七時ごろ今度はエチエネットがわたしを庭へ連《つ》れ出した。
「ルミ、わたしあなたにほんのお形見をあげようと思うの」とかの女は言った。「この小ばこを納《おさ》めてください。わたしのおじさんがくれたものだから。中には糸と針《はり》とはさみがはいっています。旅をして歩くと、こういうものが入り用なのよ。なにしろわたしがそばにいて、着物のほころびを直したり、ボタンをつけたりしてあげることができないのだからねえ。それでわたしのはさみを使うときにはわたしたちみんなのことを思い出してください」
エチエネットがわたしと話をしているあいだ、アルキシーがそばをぶらついていた。かの女がわたしを置《お》いて、うちの中へはいると、かれはやって来て、
「ねえ、ルミ」とかれは言いだした。「ぼくは五フランの銀貨《ぎんか》を二つ持っている。一つあげよう。きみがもらってくれると、ぼくはずいぶんうれしいんだ」
わたしたち五人のうちで、アルキシーはたいへん金をだいじにする子であった。わたしたちはいつもかれの欲張《よくば》りをからかっていた。かれは一スー、二スーと貯金《ちょきん》してしじゅう貯金の高《たか》を勘定《かんじょう》していた。かれは一スーずつためては新しい十スー、二十スーの銀貨《ぎんか》とかえてだいじに持っていた。そういうかれの申し出は、わたしを心から感動させた。わたしは断《ことわ》りたかったけれど、かれはきらきらする銀貨をわたしの手に無理《むり》ににぎらせた。わたしはだいじにしている宝《たから》が分けてくれようというかれの友情《ゆうじょう》がひじょうに強いものであることを知った。
バンジャメンもわたしを忘《わす》れはしなかった。かれはやはりわたしにおくり物をしようと思った。かれはわたしにナイフをくれて、それと交換《こうかん》に、一スー請求《せいきゅう》した。なぜなら、ナイフは友情《ゆうじょう》を切るものだから。
時間はかまわずずんずんたっていった。いよいよわたしたちの別《わか》れる時間が来た。
リーズはぼくのことをなんと思っているだろう。馬車がうちの前に近づいて来たときに、リーズがまたわたしに庭までついて来いという手まねをした。
「リーズ」とかの女のおばさんが呼《よ》んだ。
かの女はそれには返事をしないで急いでかけ出して行った。かの女は庭のすみに一本|残《のこ》っていた大きなベンガルばらの前に立ち止まって、一えだ折《お》った。それからわたしのほうを向いてそのえだを二つにさいた。その両方にばらのつぼみが一つずつ開きかけていた。
くちびるのことばは目のことばに比《くら》べては小さなものである。目つきに比べて、ことばのいかに冷《つめ》たく、空虚《くうきょ》であることよ。
「リーズ、リーズ」とおばさんがさけんだ。
荷物はもう馬車の中に積《つ》みこまれていた。
わたしはハープを下ろして、カピを呼《よ》んだ。わたしのむかしに返ったおなじみの姿《すがた》を見ると、かれはうれしがって、とび上がって、ほえ回った。かれは花畑の中に閉《と》じこめられているよりも、広い大道の自由を愛《あい》した。
みんなは馬車に乗った。わたしはリーズをおばさんのひざに乗せてやった。わたしはそこに半分目がくらんだようになって立っていた。するとおばさんが優《やさ》しくわたしをおしのけて、ドアを閉《し》めた。
「さようなら」
馬事は動きだした。
もやの中でわたしはリーズが窓《まど》ガラスによって、わたしに手をふっているのを見つけた。やがて馬車は町の角を曲がってしまった。見えるものはもう砂《すな》けむりだけであった。わたしはハープによりかかって、カピが足の下でからみ回るままに任《まか》せた。ぼんやり往来《おうらい》に立ち止まって目の前にうず巻《ま》いているほこりをながめていた。たって行ったあとのうちを閉《し》めてかぎを家主にわたしてくれることをたのまれた隣家《りんか》の人がそのときわたしに声をかけた。
「おまえさん、そこで一日立っているつもりかね」
