場にねむろうとして失敗《しっぱい》して、それからあとの始末を一とおり話しかけて、やっと五分たつかたたないうちに、園《その》に向かっているドアを引っかく音が聞こえた。それから悲しそうにくんくん鳴く声がした。
「カピだ。カピだ」わたしはさけんですぐとび上がった。
 けれどもリーズがわたしより早かった。かの女はもうかけ出してドアを開けていた。
 カピがわたしにとびかかって来た。わたしはかれをうでにかかえた。小さな喜《よろこ》びのほえ声をたてて、全身をふるわせながら、かれはわたしの顔をなめた。
「するとカピは……」とわたしはたずねた。わたしの問いはすぐに了解《りょうかい》された。
「うん、むろんカピもいっしょにおくよ」とお父さんが言った。
 カピはわたしたちの言っていることがわかったというように、地べたにとび下りて、前足を胸《むね》に置《お》いておじぎをした。それが子どもたち、とりわけリーズを笑《わら》わせた。で、よけいかれらを喜《よろこ》ばせるために、わたしはカピに、いつもの芸《げい》をすこしして見せろと望《のぞ》んだ。けれどもかれはわたしの言いつけに従《したが》う気がなかった。かれはわたしのひざの上にとび上がって顔をなめ始めた。
 それからとび下りて、わたしの上着のそでを引き始めた。
「あの犬はわたしを外へ連《つ》れ出そうというのです」
「おまえの親方の所へ行こうというのだよ」
 親方を引き取って行った巡査《じゅんさ》は、わたしが暖《あたた》まって正気づいたら、聞きたいことがあると言ったそうだ。その巡査がいつ来るか、あやふやであった。
 でもわたしは早く報告《ほうこく》を聞きたいと思った。たぶん親方はみんなの思ったように死んではいないのだ。たぶん親方はまだ生きて帰れるのだ。
 わたしの心配そうな顔を見て、お父さんはわたしを警察《けいさつ》へ連《つ》れて行ってくれた。
 警察へ行くとわたしは長ながと質問《しつもん》された。けれどわたしはいよいよ気のどくな親方がまったく死んだという宣告《せんこく》を聞くまでは、なにも申し立てようとはしなかった。わたしは知っているだけのことは述《の》べたが、それはほんのわずかのことであった。わたし自身については、せいぜい両親のないこと、親方が前金で養母《ようぼ》の夫《おっと》に金をはらってわたしをやとったこと、それだけしか言えなかった。
「それでこれからは……」署長《しょちょう》がたずねた。
「わたくしどもでこの子を引き取ろうと思います」とわたしの新しい友人がことばをはさんだ。
「それをお許《ゆる》しくださいますならば」
 署長《しょちょう》は喜《よろこ》んでわたしをかれの手に委任《いにん》すると言った。そのうえその親切な心がけをほめた。
 自分のことはそれでいいとして、今度は親方のことを言わなければならなかった。でもまったくなんにも知らないのが事実であった。
 ただ一つわからないことは、最後《さいご》の興行《こうぎょう》のとき、どこかの夫人《ふじん》が天才《てんさい》だと言っておどろいたこと、それからガロフォリがむかしの名前をどうとか言いだして、かれをおどしたことであった。
 けれど親方があれほどかくしていたことを死んだのちにあばき立てることはいらない。でもそうは思いながら、事に慣《な》れた警官《けいかん》の前で子どもがかくしおおせるものではなかった。かれらはわけなくわなにかけて、かくしたいと思うことをずんずん言わせてしまうのである。わたしの場合がやはりそれであった。
 署長《しょちょう》はさっそくわたしから、ガロフォリについてなにもかもかぎ出してしまった。
「この子をガロフォリというやつの所へ連《つ》れて行くよりほかにしかたがない」と、かれは部下の一人に言った。「一度この子の言うルールシーヌ街《まち》へ連《つ》れて出れば、すぐその家を見つけるよ。きみはこの子といっしょに行って、その男を尋問《じんもん》してくれたまえ」
 わたしたち三人――巡査《じゅんさ》とお父さんとわたしは、いっしょに出かけた。
 署長《しょちょう》が言ったように、わたしはわけなくその家を見つけた。わたしたちは四階へ上がって行った。マチアはもう見えなかった。警官《けいかん》の顔を見て、それから見覚《みおぼ》えのあるわたしを見つけると、ガロフォリは青くなって、ぎょっとしたようであった。けれどみんなの来たのは、ヴィタリスのことをたずねるためであったことがわかると、かれはすぐに落ち着いた。
「やれやれ、じいさん、死にましたか」とかれは言った。
「おまえはその老人《ろうじん》を知っているだろう」
「はい」
「じゃああの老人について知っていることを残《のこ》らず話してくれ」
「なんでもないことでございます。あの男の名前はヴィタリスではございません。本名はカルロ・バルザニと申しました。あなたがいまから三十五年か四十年まえにイタリアにおいででしたら、あの男についてご承知《しょうち》だったでしょう。それはほんの名前を言うだけで、どんな人物だということは残《のこ》らずおわかりになったでしょう。カルロ・バルザニと言えばそのころでいちばん有名な歌うたいでした。かれはナポリ、ローマ、ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ロンドン、それからパリでも歌いました。どこの大劇場《だいげきじょう》もたいした成功《せいこう》でした。やがてふとしたことからかれはりっぱな声が出なくなりました。もう歌うたいの中でいちばんえらい者でいることができなくなると、かれは自分の偉大《いだい》な名声に相応《そうおう》しない下等な劇場に出て、歌を歌って、だんだん評判《ひょうばん》をうすくすることをしませんでした。その代わりかれはまるっきり自分を世間の目からくらまして、全盛時代《ぜんせいじだい》にかれを知っていた人びとからかくれるようにしました。けれどもかれも生きなければなりません。かれはいろいろの職業《しょくぎょう》に手を出してみましたが、どれもうまくいきません。そこでとうとう犬を慣《な》らして、大道《だいどう》の見世物師《みせものし》にまで落ちることになりました。けれどいくらなり下がってもやはり気位《きぐらい》が高く、これが有名なカルロ・バルザニのなれの果《は》てだということを世間に知られるくらいなら、はずかしがって死んだでしょう。わたしがあの男の秘密《ひみつ》を知ったのは、ほんのぐうぜんのことでした」
 これが長いあいだ心にかかっていた秘密の正体であった。
 気のどくなカルロ・バルザニ。なつかしいヴィタリス親方。


     植木屋


 そのあくる日ヴィタリスをほうむらなければならなかった。アッケン氏《し》はわたしをお葬式《そうしき》に連《つ》れて行くやくそくをした。
 けれどその日わたしは起き上がることができなかった。夜のうちにひじょうに具合が悪くなった。ひどい熱《ねつ》が出て、はげしい寒けを感じた。わたしの胸《むね》の中は、小さなジョリクールがあの晩《ばん》木の上で過《す》ごしたとき受けたと同様、焼《や》きつくやうな熱気《ねっき》を感じた。
 実際《じっさい》わたしは胸にはげしい※[#「火+欣」、第3水準1−87−48]衝《きんしょう》(焼きつくような感じ)を感じた。病気は肺炎《はいえん》であった。それはすなわちあの晩《ばん》気のどくな親方とわたしがこの家《や》の門口《かどぐち》にこごえてたおれたとき、寒気のために受けたものであった。
 でもこの肺炎《はいえん》のおかげで、わたしはアッケン家の人たちの親切、とりわけてエチエネットの誠実《せいじつ》をしみじみ知ったのであった。びんぼうなうちではめったに医者を呼《よ》ぶということはないが、わたしの容態《ようだい》がいかにも重くって心配であったので、わたしのため特別《とくべつ》に、習慣《しゅうかん》のためいつか当たり前になっていた規則《きそく》を破《やぶ》ってくれた。呼ばれて来た医者は長い診察《しんさつ》をしたり、細かい容態を聞いたりするまでもなく、いきなり病院へ送れと言いわたした。
 なるほどこれはいちばん簡単《かんたん》で、手数がかからなかった。でもこの父さんは承知《しょうち》しなかった。
「ですがこの子はわたしのうちの門口でたおれたんですから、病院へはやらずに、やはりわたしどもが看病《かんびょう》しなければなりません」とかれは言った。
 医者はこの因縁論《いんねんろん》に対して、いろいろうまいことばのかぎりをつくして説《と》いたが、承知《しょうち》させることができなかった。かれはわたしをどうしても看病しなければならないと考えた。そしてまったく看病してくれた。
 こうしてあり余《あま》る仕事のあるうえ、エチエネットにはまた一つ、看護婦《かんごふ》の役が増《ふ》えた。でもセン・ヴェンサン・ド・ポールの尼《あま》さんがするように、親切にしかも規則《きそく》正しく看護《かんご》してくれて、けっしてかんしゃく一つ起こさないし、なに一つ手落ちなしにしてくれた。かの女が家事のためにどうしてもついていられないときには、リーズが代わってくれた。たびたび熱《ねつ》にうかされながら、わたしは寝台《ねだい》のすそで不安心《ふあんしん》らしい大きな目をわたしに向けているかの女を見た。熱にうかされながらわたしはかの女を自分の守護天使《しゅごてんし》であるように思って、天使に向かって話をするように、自分の望《のぞ》みや願《ねが》いをかの女に打ち明けた。このときからわたしは我知《われし》らずかの女を、なにか後光に包《つつ》まれた人間|以上《いじょう》のものに思うようになり、それが白い大きなつばさをしょってはいないで、やはりわれわれただの人間と同様にしていることをふしぎに思ったりした。
 わたしの病気は長かったし、重かった。快《こころよ》くなってはたびたびあともどりをしたので、ほんとうの両親でもいやきがさしたかもしれなかった。でもエチエネットはどこまでもがまん強く誠実《せいじつ》をつくしてくれた。いく晩《ばん》かわたしは肺臓《はいぞう》が痛《いた》んで、息がつまるように思われて、ねむられないことがあった。それでアルキシーとバンジャメンが代わりばんこに、寝台《ねだい》のそばにつききりについていてくれた。
 ようようすこしずつ治《なお》りかけてきた。でも長い重病のあとであったから、すこしでもうちの外に出るには、グラシエールの牧場《ぼくじょう》が青くなり始めるまで待たなければならなかった。
 そこで用のないリーズがエチエネットの代わりになって、ビエーヴル川の岸のほうへわたしを散歩《さんぽ》に連《つ》れて行ってくれた。真昼《まひる》の日ざかりに、わたしたちはうちを出て、カピを先に立てて、手を組みながらそろそろと歩いた。その年の春は暖《あたた》かで、日和《ひより》がよかった。少なくともわたしは暖かな心持ちのいい記憶《きおく》を持っている。だから同じことであった。
 このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で、パリの人にはあまり知られていなかった。このへんに小さな谷があるということだけはぼんやり知られていたが、その谷に注《そそ》ぐ川はビエーヴル川であるから、この谷はパリの郊外《こうがい》ではいちばんきたない陰気《いんき》な所だと言いもし、信《しん》じられもしていた。だがそんなことはまるでなかった。うわさほど悪い所ではなかった。ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末《ばすえ》で、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、ヴェリエールやリュンジには自然《しぜん》のおもむきがあった。少なくともわたしのいたじぶんには、やなぎやポプラが青あおとしげっている下を水が流れていた。その両岸には緑の牧場《ぼくじょう》が、人家や庭のある小山のほうまでだんだん上りに続《つづ》いていた。春は草が青あおとしげって、白い小ぎくが碧玉《へきぎょく》をしきつめたもうせんの上に白い星をちりばめていたし、芽出《めだ》しやなぎや
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