からは、手紙が書けるので手続も来ようが、リーズといえば、書くことも知らないのだから、ここであの子のことをわたしが忘《わす》れてしまえば、もうかの女はなにもかも世界の様子がわからなくなってしまうのだ。
「では、お父さんは、お子さんたちの便《たよ》りを、わたしが持って来るのがおいやなのですか」とわたしはたずねてみた。
「なるほどみんなの話では、おまえは子どもたちの所へ一人ひとり訪《たず》ねて行ってくれるということだが、それはありがたいが、といって、わたしたち自分のことばかり考えているわけにはゆかない。それよりかまずおまえのためを考えなければならないのだよ」
「では、わたしだってお父さんのおっしゃるとおりにして、自分の身の上の危険《きけん》をおそれて、今度の計画をやめてしまえば、やはり自分のことばかり考えて、あなたのことも、それからリーズのことも考えなくてもいいということになりますよ」
 お父さんはしばらくわたしの顔をながめていたが、急にわたしの両手を取った。
「まあ、よくおまえ、言っておくれだ。おまえはほんとうに真心《まごころ》がある」
 わたしはかれの首にうでをかけた。そのうち、さようならを言う時間が来た。しばらくのあいだかれはだまってわたしをおさえていた。やがていきなりかれはチョッキのかくしを探《さぐ》って、大きな銀時計を引き出した。
「さあ、おまえ、これをあげる」とかれは言った。「これをわたしの形見に持っていてもらいたい。たいした値打《ねう》ちのものではない。値打ちがあればわたしはとうに売ってしまったろう。時間も確《たし》かではない。いけなくなったらげんこでたたきこわしてもいい。でもこれがわたしの持っているありったけだ」
 わたしはこんなりっぱなおくり物を断《ことわ》ろうと思ったけれど、かれはそれをわたしのにぎった手に無理《むり》におしこんだ。
「ああ、わたしは時間を知る必要《ひつよう》はないのだ。時間はずいぶんゆっくりゆっくりたってゆく。それを勘定《かんじょう》していたら、死んでしまう。さようなら、ルミや。いつでもいい子でいるように、覚《おぼ》えておいで」
 わたしはひじょうに悲しかった。どんなにあの人はわたしに優《やさ》しくしてくれたであろう。わたしは別《わか》れてのち長いあいだ刑務所《けいむしょ》のドアの回りをうろうろした。ぼんやりわたしはそのまま夜まででも立ち止まっていたかもしれなかったが、ふとかくしにある固《かた》い丸《まる》いものが手にさわった。わたしの時計であった。
 ありったけのわたしの悲しみはしばらくのあいだ忘《わす》れられた。わたしの時計だ。自分の時計で時間を知ることができるのだ。わたしは時間を見るために、それを引き出した。昼だ。それは昼であろうと、十時であろうと、十一時であろうと、たいしたことではなかった。でもわたしは昼であるということがたいそううれしかった。それがなぜだか言うのはむずかしい。けれどそういうわけであった。わたしの時計がそう知らせてくれる。なんということだ。わたしにとって時計は相談《そうだん》をしたり、話のできる親友であると思われた。
「時計君、何時だね」
「十二時ですよ、ルミさん」
「おやおや。ではあれをしたり、これをしたりするときだ。いいことをおまえは教えてくれた。おまえが言ってくれなければ、ぼくは忘《わす》れるところだったよ」
 わたしのうれしいのにまぎれて、カピがほとんどわたしと同様に喜《よろこ》んでいてくれることに気がつかなかった。かれはわたしのズボンのすそを引《ひ》っ張《ぱ》って、たびたびほえた。かれがほえ続《つづ》けたときわたしは初《はじ》めて、かれに注意を向けてやらなければならなかった。
「カピ、なんの用だい」とわたしはたずねた。かれはわたしの顔をながめた。けれどわたしはかれの意味が解《と》けなかった。かれはしばらく待っていたが、やがてわたしの前に来て、時計を入れたかくしの上に前足をのせて立った。かれはヴィタリス親方といっしょに働《はたら》いていたじぶんと同じように、「ご臨席《りんせき》の貴賓諸君《きひんしょくん》」に時間を申し上げる用意をしていたのであった。
