く》に向かって、キャベツのスープをすすっていた。そのにおいがわたしにとってはあんまりであった。わたしはゆうべなんにも食べなかったことをはげしく思い出した。わたしは気が遠くなるように思って、よろよろしながら炉《ろ》ばたのいすにこしを落とした。
「おまえさん、気分がよくないか」と植木屋がたずねた。
 わたしはかれに、どうも具合の悪いことを話した。そうしてしばらく火のそばへ置《お》いてくれとたのんだ。
 でもわたしの欲《ほっ》していたのは火ではなかった。それは食物であった。わたしはうちの者がスープを吸《す》うところをながめて、だんだん気が遠くなるように思えた。わたしがかまわずにやるなら一ぱいくださいと言うところであったが、ヴィタリスはわたしにこじきはするなと教えた。わたしはかれらにおなかが減《へ》っているとは言いださなかった。なぜだろう。わたしはひもじゅうございますと言うよりは、なにも食べずに死んでしまうほうがよかった。
 あの目にきみょうな表情《ひょうじょう》を持った女の子は――名前をリーズと呼《よ》ばれていたが、わたしの向こうにこしをかけていた。この子はなにも言わずに、じっとわたしのほうを見つめていたが、ふと食卓《しょくたく》から立ち上がって、一ぱいスープのはいっているおさらをわたしの所へ持って来て、ひざの上に置《お》いた。もうものを言うこともできなかったので、かすかにわたしは首をうなずかせて、お礼《れい》を言った。よし、わたしがものを言えたとしても、父親が口をきかせるひまをあたえなかった。
「おあがり」とかれは言った。「リーズが持って行ったのは、優《やさ》しい心でしたのだからね。もっと欲《ほ》しければまだあるよ」
 もっと欲しいかと言うのか。一ぱいのスープはみるみる吸《す》われてしまった。わたしがスープを下に置《お》くと、前に立ってながめていたリーズがかわいらしい満足《まんぞく》のため息をした。それからかの女はわたしの小ざらを取って、また父の所へ一ぱい入れてもらいに行った。いっぱいにしてもらうと、かの女はかわいらしい笑顔《えがお》をしながら、また持って来た。それがあんまりかわいらしいので、腹《はら》は減《へ》っていても、わたしは小ざらを取ることを忘《わす》れて、じっとその顔に見とれたくらいであった。二はい目の小ざらもさっそく初《はじ》めのと同様になくなった。もう子どもたちもくちびるをゆがめて微笑《びしょう》するくらいではすまなくなった。みんなはいっぱい口を開けて笑《わら》いだしてしまった。
「どうもおまえ、なかなかいけるねえ。まったく」とかの女の父親が言った。
 わたしはたいへんはずかしかった。けれどもそのうちわたしは食いしんぼうと思われるよりもほんとうの話を打ち明けてしたほうがいいと思ったので、じつはゆうべ晩飯《ばんめし》を食べなかったことを話した。
「それではお昼は」
「お昼もやはり食べません」
「では親方は」
「あの人も、やはりどちらも食べませんでした」
「ではあの人は寒さばかりでなく、飢《かつ》えて死んだのだ」
 熱《あつ》いスープがわたしに元気をつけてくれた。わたしは立ち上がって、出かけようとした。
「おまえさん、どうするのだ」と父親がたずねた。
「おいとまいたします」
「どこへ行く」
「わかりません」
「パリにだれか友だちか親類《しんるい》でもあるのかい」
「いいえ」
「宿《やど》はどこだね」
「宿はありません。ついきのうこの町へ来たばかりです」
「ではなにをしようというのだね」
「ハープをひいたり、歌を歌ったりして、すこしのお金をもらいます」
「パリでかい。おまえさん、それよりかいなかのご両親の所へ帰ったほうがいいだろう。ご両親はどこに住んでいなさる」
「わたしには両親がありません」
「あのひげの白いじいさんは、父さんではないというじゃないか」
「ええ、ほかにも父さんはありません」
「母さんは」
「母さんもありません」
「おじさんか、おばさんか、親類《しんるい》は」
「なにもありません」
