はかの女をしっかりとだきしめた。
「ああ、おまえたちと別《わか》れるのはまったくつらい」とかれは言った。「けれど裁判所《さいばんしょ》から支払《しはら》いをしろという命令《めいれい》を受けた。でもわたしは金がないのだから、このうちにあるものは残《のこ》らず売らなければならない。それでも足りないので、わたしは五年のあいだ懲役《ちょうえき》に行かねばならない。わたしは自分の金ではらうことができないから、自分のからだと自由でそれをはらわなければならない」
 わたしたちはみんな泣《な》きだした。
「そう、悲しいことだ」とかれはおろおろ声で続《つづ》けた。「けれど人は法律《ほうりつ》に向かってはなにもしえない。弁護士《べんごし》の言うところでは、むかしはどうしてこんなことではすまなかった。貸《か》し主《ぬし》は借《か》り手《て》のからだをいくつかに切《き》り刻《きざ》んで、貸し主のうちで欲《ほ》しいと思う者がそれを分けて取る権利《けんり》があったそうだ。わたしはただ五年のあいだ刑務所《けいむしょ》にいればいいのだからね。ただそのあいだにおまえたちはどうなるだろう。それが心配でたまらない」
 悲しい沈黙《ちんもく》が続《つづ》いた。
「わたしが決めたとおりにするのがいちばんいいことなのだ」とお父さんは続けた。
「ルミ、おまえはいちばん学者なのだから、妹のカトリーヌの所へ手紙を書いて、事がらをくわしく述《の》べて、すぐに来てくれるようにたのんでおくれ。カトリーヌおばさんは、なかなかもののわかった人だから、どうすればいちはんいいか、うまく決めてくれるだろう」
 わたしが手紙を書くのはこれが初《はじ》めてでなかなか骨《ほね》が折《お》れた。それはひじょうに痛《いた》ましいことであったが、わたしたちはまだひと筋《すじ》の希望《きぼう》を持っていた。わたしたちはみんななにも知らない子どもであった。カトリーヌおばさんが来てくれるということ、かの女が実際家《じっさいか》であるということは、なにごとをもよくしてくれるであろうといふ希望《きぼう》を持たせた。
 けれどかの女は思ったほど早くは来てくれなかった。四、五日ののちお父さんがちょうど友だちの一人を訪問《ほうもん》に出かけようとすると、ぱったり巡査《じゅんさ》に出会った。かれは巡査たちとうちへもどって来た。かれはひじょうに青い顔をしていた。子どもたちにさようならを言いに来たのであった。
「おまえ、そんなに力を落としなさんな」と、かれをつかまえに来た巡査の一人が言った。「借金《しゃっきん》のために牢《ろう》にはいるのは、おまえが思うほどおそろしいものではない。向こうへ行けばなかなかいい人間がいるよ」
 わたしは庭にいた二人の子どもを呼《よ》びに行った。帰ってみると、小さいリーズはすすり泣《な》きをしてお父さんの両手にだかれていた。巡査《じゅんさ》の一人がこしをかがめて、お父さんの耳になにかささやいたが、なにを言ったかわたしには聞こえなかった。
「そうです。そうしなければなりませんね」とお父さんは言って、思い切ってリーズを下に置《お》いた。でもかの女は父親の手にからみついてはなれなかった。それからかれはエチエネット、アルキシー、バンジャメンと順々《じゅんじゅん》にキッスして、リーズをねえさんの手に預《あず》けた。
 わたしはすこしはなれて立っていたが、かれはわたしのほうへ寄《よ》って来て、ほかの者と同様に優《やさ》しくキッスした。
 これで巡査《じゅんさ》はかれを連《つ》れて行った。わたしたちはみんな台所のまん中に泣《な》きながら立っていた。だれ一人ものを言う者はなかった。
 カトリーヌおばさんは一|時間《じかん》おくれてやって来た。わたしたちはまだはげしく泣いていた。いちばん気丈《きじょう》なエチエネットすら今度の大波にはすっかり足をさらわれた。わたしたちの水先案内《みずさきあんない》が海に落ちたので、あとの子どもたちはかじを失《うしな》って、波のまにまにただようほかはなかった。