 わたしは時計をかれに見せた。かれはしばらく思い出そうと努《つと》めるように、しっぽをふりながらそれを、ながめたが、やがて十二|度《たび》ほえた。かれは忘《わす》れてはいなかった。わたしたちはこの時計でお金を取ることができる。これはわたしがあてにしていなかったことであった。
 前へ進め、子どもたち。わたしは刑務所《けいむしょ》に最後《さいご》の目をくれた。そのへいの後ろにはリーズの父親が閉《と》じこめられているのだ。
 それからずんずん進んで行った。なによりもわたしに入り用なものは、フランスの地図であった。河岸《かし》通りの本屋へ行けば、それの得《え》られることを知っていたので、わたしは川のほうへ足を向けた。やっとわたしは十五スーで、ずいぶん黄色くなった地図を見つけた。
 わたしはそれでパリを去ることができるのであった。すぐわたしはそれをすることに決めた。わたしは二つの道の一つを選《えら》ばなければならなかった。わたしはフォンテンブローへの道を選んだ。リュウ・ムッフタールの通りへ来かかると、山のような記憶《きおく》が群《むら》がって起こった。ガロフォリ、マチア、リカルド、錠前《じょうまえ》のかかったスープなべ、むち、ヴィタリス老人《ろうじん》、あの気のどくな善良《ぜんりょう》な親方。わたしをこじきの親分へ貸《か》すことをきらったために、死んだ人。
 お寺のさくの前を通ると、子どもが一人かべによっかかっているのを見た。その子はなんだか見覚《みおぼ》えがあるように思った。
 確《たし》かにそれはマチアであった。大きな頭の、大きな目の、優《やさ》しい、いじけた目つきの子どものマチアであった。けれどかれはちっとも大きくはなっていなかった。わたしはよく見るためにそばへ寄《よ》った。ああそうだ、そうだ、マチアであった。
 かれはわたしを覚《おぼ》えていた。かれの青ざめた顔はにっこり笑《わら》った。
「ああ、きみだね」とかれは言った。「きみは先《せん》に白いひげのおじいさんとガロフォリのうちへ来たね。ちょうどぼくが病院へ行こうとするまえだった。ああ、あれからぼくはどんなにこの頭でなやんだろう」
「ガロフォリはまだきみの親方なのかい」
 かれは返事をするまえにそこらを見回して、それから声をひそめて言った。
「ガロフォリは刑務所《けいむしょ》にはいっているよ。オルランドーを打ち殺《ころ》したので連《つ》れて行かれたのだ」
 わたしはこの話を聞いてぎょっとした。でもわたしはガロフォリが刑務所に入れられたと聞いてうれしかった。初《はじ》めてわたしは、あれほどおそろしいものに思いこんでいた刑務所が、これはなるほど役に立つものだと考えた。
「それでほかの子どもたちは」とわたしはたずねた。
「ああ、ぼくは知らないよ。ガロフォリがつかまったときには、ぼくはいなかった。ぼくが病院から出て来ると、ぼくは病気で、もうぶっても役に立たないと思って、あの人はわたしを手放したくなった。そこであの人はわたしを二年のあいだガッソーの曲馬団《きょくばだん》へ売った。前金で金をはらってもらったのだ。きみはガッソーの曲馬を知っているかい。知らない。うん、それはたいした曲馬団ではないけれど、やはり曲馬は曲馬さ。そこでは子どもを、かたわの子どもを使うのだ。それでガロフォリがぼくをガッソーへ売ったのだ。ぼくはこのまえの月曜までそこにいたが、ぼくの頭がはこの中にはいるには大きすぎるというので、追い出された。曲馬団《きょくばだん》を出るとぼくはガロフォリのうちへもどったが、うちはすっかり閉《し》まっていた。近所の人に聞いて様子がすっかりわかった。ガロフォリが刑務所《けいむしょ》へ行ってしまうと、ぼくはどこへ行っていいか、わからない」
「それにぼくは金を持たない」とかれはつけ加《くわ》えて言った。「ぼくはきのうから一きれのパンも食べない」
