家なき子
SANS FAMILLE
(下)
マロ Malot
楠山正雄訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)往来《おうらい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|銭《せん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+欣」、第3水準1−87−48]
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     ジャンチイイの石切り場

 わたしたちはやがて人通りの多い往来《おうらい》へ出たが、歩いているあいだ親方はひと言も言わなかった。まもなくあるせまい小路《こうじ》へはいると、かれは往来の捨《す》て石《いし》にこしをかけて、たびたび額《ひたい》を手でなで上げた。それは困《こま》ったときによくかれのするくせであった。
「いよいよ慈善家《じぜんか》の世話になるほうがよさそうだな」とかれは独《ひと》り言《ごと》のように言った。「だがさし当たりわたしたちは一|銭《せん》の金も、一かけのパンもなしに、パリのどぶの中に捨《す》てられている……おまえおなかがすいたろう」とかれはわたしの顔を見上げながらたずねた。
「わたしはけさいただいた小さなパンだけで、あれからなにも食べませんでした」
「かわいそうにおまえは今夜も夕食なしにねることになるのだ。しかもどこへねるあてもないのだ」
「じゃあ、あなたはガロフォリのうちにとまるつもりでしたか」
「わたしはおまえをあそこへとめるつもりだった。それであれが冬じゅうおまえを借《か》りきる代わりに、二十フランぐらいは出そうから、それでわしもしばらくやってゆくつもりだった。けれどあの男があんなふうに子どもらをあつかう様子を見ては、おまえをあそこへは置《お》いて行けなかった」
「ああ、あなたはほんとにいい人です」
「まあ、たぶんこの年を取って固《かた》くなった流浪人《るろうにん》の心にも、まだいくらか若《わか》い時代の意気が残《のこ》っているとみえる。この年を取った流浪人はせっかく狡猾《こうかつ》に胸算用《むなざんよう》を立てても、まだ心の底《そこ》に残っている若い血がわき立って、いっさいを引っくり返してしまうのだ……さてどこへ行こうか」とかれはつぶやいた。
 もうだいぶおそくなって、ひどく寒さが加《くわ》わってきた。北風がふいてつらい晩《ばん》が来ようとしていた。長いあいだ、親方は石の上にすわっていた。カピとわたしはだまってその前に立って、なんとか決心のつくまで待っていた。とうとうかれは立ち上がった。
「どこへ行くんです」
「ジャンチイイ。そこでいつかねたことがある石切り場を見つけることにしよう。おまえつかれているかい」
「ぼくはガロフォリの所で休みました」
「わたしは休まなかったので、どうもつらい。あまり無理《むり》はできないが、行かなければなるまい。さあ前へ進め、子どもたち」
 これはいつもわたしたちが出発するとき、犬やわたしに向かって用いるかれの上きげんな合図であった。けれど今夜はそれをいかにも悲しそうに言った。
 いまわたしたちはパリの町の中をさまよい歩いていた。夜は暗かった。ちらちら風にまばたきながら、ガス燈《とう》がぼんやり往来《おうらい》を照《て》らしていた。一足ごとにわたしたちは氷のはったしき石の上ですべった。親方がしじゅうわたしの手を引いていた。カピがわたしたちのあとからついて来た。しじゅうかわいそうな犬は立ち止まって、ふり返っては、はきだめの中を探《さが》して、なにか骨《ほね》でもパンくずでも見つけようとした。ああ、ほんとにそれほど腹《はら》を減《へ》らしているのだ。けれどはきだめは雪が固《かた》くこおりついていて、探《さが》しても、むだであった。耳をだらりと下げたままかれはとぼとぼとわたしたちに追い着いて来た。