 ところでカトリーヌおばさんはなかなかしっかりした婦人《ふじん》であった。もとはパリの街《まち》で乳母奉公《うばぼうこう》をして、十年のあいだに五か所も勤《つと》めた。世の中のすいもあまいもよく知っていた。わたしたちはまたたよりにする目標《もくひょう》ができた。教育もなければ、資産《しさん》もないいなか女としてかの女にふりかかった責任《せきにん》は重かった。びんぼうになった一家の総領《そうりょう》はまだ十六にならない。いちばん下はおしのむすめであった。
 カトリーヌおばさんは、ある公証人《こうしょうにん》のうちに乳母《うば》をしていたことがあるので、かの女はさっそくこの人を訪《たず》ねて相談《そうだん》をした。そこでこの人が助言して、わたしたちの運命《うんめい》を決めることになった。それからかの女は監獄《かんごく》へ行って、お父さんの意見も聞いた。そんなことに一週間かかって、最後《さいご》にわたしたちを集めて、取り決めた次第を言って聞かした。
 リーズはモルヴァンのかの女のうちへ行って養《やしな》われることになった。アルキシーはセヴェンヌ山のヴァルスで鉱夫《こうふ》を勤《つと》めているおじの所へ行く。バンジャメンはセン・カンテンで植木屋をしているもう一人のおじの所へ行く。そしてエチエネットはシャラント県のエナンデ海岸にいるおばの所へ行くことになった。
 わたしはこういう取り計らいをわきで聞きながら、自分の番になるのを待っていた。ところがカトリーヌおばさんはそれで話をやめてしまって、とうとうわたしのことは話が出ずにしまった。
「ではぼくは……」とわたしは言った。
「だっておまえはこのうちの人ではないもの」
「ぼくはあなたがたのために働《はたら》きます」
「おまえさんはこのうちの人ではないよ」
「わたしがどんなに働《はたら》けるか、アルキシーにでもバンジャメンにでもたずねてください。わたしは仕事が好《す》きです」
「それからスープをこしらえるのもうまいや」
「おばさん、あの子はうちの人です。そうです、うちの人です」という声がほうぼうから起こった。リーズが前へ出て来て、おばさんの前で手を合わせた。それはことばで言う以上《いじょう》の意味を表していた。
「まあまあ、かわいそうに」と、カトリーヌおばさんは言った。「おまえがあの子をいっしょに連《つ》れて行きたがっていることはわかっている。けれど世の中というものはいつも思うようにはならないものなのだよ。おまえはわたしのめいだから、おまえをうちへ連れて行って、おじさんにいやな顔をされても、わたしは『でも親類《しんるい》だから』と言って通してしまうつもりだ。ほかのセン・カンテンのおじさんにしても、ヴァルスのおじさんにしても、エナンデのおばさんにしても、そのとおりだろうよ。やっかいだと思っても、親類なら養《やしな》ってくれるだろう。けれど他人ではそうはゆかない。一つうちの者だけでも、腹《はら》いっぱい食べるだけのパンはむずかしいのだからね」
 わたしはもうなにも言うことがないように思った。かの女の言ったことはもっともすぎることであった。わたしはうちの者ではなかった。わたしはなにも求《もと》めることもできない。なにもたのむこともできない。それをすればこじきになる。
 でもわたしはみんなを好《す》いていたし、みんなもわたしを好いていた。
 みんな兄弟でもあり、姉妹《しまい》でもあった。カトリーヌおばさんは決心したことはすぐ実行する性質《せいしつ》であった。わたしたちにはあしたいよいよお別《わか》れをすることを言いわたしてねどこへはいらせた。
 わたしたちが部屋《へや》へはいるか、はいらないうちに、みんなはわたしを取り巻《ま》いた。リーズは泣《な》きながらわたしにからみついた。そのときわたしはかれら兄弟がおたがいに別《わか》れて行く悲しみをまえにひかえながら、かれらの思っていてくれるのはわたしのことだということがわかった。かれらはわたしが独《ひと》りぼっちだといって気のどくがった。わたしはそのときほんとうにかれらの兄弟であるように感じた。そこでふと一つの考えが心にうかんだ。