 わたしも金持ちではなかったけれど、気のどくなマチアにやるだけのものはあった。わたしがツールーズへんをいまのマチアのように飢《う》えてうろうろしていたじぶん、一きれのパンでもくれる人があったら、わたしはどんなにその人の幸福をいのったであろう。
「ぼくが帰って来るまで、ここに待っておいでよ」とわたしは言った。わたしは町の角のパン屋までかけて行って、まもなく一|斤《きん》買って帰って、それをかれにあたえた。かれはがつがつして、見るまに食べてしまった。
「さて」とわたしは言った。「きみはどうするつもりだ」
「ぼくはわからない。ぼくはヴァイオリンを売ろうかと思っていたところへきみが声をかけた。ぼくはそれと別《わか》れるのがこんなにいやでなかったら、とうに売っていたろう。ぼくのヴァイオリンはぼくの持っているありったけのもので、悲しいときにも、一人いられる場所が見つかると、自分一人でひいていた。そうすると空の中にいろんな美しいものが、ゆめの中で見るものよりももっと美しいものが見えるんだ」
「なぜきみは往来《おうらい》でヴァイオリンをひかないのだ」
「ひいてみたけれど、なにももらえなかった」
 ヴァイオリンをひいて一文ももらえないことを、どんなによくわたしも知っていたことであろう。
「きみはいまなにをしているのだ」とかれはたずねた。
 わたしはなぜかわからなかった。けれどそのときの勢《いきお》いで、こっけいなほらをふいてしまった。
「ぼくは一座《いちざ》の親方だよ」とわたしは高慢《こうまん》らしく言った。
 それは真実《しんじつ》ではあったが、その真実はずっとうそのほうに近かった。わたしの一座はたったカピ一人だけだった。
「おお、きみはそんなら……」とマチアが言った。
「なんだい」
「きみの一座《いちざ》にぼくを入れてくれないか」
 かれをあざむくにしのびないので、わたしはにっこりしてカピを指さした。
「でも一座はこれだけだよ」とわたしは言った。
「ああ、なんでもかまうものか。ぼくがもう一人の仲間《なかま》になろう。まあどうかぼくを捨《す》てないでくれたまえ。ぼくは腹《はら》が減《へ》って死んでしまう」
 腹が減って死ぬ。このことばがわたしのはらわたの底《そこ》にしみわたった。腹が減って死ぬということがどんなことだか、わたしは知っている。
「ぼくはヴァイオリンをひくこともできるし、でんぐり返しをうつこともできる」と、マチアがせかせか息もつかずに言った。「なわの上でおどりもおどれるし、歌も歌える。なんでもきみの好《す》きなことをするよ。きみの家来にもなる。言うことも聞く。金をくれとは言わない。食べ物だけあればいい。ぼくがまずいことをしたらぶってもいい。それはやくそくしておく。ただたのむことは頭をぶたないでくれたまえ。これもやくそくしておいてもらわなければならない。なぜならぼくの頭はガロフォリがひどくぶってから、すっかりやわらかくなっているのだ」
 わたしはかわいそうなマチアが、そんなことを言うのを聞くと、声を上げて泣《な》きだしたくなった。どうしてわたしはかれを連《つ》れて行くことをこばむことができよう。腹《はら》が減《へ》って死ぬというのか。でも、わたしといっしょでも、やはり腹が減って死ぬかもしれない場合がある――わたしはそうかれに言ったが、かれは聞き入れようともしなかった。
「ううん、ううん」とかれは言った。「二人いれば飢《う》え死《じ》にはしない。一人が一人を助けるからね。持っている者が持っていない者にやれるのだ」
 わたしはもうちゅうちょしなかった。わたしがすこしでも持っていれば、わたしはかれを助けなければならない。
「うん、よし、それでわかった」とわたしは言った。
 そう言うと、かれはわたしの手をつかんで、心から感謝《かんしゃ》のキッスをした。
「ぼくといっしょに来たまえ」とわたしは言った。「家来ではなく、仲間《なかま》になろう」

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