「いいえ、もう行きます」
「どこへ行くつもりだ」
「どこへでも、足の向くほうへ」
「おまえさん、ここにいたければ」と、かれはたぶん気のどくに思っているらしく、こう言った。「わたしの所へ置《お》いてあげよう。けれど給金《きゅうきん》ははらえないよ。おまえさんはまだ一人前ではないからなあ。いまにすこしはあげられるようになるかもしれない」
わたしはかれに感謝《かんしゃ》したが、「いいえ」と答えた。
「そうか。じゃあかってにおし。わたしはただおまえさんのためにと思っただけだ。さようなら。無事《ぶじ》で」
かれは行ってしまった。馬車は遠くなった。うちは閉《と》ざされた。
わたしはハープのひもを肩《かた》にかけた。カピはすぐ気がついて立ち上がった。
「さあ行こう、カピ」
わたしは二年のあいだ住み慣《な》れて、いつまでもいようと思ったうちから目をそらして、はるかの前途《ぜんと》を望《のぞ》んだ。
日はもう高く上っていた。空は青あおと晴れて――気候《きこう》は暖《あたた》かであった。気のどくなヴィタリス老人《ろうじん》とわたしが、つかれきってこのさくのそばでたおれた、あの寒い晩《ばん》とはたいへんなちがいであった。
こうしてこの二年間はほんの休息であった。わたしはまた自分の道を進まなければならなかった。けれどもこの休息がわたしにはずいぶん役に立った。それがわたしに力をあたえた。優《やさ》しい友だちを作ってくれた。
わたしはもう世界で独《ひと》りぼっちではなかった。この世の中にわたしは目的《もくてき》を持っていた。それはわたしを愛《あい》し、わたしが愛している人たちのために、役に立つこと、なぐさめになることであった。
新しい生涯《しょうがい》がわたしの前に開けていた。
前へ。
前へ
前へ。世界はわたしの前に開かれた。北でも南でも東でも西でも、自分の行きたいままの方角へわたしは向かって行くことができる。それはもう子どもは子どもでも、わたしは自分白身の主人であった。
いよいよ流浪《るろう》の旅を始めるまえに、わたしはこの二年のあいだ父親のように優《やさ》しくしてくれた人に会いたいと思った。カトリーヌおばさんは、みんながかれに「さようなら」を言いに行くときに、わたしをいっしょに連《つ》れて行くことを好《この》まなかったが、わたしはせめて一人になったいまでは、行ってかれに会うことができるし、会わなければならないと思った。借金《しゃっきん》のために刑務所《けいむしょ》にはいったことはなくても、その話をこのごろしじゅうのように聞かされていたのでその場所ははっきりわかっていた。わたしはよく知っているラ・マドレーヌ寺道《じみち》をたどって行った。カトリーヌおばさんも、子どもたちも、お父さんに会えたのだから、わたしもきっと会うことが許《ゆる》されるであろう。わたしはお父さんの子どもも同様であったし、お父さんもわたしをかわいがっていた。
でも思い切って刑務所《けいむしょ》の中へはいって行くのがちょっとちゅうちょされた。だれかがわたしをじっと監視《かんし》しているように思われた。もう、一度そのドアの中へ、おそろしいドアの中へ閉《し》めこまれたが最後《さいご》、二度と出されることがないように思われた。
刑務所《けいむしょ》から出て来ることは容易《ようい》でないとわたしは考えていた。しかしそこへはいるのも容易でないことを知らなかった。さんざんひどい目に会って、わたしはそれを知った。
でも力も落とさず、それから引っ返してしまおうとも思わずに待っていたおかげで、わたしはやっと面会を許《ゆる》されることになった。かねて思っていたのとちがい、わたしは格子《こうし》もさくもないそまつな応接室《おうせつしつ》に通された。お父さんは出て来た。でもくさりなどに結《ゆ》わえられてはいなかった。
「ああ、ルミや、わたしはおまえを待っていた」と、わたしが面会所にはいるとかれは言った。
「わたしは、カトリーヌおばさんがおまえをいっしょに連《つ》れて来なかったので、こごとを言ってやったよ」
わたしはこのことばを聞くと、朝からしょげていたことも忘《わす》れて、すっかりうれしくなった。
「カトリーヌおばさんは、ぼくをいっしょに連《つ》れて来ようとしなかったのです」
わたしはうったえるように言った。
「いや、そういうわけでもなかったのだろう。なかなか思うとおりにはならないものだよ。ところでおまえがこれから一人でくらしを立ててゆこうとしていることもわたしはようく知っているのだがね。どうもわたしの妹婿《いもうとむこ》のシュリオだって、おまえに仕事を見つけてやることはできないだろうしね。シュリオはニヴェルネ運河《うんが》の水門守《すいもんもり》をしているのだが、知ってのとおり植木|職人《しょくにん》の世話を水門守にしてもらうのは無理《むり》だからね。それにしても、子どもたちの話では、おまえはまた旅芸人《たびげいにん》になると言っているそうだが、おまえもう、あの寒さと空腹《くうふく》で死にかけたことを忘《わす》れたのかえ」
「いいえ、忘れません」
「でも、あのときはまだしも、おまえは独《ひと》りぼっちではなかった。めんどうを見る親方があった。それもいまはないし、おまえぐらいの年ごろで一人ぼっちいなかへ出るということは、いいことだとは思われない」
「カピもいっしょです」
このときカピは自分の名を聞くと、いつものように、(はい、ここにおります、ご用ならお役に立ちましょう)というように一声ほえた。
「うん、カピはよい犬だ。しかしやっぱり犬は犬だからな。おまえはいったいどうしてくらしを立てるつもりなのだ」
「わたしが歌を歌ったり、カピが芝居《しばい》をしたりして」
「しかしカピ一人ぼっちで、芝居はできやしないだろう」
「いえ、わたしはカピに芸《げい》をしこみます。そうだろう、ね、カピ。おまえ、なんでもわたしの望《のぞ》むものを習うだろう」
カピは前足で胸《むね》をたたいた。
「ルミ、おまえがよく考えたら、やはり職《しょく》を見つけることにするだろうよ。もうおまえも一かどの職人《しょくにん》だ。流浪《るろう》するよりもそのほうがましだし、だいいち、あれはなまけ者のすることだ」
「ええ、もちろんわたしはなまけ者ではありません。わたしはお父さんといっしょにならできるだけ働《はたら》きます。そしていつでもお父さんといっしょにいたいと思っています。でもほかの人のうちで働くのはいやなんです」
もちろん、たった一人、大道ぐらしを続《つづ》けてゆくことの危険《きけん》なことはよくわかっていた。それはさんざん、つらい経験《けいけん》もしている。そうだ、人びとがわたしのように流浪《るろう》の生活を送って、あの犬たちがおおかみに食べられた夜や、ジャンチイイの石切り場のあの晩《ばん》のような目に会ったり、あれほどひもじいめをしたり、ヴィタリス親方が刑務所《けいむしょ》に入れられて、一スーももうけることができず、村から村へと追い立てられたりしたようなことに出会ったら、だれだってあすはまっ暗やみ、現在《げんざい》さえも不安心《ふあんしん》でたまらないのが当たり前だ。危険《きけん》な、みじめな、浮浪人《ふろうにん》の生活をわたしは自分が送ってきたことも忘《わす》れはしないのだ。だがいまそれをやめたら、わたしはいったいどうしていいかわからないではないか。それにもう一つ、旅に出るについて決心を固《かた》くするものがあった。いまさらよそのうちに奉公《ほうこう》するよりも、わたしにはこの流浪《るろう》の旅がずっと自由で気楽なばかりでなく、エチエネットや、アルキシーやバンジャメン、それからリーズとしたやくそくを果《は》たすためにもこの旅行を思いとどまることはできなかったのだ。どうしてこのことはあの人たちを見捨《みす》てないかぎり、やめられないのだ。もっともエチエネットやアルキシーやバンジャメン
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