「聞いてください」とわたしは言った。「おばさんやおじさんがたがわたしにご用はなくっても、あなたがたがどこまでもわたしをうちの者に思ってくださることはわかりました」
「そうだそうだ、きみはいつまでもぼくたちの兄弟だ」と三人がいっしょにさけんだ。
 もの言えないリーズはわたしの手をしめつけて、あの大きな美しい目で見上げた。
「ねえ、ぼくは兄弟です。だからその証拠《しょうこ》を見せましょう」と、わたしは力を入れて言った。
「きみはいったいどこに行くつもりだ」とバンジャメンが言った。
「ペルニュイの所に仕事があるのよ。わたしあした行って話をしてみましょうか」とエチエネットが聞いた。
「ぼくは奉公《ほうこう》はしたくありません。奉公するとパリにじっとしていなければならないし、そうすると二度ともうあなたがたに会うことができません。ぼくはまたひつじの毛皮服を着て、ハープをくぎからはずして、肩《かた》にかついで、セン・カンテンからヴァルスへ、ヴァルスからエナンデへ、エナンデからドルジーへと、あなたがたのこれから行く先ざきへたずねて行きましょう。わたしはあなたがたみなさんに、一人ひとり代わりばんこに会って、ほうぼうの便《たよ》りを持って行きましょう。そうすればぼくの仲立《なかだ》ちでみんないっしょに集まっているようなものです。ぼくはいまでも歌だってダンスの節《ふし》だって忘《わす》れてはいません。自分がくらしてゆくだけのお金は取れます」
 みんなの顔がかがやいた。わたしはかれらがわたしの考えを聞いてそんなにも喜《よろこ》んでくれたのでうれしかった。長いあいだわたしたちは話をして、それからエチエネットは一人ひとりねどこへはいらせた。けれどその晩《ばん》はだれもろくろくねむる者はなかった。とりわけわたしはひと晩《ばん》ねむれなかった。
 あくる日夜が明けると、リーズはわたしを庭へ連《つ》れ出した。
「ぼくに言いたいことがあるの」とわたしはたずねた。
 かの女は何度もうなずいた。
「わたしたちが別《わか》れて行くのがいやなんでしょう。それは言うまでもない。あなたの顔でわかっている。ぼくだってまったく悲しいんだ」
 かの女は手まねをして、なにか言いたいことがほかにあるという意味を示《しめ》した。
「十五日たたないうちに、ぼくはあなたの行くはずのドルジーへ訪《たず》ねて行きますよ」
 かの女は首をふった。
「ぼくがドルジーへ行くのがいやなんですか」
 わたしたちがおたがいに了解《りょうかい》しい合うために、わたしはそのうえにいろいろ問いを重ねていった。かの女はうなずいたり、首をふったりして答えた。かの女はわたしにドルジーへ来てはもらいたいが、しかしそれより先に兄《あに》さんや姉《あね》さんのほうへ行ってもらいたい意味を、指を三方に向けてさとらせた。
「あなたはぼくがいちばん先にヴァルスへ行き、それからエナンデ、それからセン・カンテンというふうに行ってもらいたいのでしょう」
 かの女はにっこりしてうなずいた。わたしがわかったのがうれしそうであった。
「なぜさ」
 こう聞くと、かの女はくちびると手を、とりわけ目を動かして、なぜそう望《のぞ》むか、そのわけを説明《せつめい》した。それは先に姉《あね》さんや兄《あに》さんたちの所へ行ってもらえば、ドルジーへ来るときにはほうぼうの便《たよ》りを持って来てくれることができるからというのであった。
 かれらは八時にたたなければならなかった。カトリーヌおばさんはみんなを乗せる馬車を言いつけて、なにより先に刑務所《けいむしょ》へ行って、父親にさようならを言うこと、それからてんでに荷物を持って別々《べつべつ》の汽車に乗るために、別々の停車場《ていしゃじょう》に別《わか》れて行くという手順《てじゅん》を決めた。

前へ 次へ
全33ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング