ハープを肩《かた》にかけると、わたしは号令《ごうれい》をかけた。
「前へ進め」
 十五分たつと、わたしたちはパリを後に見捨《みす》てた。
 わたしがこの道を通ってパリを出るのは、バルブレンのおっかあに会いたいためであった。どんなにたびたびわたしはかの女に手紙を書いてやって、かの女を思っていること、ありったけの心をささげてかの女を愛《あい》していることを、言ってやりたかったかしれなかったが、亭主《ていしゅ》のバルブレンがこわいので、わたしは思いとどまった。もしバルブレンが手紙をあてにわたしを見つけたら、つかまえてまたほかの男に売りわたすかもしれなかった。かれはおそらくそうする権利《けんり》があった。わたしは好《この》んでバルブレンの手に落ちる危険《きけん》をおかすよりも、バルブレンのおっかあから恩知《おんし》らずの子どもだと思われているほうがましだと思った。
 でも手紙こそ書き得《え》なかったが、こう自由の身になってみれば、わたしは行って会うこともできよう。わたしの一座《いちざ》にマチアもはいっているので、わたしはいよいよそうしようと心を決めた。なんだかそれがわけなくできそうに思われた。わたしは先にかれを一人出してやって、かの女が一人きりでいるか見せにやる。それからわたしが近所に来ていることを話して、会いに行ってもだいじょうぶか、それのわかるまで待っている。それでバルブレンがうちにいれば、マチアからかの女にどこか安心な場所へ来るようにたのんで、そこで会うことができるのである。
 わたしはこのくわだてを考えながら、だまって歩いた。マチアもならんで歩いていた。かれもやはり深く考えこんでいるように思われた。
 ふと思いついて、わたしは自分の財産《ざいさん》をマチアに見せようと思った。カバンのふたを開けて、わしは草の上に財産を広げた。中には三|枚《まい》のもめんのシャツ、くつ下が三足、ハンケチが五枚、みんな品のいい物と、少し使ったくつが一足あった。
 マチアは驚嘆《きょうたん》していた。
「それからきみはなにを持っている」とわたしはたずねた。
「ぼくはヴァイオリンがあるだけだ」
「じゃあ分けてあげよう。ぼくたちは仲間《なかま》なんだから、きみにはシャツ二|枚《まい》と、くつ下二足にハンケチを三枚あげよう。だがなんでも二人のあいだに仲《なか》よく分けるのがいいのだから、きみは一時間ぼくのカバンを持ちたまえ。そのつぎの一時間はぼくが持つから」
 マチアは品物をもらうまいとした。けれどわたしはさっそく、自分でもひどくゆかいな、命令《めいれい》のくせを出して、かれに「おだまり」と命令した。
 わたしはエチエネットの小ばこと、リーズのばらを入れた小さなはこをも広げた。マチアはそのはこを開けて見たがったが、開けさせなかった。わたしはそのふたをいじることすら許《ゆる》さずに、カバンの中にまたしまいこんでしまった。
「きみはぼくを喜《よろこ》ばせたいと思うなら」とわたしは言った。「けっしてはこにさわってはいけない。……これはたいじなおくり物だから」
「ぼくはけっして開けないとやくそくするよ」とかれはまじめに言った。
 わたしはまたひつじの毛の服を着て、ハープをかついだが、そこに一つむずかしい問題があった。それはわたしのズボンであった。芸人《げいにん》が長いズボンをはくものではないように思われた。公衆《こうしゅう》の前へ現《あらわ》れるには、短いズボンをはいて、その上にくつ下をかぶさるようにはいて、レースをつけて、色のついたリボンを結《むす》ぶものである。長いズボンは植木屋にはけっこうであろうが……いまはわたしは芸人であった。そうだ、わたしは半ズボンをはかなければならない。わたしはさっそくエチエネットの道具ばこからはさみを出した。
 わたしがズボンのしまつをしているうち、ふとわたしは言った。
「きみはどのくらいヴァイオリンをひくか、聞かせてもらいたいな」
「ああ、いいとも」
 かれはひき始めた。そのあいだわたしは思い切ってはさみの先をズボンのひざからすこし上の所へ当てた。わたしは布《きれ》を切り始めた。
