だんだん夜がふけるに従《したが》って、とりとめもない恐怖《きょうふ》がわたしを圧迫《あっぱく》した。わたしは不安《ふあん》に感じたが、なぜわたしが、そう感じたのかわからない。なにをわたしはおそれているのか。このロンドンのびんぼう町で馬車小屋の中にとまることがこわいのではない。これまでの流浪生活《るろうせいかつ》で、いく度《たび》わたしは今夜よりも、もっとたよりない夜を明かしたことがあったであろう。わたしは現在《げんざい》あらゆる危険《きけん》から庇護《ひご》されていることはわかっているのに、恐怖《きょうふ》がいよいよつのって、もうふるえが出るまでになっている。
時間はだんだんたっていった。ふとうまやの向こうの、往来《おうらい》に向かったドアの開く音がした。それから五、六|度《たび》間《ま》を置《お》いて規則《きそく》正しいノックが聞こえた。やがて明かりが馬車の中にさしこんだ。わたしはびっくりしてあわててそこらを見回した。わたしの寝台《ねだい》のわきにねむっていたカピは、うなり声を立てて起き上がった。わたしはそのときその明かりが馬車の小窓《こまど》からはいって来ることを知った。その小窓はわたしたちの寝台《ねだい》の向こうについていたのを、さっきはカーテンがかかっていたのでとこにはいるとき気がつかなかったのであった。この窓の上部はマチアの寝台《ねだい》に近く、下部はわたしの寝台に近かった。カピがうちじゅうを起こしてはいけないと思って、わたしはかれの口に手を当てて、それから外をながめた。
すると父親がうまやにはいって来て、静《しず》かに向《む》こう側《がわ》のドアを開けた。そして二人、肩《かた》に重い荷をせおった男を外から呼《よ》び入れて、やはり用心深い様子で、またドアを閉《し》めた。それからかれはくちびるに指を当てて、ちょうちんを持った片手《あたて》でわたしたちのねむっている事に指さしをした。わたしはほとんどそんな心配は要《い》りませんと言って、声をかけようとしたが、もうマチアがよくねむっていると思ったから、それを起こすまいと思って、そっとだまっていた。
父親はそのとき二人の男に手伝《てつだ》って荷物のひもをほどかせて、やがて見えなくなったが、まもなく母親を連《つ》れてもどって来た。かれのいないあいだに二人の男は荷物の封《ふう》を開いた。中にはぼうしと下着とくつ下に手ぶくろなどがあった。まさしくこの男たちは両親の所へ品物を売りに来た商人であった。父親はいちいち品物を手に取って、ちょうちんの明かりで調べて、それを母親にわたすと、母親は小さなはさみで、正札《しょうふだ》を切り取って、かくしの中に入れた。これがわたしにはきみょうに思えたし、それとともに、売り買いをするのにこんな真夜中《まよなか》の時間を選《えら》んだということもふしぎであった。
母親が品物を調べているあいだに、父親は商人に小声で話をしていた。わたしがもうすこしイギリス語を知っていたら、たぶんかれの言ったことばがわかったであろうが、わたしの聞き得《え》たかぎりでは、ポリスメン(巡査《じゅんさ》)ということだけであった。それはたびたびくり返して言ったので、そのためわたしの耳にも止まったのであった。
残《のこ》らずの品物がていねいに書き留《と》められたとき、両親と二人の男がうちの中にはいった。そしてわたしたちの車はまた暗黒《あんこく》のうちに置《お》かれた。かれらは確《たし》かに勘定《かんじょう》をするために、うちの中にはいったのであった。わたしは自分の見たことがごく当たり前のことであると信《しん》じようとしたが、いくらそう望《のぞ》んでも、そう信ずることできなかった。
なぜあの両親に会いに来た二人の男が、ほかのドアからはいって来なかったのであろうか。なぜかれらはなにか戸の外で聞くもののあることをおそれるかのように、小声で巡査《じゅんさ》の話をしていたのであったか。なぜ母親は品物を買ったあとで、正札《しょうふだ》を切り取ったのであろうか。わたしはこの考えをとりのけることができなかった。しばらくして明かりがまた馬車の中へさしこんで来た。わたしは今度はつい我《われ》知らず外をながめた。わたしは自分では見てはならないと思っていたが、でも……わたしは見た。わたしは自分では知らずにいるほうがいいと思ったが、でも……わたしは知ってしまった。
父親と母親と二人だけであった。母親が手早く品物の荷作りをするまに、父親はうまやのすみをはいた。かれがかわいた砂《すな》をもり上げたそばに、落としのドアがあった。かれはそれを引き上げた。そのときもう母親は荷物にすっかりなわをかけておいたので、父親はそれを受け取って、落としから下の穴《あな》へ下ろした。母親はそばでちょうちんを見せていた。それからかれは落としのドアを閉《し》めて、またその上に砂《すな》をはき寄《よ》せた。その砂の上に二人はわらくずをまき散《ち》らしてうまやのゆかのほかの部分と同じようにした。そうしておいてかれらは出て行った。
かれらがそっとドアを閉《し》めたしゅんかんに、マチアがねどこの中で動いたこと、まくらの上であお向けになったことをわたしは見たように思った。かれは見たかしら。わたしはそれを思い切って聞けなかった。頭から足のつま先までわたしは冷《ひ》やあせをかいていた。わたしはこのありさまでまる一晩《ひとばん》置《お》かれた。にわとりが夜明けを知らせた。そのときやっとわたしはまぶたをふさいだ。
そのあくる朝わたしたちの車の戸を開けるかぎの音がしたので、わたしは目を覚《さ》ました。きっと父親がもう起きる時間だと言いに来たのであろうと思って、わたしはかれを見ないように目を閉じた。
「きみの弟だったよ」とマチアが言った。「ドアのかぎを開けて出て行ったよ」
わたしたちは着物を着た。マチアはわたしによくねむれたかとも聞かなかった。わたしもかれに質問《しつもん》しなかった。一度かれがわたしのほうを見たように思ったから、わたしは目をそらせた。
わたしたちは台所まで行った。けれども父親も母親もそこにはいなかった。祖父《そふ》は例《れい》の大きないすにこしをかけて、もうゆうべからすわったなりいるように、火の前にがんばっていた。そうしていちばん上の妹のアンニーというのが、食卓《しょくたく》をふいていた、いちばん上の弟のアレンが部屋《へや》をはいていた。わたしはかれらのそばへ寄《よ》って「おはよう」と言ったが、かれらはわたしには目もくれないで、仕事を続《つづ》けていた。
わたしは祖父《そふ》のほうへ行ったが、かれはわたしを見てそばへは寄《よ》せつけなかった。そうしてまえの晩《ばん》のようにわたしのほうにつばをはきかけた。それでわたしは行きかけて立ち止まった。
「聞いてくれたまえよ」とわたしはマチアに言った。「いつ、父さんや母さんは出て来るのだか」
マチアはわたしの言ったとおりにした。すると祖父《そふ》はわたしたちの一人がイギリス語を話したので、すこしきげんを直したように見えた。
「なんだと言うのだね」とわたしは言った。
「きみの父さんは一日よそへ出て帰らない。母さんはねむっている。それで出たければ外へぼくたちが出てもいいというのだ」
「たったそれだけしか言わないの」とわたしはこの翻訳《ほんやく》がたいへん簡単《かんたん》すぎると思って言った。
マチアはまごついたようであった。
「そのほかのことばはよくわかったか、どうだか知らない」とかれは言った。
「ではわかったと思うだけ言いたまえ」
「なんでもあの人は、ぼくたちも町でなにか商売でもして、一もうけして来るがいい。ただ飯《めし》を食われてはやりきれない、というようなことを言っていたと思う」
祖父《そふ》はかれの言ったことを、マチアが説明《せつめい》して聞かしているとさとったものらしく、中気《ちゅうき》でないほうの手でなにかをかくしにおしこもうとするような身ぶりをして、それから目配せをして見せた。
「出かけよう」とわたしはすぐに言った。