 大通りをぬけて、たくさんの小路《こうじ》小路を出ると、またたくさんの大通りがあった。わたしたちは歩いて歩いて歩き続《つづ》けた。たまたま会う往来《おうらい》の人がびっくりしてわたしたちをじろじろ見た。それはわたしたちの身なりのためであったか、わたしたちがとぼとぼ歩いて行くつかれきった様子が、かれらの注意をひいたのであろうか。行き会う巡査《じゅんさ》もふり向いてわたしたちを見送った。
 ひと言も口をきかずに親方は歩いた。かれの背中《せなか》はほとんど二重《ふたえ》に曲がっていたが、寒いわりにかれの手はわたしの手の中でかっかとしていた。かれはふるえていたように思われた。ときどきかれが立ち止まって、しばらくわたしの肩《かた》によりかかるようにするときには、かれのからだ全体がふるえて、いまにもくずれるように感じた。いつもならわたしはかれに問いかけることはしなかったが、今夜こそはしなければならないと感じた。それにわたしは、どれほどかれを愛《あい》しているかを語りたい燃《も》えるような希望《きぼう》を、いや少なくとも、なにかかれのためにしてやりたい希望を持っていた。
「あなたはご病気なんでしょう」かれがまた立ち止まったとき、わたしは言った。
「どうもそうではないかと思うよ。とにかくわたしはひじょうにつかれている。この寒さがわたしの年を取ったからだにはひどくこたえる。わたしはいいねどこと炉《ろ》の前で夕飯《ゆうはん》を食べたい。だがそれはゆめだ。さあ、前へ進め、子どもたち」
 前へ進め。わたしたちは町を後にした。わたしたちは郊外《こうがい》へ出ていた。もう往来《おうらい》の人も巡査《じゅんさ》も街燈《がいとう》も見えない。ただ窓明《まどあ》かりがそこここにちらちらして、頭の上には黒ずんだ青空に二、三点星が光っているだけであった。いよいよはげしくあらくふきまくる風が着物をからだに巻《ま》きつけた。幸いと向かい風ではなかったが、でもわたしの上着のそでは肩《かた》の所までぼろばろに破《やぶ》れていたから、そのすきから風はえんりょなくふきこんで、骨《ほね》まで通るような寒気が身にこたえた。
 暗かったし、往来《おうらい》はしじゅうたがいちがいに入り組んでいたが、親方は案内《あんない》を知っている人のようにずんずん歩いた。それでわたしも迷《まよ》うことはないとしっかり信《しん》じて、ついて行った。するととつぜんかれは立ち止まった。
「おまえ、森が見えるかい」とかれはたずねた。
「そんなものは見えません」
「大きな黒いかたまりは見えないかい」
 わたしは返事をするまえに四方を見回した。木も家も見えなかった。どこもかしこもがらんと打ち開いていた。風のうなるほかになんの物音も聞こえなかった。
「わたしがおまえだけに目が見えるといいのだがなあ。ほら、あちらを見てくれ」かれは右の手を前へさし延《の》べた。わたしはそっけなくなにも見えないとは言いかねて、返事をしなかったので、かれはまたよぼよぼ歩き出した。
 二、三分だまったまま過《す》ぎた。そのときかれはもう一度立ち止まっては、また森が見えないかとたずねた。ばくぜんとした恐怖《きょうふ》に声をふるわせながら、わたしはなにも見えないと答えた。
「おまえこわいものだから目が落ち着かないのだ。もう一度よくご覧《らん》」
「ほんとうです。森なんか見えません」
「広い道もないかい」
「なんにも見えません」
「道をまちがえたかな」
 わたしはなにも言えなかった。なぜならわたしはどこにいるのかもわからなかったし、どこへ行くのだかもわからなかったから。
「もう五分ばかり歩いてみよう。それでも森が見えなかったら、ここまで引っ返して来よう。ことによると道をまちがえたかもわからん」
 わたしたちが道に迷《まよ》ったことがわかると、もうからだになんの力も残《のこ》らないように思われた。親方はわたしのうでを引《ひ》っ張《ぱ》った。
「さあ」
「ぼくはもう歩けません」
「いやはや、おまえはわたしがおまえをしょって行けると思うかい。わたしはすわったらもう二度と立ち上がることはできないし、そのまま寒さにこごえて死んでしまうだろうと思うからだ」
 わたしはかれについて歩いた。
「道に深い車の輪《わ》のあとがついてはいないか」
「いいえ、なんにも」
「じゃあ引っ返さなきゃならない」
 わたしたちは引っ返した。今度は風に向かうのである。それはむちのようにぴゅうと顔を打った。わたしの顔は火で焼《や》かれるように思われた。
「車の輪《わ》のあとを見たら言っておくれ。左のほうへ分かれる道をとって行かなければならない」と親方は力なく言った。「それが見えたら言っておくれ。そこの四つ角に円い頭のような形のいばらがある」
 十五分ばかりわたしたちは風と争《あらそ》いながら歩み続《つづ》けた。しんとした夜の沈黙《ちんもく》の中でわたしたちの足音がかわいた固《かた》い土の上でさびしくひびいた。もうふみ出す力はほとんどなかったが、でも親方を引きずるようにしたのはわたしであった。どんなにわたしは左のほうを心配してはながめたろう。暗いかげの中でわたしはふと小さな赤い灯《ひ》を見つけた。
「ほら、ご覧《らん》なさい、明かりが」とわたしは指さしながら言った。
「どこに」
 親方は見た。その明かりはほんのわずかの距離《きょり》にあったが、かれにはなにも見えなかった。わたしはかれの視力《しりょく》がだめになったことを知った。
「その明かりがなにになろう」とかれは言った。「それはだれかの仕事場の机《つくえ》にともっているランプか、死にかかっている病人のまくらもとの灯《ひ》だ。わたしたちはそこへ行って戸をたたくわけにはいかない。遠くいなかへ出れば、夜になって宿《やど》をたのむこともできよう。けれどこうパリの近くでは……このへんで宿をたのむことはできない。さあ」
 二足三足行くとわたしは横へはいる道を見つけたように思った。ちょうどいばらのやぶらしく思われる黒いかたまりもあった。わたしは先へ急いで行くために親方の手を放した。往来《おうらい》には深いわだちのあとが残《のこ》っていた。
「ほら、ここに輪《わ》のあとがある」とわたしはさけんだ。
「手をお貸し。わたしたちは救《すく》われた」と親方が言った。「ご覧《らん》、今度は森が見えるだろう」
 わたしはなにか黒いものが見えたので、森が見えるように思うと言った。
「五分のうちにそこまで行ける」とかれはつぶやいた。
 わたしたちはとぼとぼ歩いた。けれどこの五分間が永遠《えいえん》のように思われた。
「車の輪《わ》のあとはどちらにあるね」
「右のほうにあります」
「石切り場の入口は左のほうだよ。わたしたちは気がつかずに通り過《す》ぎてしまったにちがいない。あともどりするほうがいいだろう」
「輪《わ》のあとはどうしても左のほうにはついていません」
「ではまたあともどりだ」
 もう一度わたしたちはあともどりをした。
「森が見えるか」
「ええ、左手に」
「それから車の輪《わ》のあとは」
「もうありません」
「わたしは目が見えなくなったかしらん」と親方は低《ひく》い声で言って、両手を目に当てた。「森についてまっすぐにおいで。手を貸《か》しておくれ」
「おや、へいがあります」
「いいや、それは石の山だよ」
「いいえ、確《たし》かにへいです」
 親方は、一足はなれて、ほんとうにわたしの言ったとおりであるか、試《ため》してみようとした。かれは両手をさし延《の》べてへいにさわった。
「そうだ、へいだ」とかれはつぶやいた。「入口はどこだ。車の輪《わ》のあとのついた道を探《さが》してごらん」
 わたしは地べたに身をかがめて、へいの角《かど》の所まで残《のこ》らずさわってみたが、入口はわからなかった。そこでまたヴィタリスの立っている所までもどって、今度は向こうの側《がわ》をさわってみた。結果《けっか》は同じことであった。入口もなければ門もなかった。
「なにもありません」とわたしは言った。
 情《なさ》けないことになった。疑《うたが》いもなく親方は思いちがいをしていた。たぶんここには石切り
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