ポプラの若木《わかぎ》からはねっとりとやにが流れていた。そうしてうずら[#「うずら」に傍点]や、こまどり[#「こまどり」に傍点]や、ひわ[#「ひわ」に傍点]やなんぞの鳥が、ここはまだいなかで、町ではないというように歌を歌っていた。
 これがわたしの見た小さな谷の景色《けしき》であった――その後ずいぶん変《か》わったが――それでもわたしの受けた印象《いんしょう》はあざやかに記憶《きおく》に残《のこ》っていて、ついきのうきょうのように思われる。わたしに絵がかけるなら、このポプラの林の一|枚《まい》の葉をも残《のこ》すことなしにえがき出したであろう――また大きなやなぎの木を、頭の先の青くなった、とげのあるさんざしといっしょにかいたであろう。それはやなぎのかれたような幹《みき》の間に根を張《は》っていた。また砲台《ほうだい》の傾斜地《けいしゃち》をわたしたちはよく片足《かたあし》で楽にすべって下りた――それもかきたい。あの風車といっしょにうずら[#「うずら」に傍点]が丘《おか》の絵もかきたい――セン・テレーヌ寺の庭に群《むら》がっていたせんたく女もえがきたい。それから川の水をよごれくさらせていた製革《せいかく》工場もかきたい――
 もちろんこういう散歩《さんぽ》のおり、リーズはものは言えなかったが、きみょうなことに、わたしたちはなにもことばの必要《ひつよう》はなかった。わたしたちはおたがいにものを言うことなしに、了解《りょうかい》し合っているように思われた。
 そのうちにわたしにも、みんなといっしょに働《はたら》けるだけじょうぶになる日が来た。わたしはその仕事を始める日を待ちかねていた。それはわたしのためにこれだけつくしてくれた親切な友だちに、こちらからもなにかしてやりたいと思っていたからであった。わたしはこれまで仕事らしい仕事をしたことがなかった。長い流浪《るろう》の旅はつらいものではあるが、どうでもこれだけ仕上げなければというように、いっしょうけんめい張《は》りこんでする仕事はなにもなかった。けれど今度こそわたしは、じゅうぶんに働《はたら》かなければならないと感じた。少なくともぐるりにいる人たちをお手本にして、元気を出さなければならないと思った。このごろはちょうどにおいあらせいとう[#「においあらせいとう」に傍点]がパリの市場に出始める季節《きせつ》であった。それには赤いのもあり、白いのもあり、むらさき色のもあって、その色によって分けられて、いくつかのフレームに入れられてあった。白は白、赤は赤、同じ色のフレームが一列にならんでみごとであった。夕方フレームのふたをするじぶんには、花から立つかおりが風にふくれていた。
 わたしにあてがわれた仕事はまだ弱よわしい子どもの力に相応《そうおう》したものであった。毎朝しもが消えると、わたしはガラスのフレームを開けなければならなかった。夜になって寒くならないうちにまたそれを閉めなければならなかった。昼のうちはわらのおおいで日よけをしてやらなければならなかった。これはむずかしい仕事ではなかったが、一日ひまがかかった。なにしろ何百というガラスを毎日二度ずつ動かさなければならなかった。
 このあいだリーズは灌水《かんすい》に使う水上《みずあ》げ機械《きかい》のそばに立っていた。そして皮のマスクで目をかくされた老馬《ろうば》のココットが、回しつかれて足が働《はたら》かなくなると、かの女は小さなむちをふるって馬をはげましていた。兄弟の一人はこの機械が引き上げたおけを返す、もう一人の兄弟はお父さんの手伝《てつだ》いをする。こんなふうにしててんでに自分の仕事を持っていて、むだに時間を費《ついや》すものはなかった
