私は二三度数会へゆき、マザーと話をした。公教要理は滑稽だったし、神父の説教は矛盾していた。戦争中の宗教は政府からの弾圧があるのか云い度くないことを云わねばならず、云い度いことを黙っておらねばならない教会の立場であったのかもしれない。その頃だったか、もっとそれ以後だったかはっきりしないが、教会で選挙運動があった。神父が説教の半ばに、推薦演説をはじめたのである。これには全く顔負けしてしまった。私は、カトリックの教理をつかまないまでに教会行はやめてしまった。しかし、仏教の信仰もまた徹底しておらず、碧巌録や、歎異抄や、神の話をあれこれよんだが、勿論、解らないままであった。又精神修養の講話もききに行った。蟻や羽虫を気合いで仮死状態にすることも覚え、運動場で実演をみせたりした。
疎開する者が増し、組の人員も目立って減って行った。夏すぎになると戦争は悪化してゆき、不安なサイレンを度々きかなければならなかった。授業は殆どと切れ、きまった時間にきまった仕事を仕上げるのが無理になって来た。
ある日、警報下のことである。私は情報部員であったから、ラジオの傍で筆記していた。その日に限って、それがどんな動機
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