「どこから来たのだね」
「親方はわたしを養母《ようぼ》の夫《おっと》の手から買ったのです。あなたがたは親切にしてくだすったし、ぼくは心からありがたく思っています。ですからおいやでなければ、わたしは日曜日にここへもどって来て、あなたがたのおどりに合わせてハープをひいてあげましょう」
 こう言いながらわたしは戸口のほうへ行きかけたが、ほんの二足三足で、すぐあとからわたしについて来たリーズが、わたしの手を取ってハープを指さした。
「あなた、いまひいてもらいたいの」と、わたしはかの女に笑《わら》いかけながらたずねた。かの女はうなずいて手をたたいた。
「うん。ひいてやっておくれ」とかの女の父親は言った。
 わたしはハープをひく元気はなかったけれど、このかわいらしい女の子のためにいちばんかわいらしいワルツをひいてやらずにはいられなかった。
 はじめかの女は大きな美しい目をじっとわたしに向けて聞いていたが、やがて足で拍子《ひょうし》を合わせ始めた。するうち、うれしそうに食堂《しょくどう》の中をおどり歩いた。かの女の兄弟たちはその様子をだまってながめていた。かの女の父親もうれしがっていた。ワルツがすむと、子どもはやって来て、わたしにかわいらしいおじぎをした。そして指でハープを打って「アンコール」(もう一つ)という心持ちを示《しめ》した。
 わたしはこの子のためには一日でもひいていてやりたかったが、父親はもうそれだけおどればたくさんだと言った。そこでワルツや舞踏曲《ぶとうきょく》の代わりに、わたしはヴィタリスが教えてくれたナポリ小唄《こうた》を歌った。リーズはわたしの向こうへ来て立って、あたかも歌のことばをくり返しているようにくちびるを動かした。するとかの女はくるりとふり向いて、泣《な》きながら父親のうでの中にとびこんだ。
「それで音楽はけっこう」と父親が言った。
「リーズはばかじゃないか」とバンジャメンと呼《よ》ばれた兄弟があざけるように言った。「はじめはおどりをおどって、今度は泣《な》くんだもの」
「あの子はあんたのようにばかではないわ」と総領《そうりょう》の姉《あね》が小さい妹をいたわるようにのぞきこみながら答えた。
「この子にはよくわかったのだよ……」
 リーズが父親のひざの上で泣《な》いているあいだにわたしはまたハープを肩《かた》にかけて行きかけた。
「おまえさん、どこへ行く」と植木屋がたずねた。
「おいとまいたします」
「おまえさん、やはり芸人《げいにん》でやっていくつもりかい」
「でもほかにすることがありませんから」
「旅でかせぐのはつらいだろう」
「だってうちがありませんから」
「それはそうだろうが、夜というものがあるからね」
「それは、わたしだって寝台《ねだい》にねたいし、火にも当たりたいと思います」
「火に当たったり寝台にねるには、それそうとう働《はたら》かなければならないが、おまえはどうだね。このうちにいて働く気はないか。なかなか楽な仕事ではないが、それは朝もずいぶん早くから起きて、まる一日働かなければならないけれど、ただおまえがゆうべ出会ったような目にはけっして二度と出会う気づかいはなかろうよ。おまえはねどこも、食べ物も得《え》られるし、自分で働《はたら》いてそれを得たという満足《まんぞく》もあろうというものだ。それでおまえがわしが考えているようにいい子どもであるなら、同じうちの者にして、いっしょにくらしてゆきたいとも思っているのだよ」
 リーズがふり返って、なみだの中からわたしをながめてにっこりした。
 わたしはいま聞いたことをほとんど信《しん》ずることができなかった。わたしはただ植木屋をながめていた。
 するとリーズが、父親のひざからとんで来て、わたしの手を取った。
「うん、どうだね、おまえ」と父親がたずねた。
 家族だ。わたしは家族を持つようになった。わたしは独《ひと》りぼっちではなくなるのだ。いいゆめよ。今度は消えずにいてくれ。
 わたしが四、五年いっしょにくらして、ほとんど父親のようであった人は死んだ。なつかしい、優《やさ》しいカピは、わたしがあれほど愛《あい》した仲間《なかま》でもあり友だちでもあったカピは、いなくなった。わたしはなにもかもおしまいになったと思っていた。ところへこのいい人がわたしを自分の家族にしてやると言ってくれた。
 わたしのために新しい生涯《しょうがい》がまた始まるのだ。かれはわたしに食べ物と宿《やど》をあたえると言ったが、それよりももっとわたしにうれしかったのは、このうちの中の生活がやはりわたしのものになるということであった。この男の子たちはわたしの兄弟になるであろう。このかわいらしいリーズはわたしの妹になるであろう。わたしはもうみなし子ではなくなるであろう。わたしの子どもらしいゆめの中で、いつかわたしも父親と母親を見つけるかもしれないと思ったこともあった。けれど兄弟や妹を持とうとは考えなかった。それがわたしにあたえられようとしているのだ。わたしはさっそくハープの負い皮を肩《かた》からはずした。
「おお、それでこの子の返事がわかった」とお父さんが笑《わら》いながら言った。「わたしはおまえの顔つきで、どんなにおまえが喜《よろこ》んでいるかわかる。もうなにも言うことは要《い》らない。そのハープをかべにおかけ。いつかおまえがここにあきたら、またそれを下ろして好《す》きなほうへ行くがよろしい。けれどおまえもつばめのように、とび出して行く季節《きせつ》を選《えら》ばなければならない。まあ、冬のさ中に出て行くのだけはおよし」
 わたしの新しい家庭の場所はグラシエール、うちの名はアッケン家、植木屋が商売で、ピエール・アッケンというのがお父さんで、アルキシーに、バンジャメンという二人の男の子、それから女の子はエチエネットに、うちじゅうでいちばん小さいリーズでこれが家族|残《のこ》らずであった。
 リーズはおしであった。生まれつきのおしではなかったが、四度目の誕生日《たんじょうび》をむかえるすこしまえに、病気でものを言う力を失《うしな》った。この不幸《ふこう》は、でも幸せとかの女のちえを損《そこ》ないはしなかった。その反対にかの女のちえはなみはずれた程度《ていど》に発達《はったつ》した。かの女はなんでもわかるらしかった。でもその愛《あい》らしくって、活発で優《やさ》しい気質《きしつ》が、うちじゅうの者に好《す》かれていた。それで病身の子どもにありがちのうちじゅうのきらわれ者になるようなことのないばかりか、リーズのいるために、うちじゅうがおもしろくくらしている。むかしは貴族《きぞく》の家の長子に生まれると福分《ふくぶん》を一人じめにすることができたが、今日の労働者《ろうどうしゃ》の家庭では、総領《そうりょう》はいちばん重い責任《せきにん》をしょわされる。母親が亡《な》くなってから、エチエネットが家庭の母親であった。かの女は早くから学校をやめさせられ、うちにいてお料理《りょうり》をこしらえたり、お裁縫《さいほう》をしたり、父親や兄弟たちのために家政《かせい》を取らなければならなかった。かれらはみんなかの女がむすめであり、姉《あね》であることを忘《わす》れきって、女中の仕事をするのばかり見慣《みな》れていた。いくらひどく使っても出て行く心配もなければ、不平《ふへい》を言う気づかいもない重宝《ちょうほう》な女中であった。かの女が外へ出ることはめったになかったし、けっしておこったこともなかった。リーズをうでにかかえてベンニーの手を引きながら、朝は暗いうちから起きて、父親の朝飯《あさめし》をこしらえ、夜はおそくまでさらを洗《あら》ったりなどをしてからでなくては、とこにはいらなかったから、かの女はまるで子どもでいるひまがなかった。十四だというのにかの女の顔はきまじめにしずんでいた。それは年ごろのむすめの顔ではなかった。
 わたしはハープをかべにかけてから、ゆうべ出会った出来事をぽつぽつ話しだした。石切り
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