 わたしは村で百姓《ひゃくしょう》の働《はたら》くところを見たこともあるが、ついぞパリの近所の植木屋のような熱心《ねっしん》なり勇気《ゆうき》なり勤勉《きんべん》なりをもって働《はたら》いていると思ったことはなかった。実際《じっさい》ここではみんないっしょうけんめい、朝は日の出まえから起き、晩《ばん》は日がくれてあとまでいっぱいの時間を使いきってのちに寝台《ねだい》に休むのである。わたしはまた土地を耕《たがや》したことがあったが、勤労《きんろう》によって土地にまるで休憩《きゅうけい》をあたえないまでに耕作《こうさく》し続《つづ》けるということを知らなかった。だからアッケンのお父さんのうちはわたしにとってはりっぱな学校であった。
 わたしはいつまでも温室のフレームばかりには使われていなかった、元気が回復《かいふく》してきたし、自分もなにか地の上にまいてみるということに満足《まんぞく》を感じてきた。その種《たね》が芽《め》を出すのを見るのが、いっそうの満足であった。これはわたしの仕事であった。わたしの財産《ざいさん》、わたしの創造《そうぞう》であった。だからよけいわたしに得意《とくい》な感じを起こさせた。
 それで自分がどういう仕事に適当《てきとう》しているかがわかった。わたしはそれをやってみせた。そのうえよけいわたしをゆかいにしたことは、まったくこれでは骨折《ほねお》りのかいがあると感じ得《え》たことであった。
 この新しい生活はなかなかわたしには苦しかったが、しかしこれまでの浮浪人《ふろうにん》の生活と似《に》ても似つかない労働《ろうどう》の生活が案外《あんがい》早くからだに慣《な》れた。これまでのように自由気ままに旅をして、なんでも大道を前へ前へと進んで行くほかに苦労《くろう》のなかったのに引きかえて、いまは花畑の囲《かこ》いの中に閉《と》じこめられて、朝から晩《ばん》まであらっぽく働《はたら》かなければならなかった。背中《せなか》にはあせにぬれたシャツを着、両手に如露《じょろ》を持って、ぬかるみの道の中を、素足《すあし》で歩かなければならなかった。でもぐるりのほかの人たちも、同じようにあらっぽい労働《ろうどう》をしていた。お父さんの如露はわたしのよりもずっと重かったし、そのシャツはわたしたちのそれよりも、もっとびっしょりあせにぬれていた。みんな平等であるということは、苦労《くろう》の中の大きな楽しみであった。そのうえわたしはもうまったく失《うしな》ったと思ったものを回復《かいふく》した。それは家族の生活であった。わたしはもう独《ひと》りぼっちではなかった。世の中に捨《す》てられた子どもではなかった。わたしには自分の寝台《ねだい》があった。わたしはみんなの集まる食卓《しょくたく》に自分の席《せき》を持っていた。昼間ときどきアルキシーやバンジャメンがわたしにげんこつをみまうこともあったが、わたしはなんとも思わなかった。またわたしが打ち返しても、かれらはなんとも思わなかった。そうして晩《ばん》になれば、みんなスープを取り巻《ま》いて、また兄弟にも友だちにもなるのであった。
 ほんとうを言うと、わたしたちは働《はたら》いてつかれるということはなかった。わたしたちにも休憩《きゅうけい》の時間も遊ぶ時間もあった。むろんそれは短かったが、短いだけよけいゆかいであった。
 日曜の午後には家についているぶどうだなの下にみんな集まった。わたしはその週のあいだかけっぱなしにしておいた例《れい》のハープを外《はず》して持って来る。そうして四人の兄弟|姉妹《しまい》におどりをおどらせる。だれもかれもダンスを習った者はなかったが、アルキシーとバンジャメンは一度ミルコロンヌで婚礼《こんれい》の舞踏会《ぶとうかい》へ行って、コントルダンスのしかただけ多少|正確《せいかく》に記憶《きおく》していた。その記憶がかれらの手引きであった。かれらはおどりつかれると、わたしに歌のおさらいをさせる。そうしてわたしのナポリ小唄《こうた》はいつも決まって、リーズの心を動かさないことはないのであった。
 このおしまいの一|節《せつ》を歌うとき、かの女の目はなみだにぬれないことはなかった。
 そのとき気をまぎらすために、わたしはカピと道化芝居《どうけしばい》をやるのであった。カピにとってもこの日曜日は休日であった。その日はかれにむかしのことを思い出させた。それで一とおり役目を終わると、かれはいくらでもくり返してやりたがった。
 二年はこんなふうにして過《す》ぎた。お父さんはわたしをよくさかり場や、波止場や、マドレーヌやシャトードーやの花市場へ連《つ》れて行ったり、よく花を分けてやる花作りの家に連れて行ったので、わたしもすこしずつパリがわかりかけてきた。そうしてそこはわたしが想像《そうぞう》したように大理石や黄金の町ではなかったが、あのとき初《はじ》めてシャラントンやムフタール区《く》からはいって来たとき見て早飲みこみに思ったようなどろまみれの町でもないことがわかった。わたしは記念碑《きねんひ》を見た。その中へもはいってみた。波止場通り、大通りをも、リュクサンプールの公園をも、チュイルリの公園をも、シャンゼリゼーをも、歩いてみた。銅像《どうぞう》も見た。群衆《ぐんしゅう》の人波にもまれて、感心して立ち止まったこともあった。これで大都会というものがどんなふうにできあがっているかという考えがほぼできてきた。
 幸いにわたしの教育はただ目で見る物から受けただけではなかった。パリの町中《まちなか》を散歩《さんぽ》したりかけ歩いたりするついでに、ぐうぜん覚《おぼ》えるだけではなかった。このお父さんはいよいよ自前《じまえ》で植木屋を開業するまえに植物園の畑で働《はたら》いていた。そこには学者たちがいて、かれにしぜん、物を読んで覚《おぼ》えたいという好奇心《こうきしん》を起こさせた。それでいく年かのあいだためた金を書物を買うために使ったし、その本を読むために休みの時間を費《ついや》した。けれど結婚《けっこん》して子どもができてからは、休みの時間がごくまれになった。なによりもその日その日のパンをもうけなければならなかった。しぜん書物からはなれたが、捨《す》てられたわけでもなく、売りはらわれたわけでもなかった。わたしが初《はじ》めてむかえた冬はたいへん長かったし、花畑の仕事はほとんど中止同様に、少なくとも何か月のあいだの仕事はひまであった。それでわたしたちは炉《ろ》を囲《かこ》んで、いっしょにくらす晩《ばん》などには、そういう古い本をたんすから引き出して、めいめいに分けて読んだ。それはたいてい植物学の本か植物の歴史《れきし》のほかには、航海《こうかい》に関係《かんけい》した本であった。アルキシーとバンジャメンはお父さんの学問の趣味《しゅみ》を受けついでいなかったから、せっかく本を開けても三、四ページもめくるとすぐいねむりを始めるのであった。わたしはしかしそんなにねむくはなかったし、ずっと本が好《す》きだったので、いよいよねどこにはいらなければならない時間まで読んでいた。こうなるとヴィタリスの手ほどきをしてくれた利益《りえき》がむだにはならなかった。わたしはねながらそれを独《ひと》り言《ごと》に言って、かれのことをありがたく思い出していた。
 わたしがものを学びたいという望《のぞ》みは、はしなくお父さんに、自分もむかし本を買うために毎朝|朝飯《あさめし》のお金を二スー倹約《けんやく》したむかしを思い出させた。それでたんすの中にあった書物のほかの本までパリからわざわざ買って来てくれた。その書物の選《えら》び方《かた》はでたらめか、さもなければ表題《ひょうだい》のおもしろいものをつかみ出して来るにすぎなかったが、やはり書物は書物であった。これはそのじぶん秩序《ちつじょ》もなく、わたしの心にはいっては来たが、いつまでも消えることはなかった。それはわたしに利益《りえき》を残《のこ》した。いいところだけが残った。なんでも本を読むのは利益だということは、ほんとうのことである。
 リーズは本を読むことを知らなかったが、わたしが一時間でもひまがあれば、本と首っぴきをしているのを見て、なにがそんなにおもしろいのだろう、そのわけを知りたがっていた。初《はじ》めのうちはかの女
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