だりうへ》)これは皆《みな》さんも、果《はた》して人間《にんげん》が造《つく》つたものであるか否《いな》かについて疑《うたが》ふのはむりがありません。學者《がくしや》の間《あひだ》にも種々《しゆ/″\》意見《いけん》がありまして、ある學者《がくしや》は、人間《にんげん》が手《て》を加《くは》へて造《つく》つたものであるといひ、またある學者《がくしや》は、いや自然《しぜん》に石《いし》がぶつかったり、何《なに》かの機會《きかい》に出來《でき》たにすぎないものだといふ。しかし、かような石《いし》の破片《はへん》を持《も》つて來《き》て、これが原石器《げんせつき》であるかどうかといふ確《たし》かなことは答《こた》へが出來《でき》ないにしても、人間《にんげん》が立派《りつぱ》な石器《せつき》を造《つく》る以前《いぜん》に、それよりも簡單《かんたん》な、ちょうどこんな粗末《そまつ》な石器《せつき》を造《つく》つたことがあつてもよいし、またこんな石片《せつぺん》の中《うち》にも、人間《にんげん》の手《て》を加《くは》へたものが混《こん》じてゐることだけは認《みと》めなければなりません。
 よしこの原石器《げんせつき》に疑問《ぎもん》があるにしても、その次《つ》ぎに竝《なら》べてある拳《こぶし》のような形《かたち》をした石《いし》になると、誰《たれ》が見《み》ても(第二十一圖《だいにじゆういちず》左下《ひだりした》)かう根元《ねもと》が太《ふと》つて先《さき》が尖《とが》つた石《いし》ばかりが、偶然《ぐうぜん》にわれて出《で》て來《く》るとは思《おも》はれない。どうしてもこれは人間《にんげん》が造《つく》つたものとしなければなりません。これには人間《にんげん》の拳《こぶし》ほどもある大形《おほがた》のものが非常《ひじよう》に多《おほ》いのでありまして、一番《いちばん》古《ふる》い石器《せつき》といはれ、セイユ期《き》の石器《せつき》と呼《よ》ばれてゐるものであります。その次《つ》ぎに造《つく》られた石器《せつき》は、その隣《とな》りにあるアシュウル期《き》の石器《せつき》です。(同上《どうじよう》右上中《みぎうへなか》)形《かたち》は大體《だいたい》前《まへ》のものに似《に》てゐるけれども、製法《せいほう》が細《こま》かくなり、だいぶ美《うつく》しく出來《でき》てをります。こんな
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