げ、それへ石《いし》を押《お》し上《あ》げてこれを縱《たて》に落《おと》し立《た》て、それからその上《うへ》に横石《よこいし》を載《の》せたもので、坂道《さかみち》の土砂《どしや》はその後《ご》除《のぞ》き去《さ》つたものと想像《そう/″\》されるのです。
 かような大《おほ》きな巨石記念物《きよせききねんぶつ》は、博物館《はくぶつかん》に運搬《うんぱん》して來《く》ることはとうてい出來《でき》ませんから、そこにある模型《もけい》と寫眞《しやしん》によつて、皆《みな》さんはその大體《だいたい》を知《し》る外《ほか》はありませんが、たゞ館《かん》の中庭《なかには》にはあのどるめん[#「どるめん」に傍点]の小《ちひ》さいものを、原状《げんじよう》のまゝ持《も》つて來《き》て据《す》ゑてありますから、後程《のちほど》庭《には》へ出《で》て御覽下《ごらんくだ》さい。そしてその石室《せきしつ》にはひつて見《み》られたならば、一番《いちばん》小《ちひ》さいどるめん[#「どるめん」に傍点]でも、どれだけの大《おほ》いさであるかゞわかり、從《したが》つて大《おほ》きいものはどれほどあるかを想像《そう/″\》することが出來《でき》ませう。
 またどるめん[#「どるめん」に傍点]といふ墓《はか》やめんひる[#「めんひる」に傍点]といふ立《た》て石《いし》などには、をり/\圓《まる》や三角《さんかく》だのゝ形《かたち》を石《いし》の上《うへ》に彫《ほ》りつけたのがあつたり、ぽつ/\と大《おほ》きなくぼみを彫《ほ》り竝《なら》べたものがあります。それは何《なに》か宗教上《しゆうきようじよう》の意味《いみ》の現《あらは》しであらうと思《おも》はれます。ヨーロッパの地中海《ちちゆうかい》にあるマルタ島《とう》の大《おほ》きな石《いし》の墓《はか》、あれはどるめん[#「どるめん」に傍点]がだん/\進歩《しんぽ》して複雜《ふくざつ》な型《かた》になつたもので、ずいぶん珍《めづら》しいものゝ一《ひと》つであります。石《いし》の上《うへ》にぽつ/\のくぼみが多《おほ》くつけてあるので有名《ゆうめい》であります。その他《た》巨石記念物《きよせききねんぶつ》といふものゝ中《うち》の風變《ふうがは》りのものは、やはり地中海《ちちゆうかい》のサルジニヤ島《とう》にあるねるげ[#「ねるげ」に傍点]といふもので、これは石《いし》を圓《まる》くつみ上《あ》げ根元《ねもと》は太《ふと》く、先《さき》ほど少《すこ》しづつ細《ほそ》くなつてゐる塔《とう》のようなもので、他《ほか》の地方《ちほう》には見《み》ることが出來《でき》ないものです。

      (ニ) 金屬《きんぞく》の發見《はつけん》と使用《しよう》

 人類《じんるい》は前《まへ》に述《の》べましたとほり、長《なが》い年月《としつき》、石《いし》をもつて器物《きぶつ》を造《つく》つて、金屬《きんぞく》を使用《しよう》することを知《し》らなかつたのでありますが、その間《あひだ》に自《おの》づと天然《てんねん》に石《いし》の間《あひだ》に混入《こんにゆう》したり、あるひは砂《すな》の中《なか》に轉《ころが》つてゐる金屬《きんぞく》などを知《し》り、遂《つひ》にはそれを使用《しよう》するようになつて來《き》ました。そしてそれらの金屬《きんぞく》をもつて造《つく》つた器物《きぶつ》の方《ほう》が、石《いし》で造《つく》つたものよりは工合《ぐあひ》のよいことを知《し》つてからは、だん/\石《いし》の代《かは》りに金屬《きんぞく》で造《つく》るようになりました。さて金屬《きんぞく》の中《うち》で一番《いちばん》早《はや》く發見《はつけん》されたのはなんであるかと申《まを》しますと、金《きん》と銅《どう》と鐵《てつ》の三種《さんしゆ》であつたようであります。しかし金《きん》は綺麗《きれい》で裝飾《そうしよく》にはなりますが、質《しつ》が軟《やはら》かくて刃物《はもの》などにしては實際《じつさい》の役《やく》に立《た》ちません。それで銅《どう》と鐵《てつ》の二《ふた》つの中《うち》、いづれかゞ使用《しよう》されることになりましたが、果《はた》してどちらが先《さき》に使用《しよう》されたかについては今《いま》なほ議論《ぎろん》があります。