 けれどこれはチョッキと上着とおそろいにできた、ねずみ地のいいズボンであった。アッケンのお父さんがそれをこしらえてくれたとき、わたしはずいぶん得意《とくい》であった。けれどいま、それを短くすることをいけないこととは思わない。かえってりっぱになると思っていた。初《はじ》めはわたしもマチアのほうに気がはいらなかった。ズボンを切るのにいそがしかったが、まもなくはさみを動かす手をやめて、耳をそこへうばわれていた。マチアはほとんどヴィタリス親方ぐらいにうまくひいた。
「だれがきみにヴァイオリンを教えたの」とわたしは手をたたきながら聞いた。
「だれも。ぼくは一人で覚《おぼ》えた」
「だれかきみに音楽のことを話して聞かした人があるかい」
「いいえ、ぼくは耳に聞くとおりをひいている」
「ぼくが教えてあげよう、ぼくが」
「きみはなんでも知っているの。では……」
「そうさ、ぼくはなんでも知っているはずだ。座長《ざちょう》だもの」
 わたしはマチアに、自分もやはり音楽家であることを見せようとした。わたしはハープをとり、かれを感動させようと思って、名高い小唄《こうた》を歌った。すると芸人《げいにん》どうしのするようにかれはわたしにおせじを言った。かれはりっぱな才能《さいのう》を持っていた。わたしたちはおたがいに尊敬《そんけい》し合った。わたしは背嚢《はいのう》のふたを閉《し》めると、マチアが代わってそれを肩《かた》にのせた。
 わたしたちはいちばんはじめの村に着いて興行《こうぎょう》をしなければならなかった。これがルミ一座《いちざ》の初《はつ》おめみえのはずであった。
「ぼくにその歌を教えてください」とマチアが言った。「ぼくたちはいっしょに歌おう。もうじきにヴァイオリンで合わせることができるから。するとずいぶんいいよ」
 確《たし》かにそれはいいにちがいなかった。それでくれるものをたっぷりくれなかったら、「ご臨席《りんせき》の貴賓諸君《きひんしょくん》」は、石のような心を持っているというものだ。
 わたしたちが最初《さいしょ》の村を通り過《す》ぎると、大きな百姓家《ひゃくしょうや》の門の前へ出た。中をのぞくとおおぜいの人が晴れ着を着てめかしこんでいた。そのうちの二、三|人《にん》は襦珍《しゅちん》(しゅすの織物)のリボンを結んだ花たばを持っていた。
 ご婚礼《こんれい》であった。わたしはきっとこの人たちがちょっとした音楽とおどりを好《す》くかもしれないと思った。そこで背戸《せど》へはいって、まっ先に出会った人に勧《すす》めてみた。その人は赤い顔をした、大きな、人のよさそうな男であった。かれは高い白えりをつけて、プレンス・アルベール服を着ていた。かれはわたしの問いに答えないで、客のほうへ向きながら、口に二本の指を当てて、それはカピをおびえさせたほどの高い口ぶえをふいた。
「どうだね、みなさん、音楽は」とかれはさけんだ。「楽師がやって来ましたよ」
「おお、音楽音楽」といっしょの声が聞こえた。
「カドリールの列をお作り」
 おどり手はさっそく庭のまん中に集まった。マチアとわたしは荷馬車の中に陣取《じんど》った。
「きみはカドリールがひけるか」と心配してわたしはささやいた。
「ああ」
 かれはヴァイオリンで二、三|節《せつ》調子を合わせた。運よくわたしはその節《ふし》を知っていた。わたしたちは助かった。マチアとわたしはまだいっしょにやったことはなかったが、まずくはやらなかった。もっともこの人たちはたいして音楽のいい悪いはかまわなかった。
「おまえたちのうち、コルネ(小ラッパ)のふける者があるかい」と赤い顔をした大男がたずねた。
「ぼくがやれます」とマチアは言った。「でも楽器《がっき》を持っていませんから」
「わしが行って探《さが》して来る。ヴァイオリンもいいが、きいきい言うからなあ」
 わたしはその日一日で、マチアがなんでもやれることがわかった。わたしたちは休みなしに晩《ばん》までやった。それにはわたしは平気であったが、かわいそうにマチアはひどく弱っていた。だんだんわたしはかれが青くなって、たおれそうになるのを見た。でもかれはいっしょうけんめいふき続《つづ》けた。幸いにかれが気分が悪いことを見つけたのは、わたし一人ではなかった。花よめさんがやはりそれを見つけた。
「もうたくさんよ」とかの女は言った。「あの小さい子は、つかれきっていますわ。さあ、みんな楽師《がくし》たちにやるご祝儀《しゅうぎ》をね」
 わたしはぼうしをカピに投げてやった。カピはそれを口で受け取った。
「どうかわたくしどもの召使《めしつか》いにお授《さず》けください」とわたしは言った。
 かれらはかっさいした。そしてカピがおじぎをするふうを見て、うれしがっていた。かれらはたんまりくれた。花むこさまはいちばんおしまいに残《のこ》ったが、五フランの銀貨《ぎんか》をぼうしに落としてくれた。ぼうしは金貨でいっぱいになった。なんという幸せだ。
 わたしたちは夕食に招待《しょうたい》された。そして物置《ものお》きの中でねむる場所をあたえてもらった。
 あくる朝この親切な百姓家《ひゃくしょうや》を出るとき、わたしたちには二十八フランの資本《もとで》があった。
「マチア、これはきみのおかげだよ」とわたしは勘定《かんじょう》したあとで言った。「ぼく一人きりでは楽隊《がくたい》は務《つと》まらないからねえ」
 二十八フランをかくしに入れて、わたしたちは福々であった。コルベイユへ着くと、わたしはさし当たりなくてならないと思う品を二つ三つ買うことができた。第一はコルネ、これは古道具屋で三フランした。それからくつ下に結《むす》ぶ赤リボン、最後《さいご》にもう一つの背嚢《はいのう》であった。代わりばんこに重い背嚢をしょうよりも、てんでんが軽い背嚢をしじゅうしょっているほうが楽であった。
「きみのような、人をぶたない親方はよすぎるくらいだ」とマチアがうれしそうに笑《わら》いながら言った。
 わたしたちのふところ具合がよくなったので、わたしは少しも早く、バルブレンのおっかあの所に向かって行こうと決心した。わたしはかの女におくり物を用意することができた。わたしはもう金持ちであった。なによりもかよりも、かの女を幸福にするものがあった。それはあのかわいそうなルセットの代わりになる雌牛《めうし》をおくってやることだ。わたしが雌牛をやったら、どんなにかの女はうれしがるだろう。どんなにわたしは得意《とくい》だろう。シャヴァノンに着くまえに、わたしは雌牛を買う。そしてマチアがたづなをつけて、すぐとバルブレンのおっかあの背戸《せど》へ引いて行く。
 マチアはこう言うだろう。「雌牛《めうし》を持って来ましたよ」
「へえ、雌牛を」とかの女は目を丸《まる》くするだろう。「まあおまえさんは人ちがいをしているんだよ」
 こう言ってかの女はため息をつくだろう。
「いいえ、ちがやしません」とマチアが答えるだろう。「あなたはシャヴァノン村のバルブレンのおばさんでしょう。そらおとぎ話の中にあるとおり、『王子さま』があなたの所へこれをおくり物になさるのですよ」
「王子さまとは」
 そこへわたしが現《あらわ》れて、かの女をだき寄《よ》せる。それからわたしたちはおたがいにだき合ってから、どら焼《や》きとりんごの揚《あ》げ物《もの》をこしらえて、三人で食べる。けれどバルブレンにはやらない。ちょうどあの謝肉祭《しゃにくさい》の日にあの男が帰って来て、わたしたちのフライなべを引っくり返して、自分のねぎのスープに、せっかくのバターを入れてしまったときのように意地悪くしてやる。なんというすばらしいゆめだろう。でもそれをほんとうにするには、まず雌牛《めうし》から買わなければならない。
 いったい雌牛はどのくらいするだろう。わたしはまるっきり見当がつかない。きっとずいぶんするにちがいない
前へ 次へ
全33ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング