。でもまだ……わたしはたいして大きな雌牛は欲《ほ》しくなかった。なぜなら太っていればいるほど、雌牛は値段《ねだん》が高いから。それに大きければ大きいほど雌牛《めうし》は食べ物がよけい要《い》るだろう。わたしはせっかくのおくり物が、バルブレンのおっかあのやっかいになってはならないと思う。さしあたりだいじなことは、雌牛の値段《ねだん》を知ることであった。いや、それよりもわたしの欲《ほ》しいと思う種類《しゅるい》の雌牛の値段を知ることであった。幸いにわたしたちはたびたびおおぜいの百姓《ひゃくしょう》やばくろうに行く先の村むらで出会うので、それを知るのはむずかしくはなかった。わたしはその日|宿屋《やどや》で出会った初《はじ》めの男にたずねてみた。
かれはげらげら笑《わら》いだした、食卓《しょくたく》をどんとたたいた。それからかれは宿屋のおかみさんを呼《よ》んだ。
「この小さな楽師《がくし》さんは、雌牛《めうし》の価《ね》が聞きたいというのだ。たいへん大きなやつでなくて、ごくじょうぶで、乳《ちち》をたくさん出すのだそうだ」
みんなは笑《わら》った。でもわたしはなんとも思わなかった。
「そうです、いい乳を出して、あんまり食べ物を食べないのです」とわたしは言った。
「そうしてその雌牛《めうし》はたづなに引かれて道を歩くことをいやがらないものでなくってはね」
かれは一とおり笑《わら》ってしまうと、今度はわたしと話し合う気になって、事がらをまじめにあつかい始めた。かれはちょうど注文の品を持っていた。それはうまい乳《ちち》を――正銘《しょうめい》のクリームを出すいい雌牛《めうし》を持っていた――しかもそれはほとんど物を食べなかった。五十エクー出せばその雌牛はわたしの手にはいるはずであった。初《はじ》めこそこの男に話をさせるのが骨《ほね》が折《お》れたが、一度始めだすと今度はやめさせるのが困難《こんなん》であった。やっとわたしたちはその晩《ばん》おそく、とにかくねに行くことができた。わたしはこの男から聞いたことを残《のこ》らずゆめに見ていた。
五十エクー――それは百五十フランであった。わたしはとてもそんなばくだいな金を持ってはいなかった。ことによってわたしたちの幸運がこの先|続《つづ》けば、一スー一スーとたくわえて百五十フランになることがあるかもしれない。けれどそれにはひまがかかった。そうとすればわたしたちはなによりまずヴァルセへ行ってバンジャメンに会う。その道にできるだけほうぼうで演芸《えんげい》をして歩こう。それから帰り道に金ができるかもしれないから、そのときシャヴァノンへ行って、王子さまの雌牛《めうし》のおとぎ芝居《しばい》を演《えん》じることにしよう。
わたしはマチアにこのくわだてを話した。かれはこれになんの異議《いぎ》をも唱《とな》えなかった。
「ヴァルセへ行こう」とかれは言った。「ぼくもそういう所へは行って見たいよ」
煤煙《ばいえん》の町
この旅行はほとんど三月かかったが、やっとヴァルセの村はずれにかかったときに、わたしたちはむだに日をくらさなかったことを知った。わたしのなめし皮の財布《さいふ》にはもう百二十八フランはいっていた。バルブレンのおっかあの雌牛《めうし》を買うには、あとたった二十二フラン足りないだけであった。
マチアもわたしと同じくらい喜《よろこ》んでいた。かれはこれだけの金をもうけるために、自分も働《はたら》いたことにたいへん得意《とくい》であった。実際《じっさい》かれのてがらは大きかった。かれなしには、カピとわたしだけで、とても百二十八フランなんという金高の集まりようはずがなかった。これだけあれば、ヴァルセからシャヴァノンまでの間に、あとの足りない二十二フランぐらいはわけなく得られよう。
わたしたちが、ヴァルセに着いたのは午後の三時であった。きらきらした太陽が晴れた空にかがやいていたが、だんだん町へ近くなればなるほど空気が黒ずんできた。天と地の間に煤煙《ばいえん》の雲がうずを巻《ま》いていた。
わたしはアルキシーのおじさんがヴァルセの鉱山《こうざん》で働《はたら》いていることは知っていたが、いったい町中《まちなか》にいるのか、外に住んでいるのか知らなかった。ただかれがツルイエールという鉱山で働いていることだけ知っていた。
町へはいるとすぐわたしはこの鉱山《こうざん》がどのへんにあるかたずねた。そしてそれはリボンヌ川の左のがけの小さな谷で、その谷の名が鉱山の名になっていることを教えられた。この谷は町と同様ふゆかいであった。
鉱山《こうざん》の事務所《じむしょ》へ行くと、わたしたちはアルキシーのおじさんのガスパールのいる所を教えられた。それは山から川へ続《つづ》く曲がりくねった町の中で、鉱山からすこしはなれた所にあった。
わたしたちがその家に行き着くと、ドアによっかかって二、三人、近所の人と話をしていた婦人《ふじん》が、坑夫《こうふ》のガスパールは六時でなければ帰らないと言った。
「おまえさん、なんの用なの」とかの女はたずねた。
「わたしはおいごさんのアルキシー君に会いたいのです」
「ああ、おまえさん、ルミさんかえ」とかの女は言った。「アルキシーがよくおまえさんのことを言っていたよ。あの子はおまえさんを待っていたよ」こう言ってなお、「そこにいる人はだれ」と、マチアを指さした。
「ぼくの友だちです」
この女はアルキシーのおばさんであった。わたしはかの女がわたしたちをうちの中へ呼《よ》び入れて休ませてくれることと思った。わたしたちはずいぶんほこりをかぶってつかれていた。けれどかの女はただ、六時にまた来ればアルキシーに会える、いまはちょうど鉱山《こうざん》へ行っているところだからと言っただけであった。
わたしはむこうから申し出されもしないことを、こちらから請求《せいきゅう》する勇気《ゆうき》はなかった。
わたしたちはおばさんに礼を述《の》べて、ともかくなにか食べ物を食べようと思って、パン屋を探《さが》しに町へ行った。「わたしはマチアがさぞ、なんてことだ」と思っているだろうと考えて、こんな待遇《たいぐう》を受けたのがきまり悪かった。こんなことなら、なんだってあんな遠い道をはるばるやって来たのであろう。
これではマチアが、わたしの友人に対してもおもしろくない感じを持つだろうと思われた。これではリーズのことを話しても、わたしと同じ興味《きょうみ》で聞いてはくれないだろうと思った。でもわたしはかれがひじょうにリーズを好《す》いてくれることを望《のぞ》んでいた。
おばさんがわたしたちにあたえた冷淡《れいたん》な待遇《たいぐう》は、わたしたちにふたたびあのうちへもどる勇気《ゆうき》を失《うしな》わせたので、六時すこしまえにマチアとカピとわたしは、鉱山《こうざん》の入口に行って、アルキシーを待つことにした。
わたしたちはどの坑道《こうどう》から工夫《こうふ》たちが出て来るか教えてもらった。それで六時すこし過《す》ぎに、わたしたちは坑道の暗いかげの中に、小さな明かりがぽつりぽつり見え始めて、それがだんだんに大きくなるのを見た。工夫たちは手に手にランプを持ちながら、一日の仕事をすまして、日光の中に出て来るのであった。かれらはひざがしらが痛《いた》むかのように、重い足どりでのろのろと出て来た。わたしはそののちに、地下の坑道《こうどう》のどん底《そこ》まではしごを下りて行ったとき、それがどういうわけだかはじめてわかった。かれらの顔はえんとつそうじのようにまっ黒であった。かれらの服とぼうしは石炭のごみをいっぱいかぶっていた。やがてみんなは点燈所《てんとうしょ》にはいって、ランプをくぎに引っかけた。
ずいぶん注意して見ていたのであるが、やはり向こうから見つけてかけ寄《よ》って来るまで、わたしたちはアルキシーを見つけなかった。もうすこしでかれを見つけることなしにやり過《す》ごしてしまうところであった。
実際《じっさい》頭から足までまっ黒くろなこの少年に、あのひじの所で折《お》れたきれいなシャツを着て、カラーの前を大きく開けて白い膚《はだ》を見せながら、いっしょに花畑の道をかけっこしたむかしなじみのアルキシーを見いだすことは困難《こんなん》であった。
「やあ、ルミだよ」とかれはそばに寄《よ》りそって歩いていた四十ばかりの男のほうを向いてさけんだ。その人はアッケンのお父さんと同じような、親切な快活《かいかつ》な顔をしていた。二人が兄弟であることを思えば、それはふしぎではなかった。わたしはすぐそれがガスパールおじさんであることを知った。
「わたしたちは長いあいだおまえさんを待っていたよ」とかれはにっこりしながら言った。
「パリからヴァルセまではずいぶんありましたよ」とわたしは笑《わら》い返しながら言った。
「おまけにおまえさんの足は短いからな」とかれは笑いながら言い返した。
カピもアルキシーを見ると、うれしがっていっしょうけんめいそのズボンのすそを引《ひ》っ張《ぱ》って、お喜《よろこ》びのごあいさつをした。このあいだわたしはガスパールおじさんに向かって、マチアがわたしの仲間《なかま》であること、そしてかれがだれよりもコルネをうまくふくことを話した。
「おお、カピ君もいるな」とガスパールおじさんが言った。「おまえ、あしたはゆっくり休んで行きなさい。ちょうど日曜日で、わたしたちにもいいごちそうだ。なんでもアルキシーの話ではあの犬は学校の先生と役者をいっしょにしたよりもかしこいというじゃないか」
わたしはおばさんに対して気持ち悪く感じたと同じくらいこのガスパールおじさんに対しては気持ちよく感じた。
「さあ、子どもどうし話をおしよ」とかれはゆかいそうに言った。「きっとおたがいにたんと話すことが積《つ》もっているにちがいない。わたしはこのコルネをそんなにじょうずにふく若《わか》い紳士《しんし》とおしゃべりをしよう」
アルキシーはわたしの旅の話を聞きたがった。わたしはかれの仕事の様子を知りたがった。わたしたちはおたがいにたずね合うのがいそがしくって、てんでに相手《あいて》の返事が待ちきれなかった。
うちに着くと、ガスパールおじさんはわたしたちを晩飯《ばんめし》に招待《しょうたい》してくれることになった。この招待ほどわたしをゆかいにしたものはなかった。なぜならわたしたちはさっきのおばさんの待遇《たいぐう》ぶりで、がっかりしきっていたから、たぶん門口《かどぐち》で別《わか》れることになるだろうと、道みちも思っていたからであった。
「さあ、ルミさんとお友だちのおいでだよ」おじさんはうちへはいりかけながらどなった。
しばらくしてわたしたちは夕食の食卓《しょくたく》にすわった。食事は長くはかからなかった。なぜなら金棒引《かなぼうひ》きであるこのおばさんは、その晩《ばん》ごくお軽少《けいしょう》のごちそうしかしなかった。ひどい労働《ろうどう》をする坑夫《こうふ》は、でもこごと一つ言わずに、このお軽少な夕食を食べていた。かれはなによりも平和を好《この》む、事《こと》なかれ主義《しゅぎ》の男であった。かれはけっしてこごとを言わなかった。言うことがあれば、おとなしい、静《しず》かな調子で言った。だから夕食はじきにすんでしまった。
ガスパールおばさんはわたしに、今晩《こんばん》はアルキシーといっしょにいてもいいと言った。そしてマチアにはいっしょに行ってくれるなら、パン焼《や》き場《ば》にねどこをこしらえてあげると言った。
その晩《ばん》それから続《つづ》いてその夜中の大部分、アルキシーとわたしは話し明かした。アルキシーがわたしに話したいちいちがきみょうにわたしを興奮《こうふん》させた。わたしはもとからいつか一度|鉱山《こうざん》の中にはいってみたいと思っていた。
でもあくる日、わたしの希望《きぼう》をガスパールおじさんに話すと、かれはたぶん連《つ》れて行くことはできまい、なんでも炭坑《たんこう》で働《はたら
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