一方《いつぽう》には鐵《てつ》の方《ほう》が地中《ちちゆう》から掘《ほ》り出《だ》すことが容易《ようい》でありますから、早《はや》くから使《つか》はれたとの説《せつ》がありますし、また一方《いつぽう》にはエヂプトのごく古《ふる》い時代《じだい》に、もう鐵《てつ》が發見《はつけん》されてゐたといふこともありますが、實際《じつさい》のところ今日《こんにち》遺《のこ》つてゐる種々《しゆ/″\》な器物《きぶつ》から考《かんが》へますと、銅《どう》と錫《すゞ》との合金《ごうきん》である青銅《せいどう》が、一番《いちばん》早《はや》く石《いし》に代《かは》つて廣《ひろ》く使用《しよう》されることになつたといふべきでありませう。
 それならば、その銅《どう》は最初《さいしよ》どこで發見《はつけん》されたかといふに、それはやはりはっきりわかりませんが、とにかくアジアの西方《せいほう》においてまづ盛《さか》んに使用《しよう》されたし、それが南《みなみ》ヨーロッパに入《い》り、遂《つひ》には中央《ちゆうおう》ヨーロッパから北《きた》ヨーロッパにだん/″\廣《ひろ》がつて行《い》つたといふことだけは確《たし》かにわかるのであります。この銅《どう》、あるひは青銅《せいどう》を使《つか》つた人間《にんげん》は、前《まへ》に申《まを》した新石器時代《しんせつきじだい》の人類《じんるい》とやはり同《おな》じ人種《じんしゆ》で、石《いし》で造《つく》つた斧《をの》のような器物《きぶつ》を、初《はじ》めはそれと同《おな》じ形《かたち》に金屬《きんぞく》をもつて造《つく》つたのでありますが、それがだん/\使用《しよう》に便利《べんり》な形《かたち》にかへて行《い》つたのです。また銅《どう》に錫《すゞ》をまぜると鑄《ゐ》るのに容易《ようい》で、しかも堅《かた》くつて丈夫《じようぶ》であるといふことも、最初《さいしよ》は偶然《ぐうぜん》に知《し》つたらしいのでありますが、幾度《いくど》かの經驗《けいけん》で銅《どう》九分《くぶ》に錫《すゞ》一分《いちぶ》をまぜあはすと、器物《きぶつ》としてはつごうが良《よ》いことをも知《し》つたので、青銅器時代《せいどうきじだい》の終《をは》り頃《ごろ》には、混合《こんごう》の歩合《ぶあひ》がたいていこのわりあひになつてをります。かのエヂプトの進《すゝ》んだ文明《ぶんめい》も使用《しよう》した器物《きぶつ》からいへば、青銅《せいどう》を一般《いつぱん》に多《おほ》く用《もち》ひてゐます。またギリシヤの文明《ぶんめい》の開《ひら》ける前《まへ》に、クリートの嶋《しま》やその附近《ふきん》において發達《はつたつ》した文明《ぶんめい》も、やはり青銅器《せいどうき》の時代《じだい》に屬《ぞく》するのでありました。ヨーロッパでは南《みなみ》の方《ほう》には早《はや》く鐵《てつ》がはひつて來《き》ましたが、北方《ほつぽう》のデンマルクやスエーデンやノールウエなどでは、鐵《てつ》のはひつて來《く》るのが大分《だいぶ》遲《おそ》かつたがために、かへって青銅《せいどう》で器物《きぶつ》を造《つく》ることが發達《はつたつ》して、すばらしい青銅器《せいどうき》が多《おほ》く出來《でき》てゐます。御覽《ごらん》なさい、この壁《かべ》にかけてある青銅器《せいどうき》を見《み》て行《ゆ》きますと、初《はじ》めは石《いし》の斧《をの》から同《おな》じ形《かたち》の銅《どう》の斧《をの》になり、それがだん/″\進歩《しんぽ》して柄《え》を差《さ》し込《こ》むところが出來《でき》たり、また短《みじか》い三角《さんかく》の劍《つるぎ》が長《なが》く平《ひら》たい劍《つるぎ》にと、進《すゝ》んで行《い》つたところがよくわかるでありませう。(第三十三圖《だいさんじゆうさんず》)
[#「第三十三圖 ヨーロツパ青銅器」のキャプション付きの図(fig18371_34.png)入る]
 この青銅器《せいどうき》の時代《じだい》は、ヨーロッパばかりでな
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