二、三時間のあいだわたしたちはそこらを歩き回ったが、道に迷《まよ》ってはいけないと思って遠くへは行かなかった。ベスナル・グリーンは夜見るよりも昼見るとさらにひどい所であった。マチアとわたしは、ほとんど口をきかなかった。ときどきかれはわたしの手をにぎりしめた。
わたしたちがうちへ帰ったとき、母親はまだ部屋《へや》から出て来なかった。開け放したドアのすきからわたしはかの女が机《つくえ》の上につっぷしているのを見た。かの女は病気なのだと思ったが、わたしは話をすることができないから、代わりにキッスしようと思って、そばへかけて行った。
するとかの女はふらふらする頭を持ち上げて、わたしのほうをながめたが、顔は見なかった。かの女の熱《あつ》い息の中には、ぷんとジン酒のにおいがした。わたしは後ずさりをした。かの女の頭はまた下がって、机《つくえ》の上にぐったりとなった。
「ジンに当たったのだよ」と祖父《そふ》は言って、歯をむき出した。
わたしはそのほうは見向きもせずにじっと立ちどまった。からだが石になったように感じた。どのくらいそうして立っていたか知らなかった。ふとわたしはマチアのほうを向いた。かれは両眼《りょうがん》になみだをいっぱいうかべて、わたしを見ていた。わたしはかれに合図をして、また二人でうちを出た。
長いあいだわたしたちはおたがいの手を組み合ってならんで歩きながら、何も言わずに、どこへ行こうという当てもなしに、まっすぐに歩いた。
「ルミ、きみはどこへ行くつもりだ」とかれはとうとう心配そうにたずねた。
「ぼくは知らない。どこかへとだけしか言えない。マチア、ぼくはきみと話がしたい。だがこの人ごみの中では話もできない」
わたしたちはそのとき、いつか広い町へ出ていた。そのはずれには公園があった。わたしたちはそこまでかけて行って、こしかけにこしをかけた。
「ねえ、マチア、ぼくがどんなにきみを愛《あい》しているか、知ってるだろう。だから今度ぼくがうちの人たちに会いに来るとき、いっしょにきみに来てもらったのは、きみのためを思ったことだったのだ。きみはぼくがなにをたのんでも、ぼくの友情《ゆうじょう》を疑《うたが》いはしないだろうねえ」とわたしは言った。
「ばかなことを言いたまえ」とかれは無理《むり》に笑《わら》って言った。
「きみはぼくを泣《な》きださせまい思って、そんなふうに笑うのだね」とわたしは答えた。「ぼくはきみといっしょにいるときに、泣けないなら、いつ泣くことができよう。でも……おお……マチア、マチア」
わたしは両うでをなつかしいマチアの首にかけて、ほろほろなみだをこぼした。わたしはこんなに情《なさ》けなく思ったことはなかった。わたしがこの広い世界に独《ひと》りぼっちであったじぶん、かえってわたしはこのしゅんかんほどに不幸《ふこう》だとは感じなかった。わたしはすすり泣《な》きをしてしまったあとで、やっと気を落ち着けることができた。わたしがマチアを公園に連《つ》れて来たのは、かれのあわれみを求《もと》めるためではなかった。それはわたしのためではなかった。かれのためであった。
「マチア」とわたしは思い切って言った。「きみはフランスへ帰らなければならないよ」
「きみを捨《す》てて、どうして」
「ぼくはきみがそう答えるだらうと思っていた。それを聞いてぼくはうれしい。ああ、きみがぼくといっしょにいたいというのは、まったくうれしい。けれどマチア、きみはすぐにフランスへ帰らなければならないよ」
「なぜさ、そのわけを言いたまえ」
「だって……ねえ、マチア、こわがってはいけないよ。きみはゆうべねむったかい。きみは見たかい」
「ぼくはねむらなかったよ」とかれは答えた。
「するときみは見た……」
「ああ残《のこ》らず」
「そうしてきみはそのわけがわかったか」
「あの品物が、代《だい》をはらったものでないことはわかるよ。だって、きみのお父さんは、あの男たち
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