れどちょうどそのとき一人の巡査《じゅんさ》が出て来た。書記がかれに話すと、巡査は自分のあとからついて来いと言った……わたしたちは巡査について、もっとせまい往来《おうらい》を歩いた。最後《さいご》にわたしたちはある広場に立ち止まった。
そのまん中には小さな池があった。
「これがレッド・ライオン・コートだ」と巡査《じゅんさ》は言った。なぜわたしたちはここで止まったのであろう。わたしの両親がこんな所に住んでいるものであろうか。巡査は一けんの木小屋のドアをたたいた。案内人《あんないにん》はかれに礼を言っていた。ではわたしたちは着いたのだ。マチアはわたしの手を取って、優《やさ》しくにぎりしめた。わたしもかれの手をにぎった。わたしたちはおたがいに了解《りょうかい》し合った。わたしはゆめの中をたどっているような気がしていると、ドアが開いて、わたしたちは勢《いきお》いよく火の燃《も》えている部屋《へや》にはいった。
その火の前の大きな竹のいすに、白いひげを生やした老人《ろうじん》がこしをかけていた。その頭にはすっぽり黒いずきんをかぶっていた。一つの机《つくえ》に向かい合って四十ばかりの男と、六つばかり年下の女がこしをかけていた。かの女はむかしはなかなか色が白かったらしいなごりをとどめていたが、いまでは色つやもぬけて、様子はそわそわ落ち着かなかった。それから四人子どもがいた――男の子が二人、女の子が二人――みんな女親に似《に》てなかなか色白であった。いちばん上の男の子は十一ばかりで、いちばん下の女の子は三つになるかならないようであった。
わたしは書記がその人になんと言っていたのかわからなかった。ただドリスコルという名前が耳に止まった。それはわたしの名字《みょうじ》だとさっき弁護士《べんごし》が言った。
みんなの目はマチアとわたしに向けられた。ただ赤んぼうの女の子だけがカピに目をつけていた。
「どちらがルミだ」と主人はフランス語でたずねた。
「ぼくです」とわたしは言って、一足前へ進んだ。
「では来て、お父さんにキッスをおし」
わたしはまえからこのしゅんかんのことをゆめのように考えては、きっともうそのときは幸福に胸《むね》がいっぱいになりながら、父親のうでにとびついてゆくだろうと想像《そうぞう》していた。けれどいまはまるでそんな感じは起こらなかった。でもわたしは進んで行って父親にキッスした。
「さあ」とかれは言った。「おまえのおじいさんも、お母さんも、弟や妹たちもいるよ」
わたしはまず母親の所へ行って、両うでをからだにかけた。かの女はわたしにキッスをさせた。けれどわたしの愛情《あいじょう》には報《むく》いてくれなかった。かの女はただわたしにわからないことを二言三言いった。
「おじいさんと握手《あくしゅ》をおし」と父親が言った。「そっとおいでよ。中気《ちゅうき》なのだから」
わたしはまた弟たちや、女の姉妹《きょうだい》と握手した。小さい子をうでにだき上げようとしたが、かの女はすっかりカピに気を取られていて、わたしをおしのけた。わたしはむなしくそここことめぐって歩いて、しまいには自分に腹立《はらだ》たしくなった。
なぜやっとのことで自分のうちを見つけたのに、すこしもうれしく感じることができないのか。わたしは父親に母親に、兄弟に、祖父《そふ》まである。わたしはこのしゅんかんをどんなに望《のぞ》んでいたろう。わたしもほかの子どもと同様に、自分のものと呼《よ》んで愛《あい》し愛されるうちを持つことを考えて、その喜《よろこ》びに気がくるいそうになったことがあった……それがいま自分の一家をふしぎそうにながめるばかりで、心のうちにはなにも言うことがない。一言《いちごん》の愛情《あいじょう》のことばが出て来ないのである。わたしはけものなのであろうか。わたしがもし両親をこんなびんぼうな小屋でなく、りっぱなごてんの中で見いだしたなら、もっと深い愛情が起こったであろうか。わたしはそれを考えてはずかしく思った。
そう思ってわたしはまた母親のそばへ寄《よ》って、両うでをかけてしたたかかの女のくちびるにキッスした。まさしくかの女はなんのつもりで、わたしがこんなことをするのかわからなかった。だからわたしのキッスを返そうとはしないで、きょときょとした様子でわたしの顔をながめた。それから夫《おっと》、すなわちわたしの父親のほうへ向いて肩《かた》をそびやかした。そしてなにかわたしにわからないことを言うと、夫はふふんと笑《わら》った。かの女の冷淡《れいたん》と、わたしの父親の嘲笑《ちょうしょう》とが深《ふか》くわたしの心を傷《きず》つけた。
わたしの愛情《あいじょう》はそんなふうにして受け取らるべきものでないとわたしは思った。
「あれはだれだ」と父親はマチアを指さしながら聞いた。わたしはかれに向かってマチアがいちばん仲《なか》のいい友だちであって、ずいぶん世話になっていることを話した。
「よしよし」と父親は言った。「あの子もうちにとまって、いなかを見物するがよかろう」
わたしはマチアの代わりに答えようとしたが、かれが先に口をきいた。
「それはぼくもけっこうです」とかれはさけんだ。
わたしの父親はなぜバルブレンがいっしょに来ないかとたずねた。わたしはかれにバルブレンの死んだことを告《つ》げた。かれはそれを聞いて喜《よろこ》んでいるようであった。かれはそのとおりを母親にくり返して言うと、かの女もやはり喜んでいるようであった。どうしてこの二人は、バルブレンの死んだことを喜《よろこ》んでいるのか。
「おまえは、わたしたちが十三年もおまえをたずねなかったことをふしぎに思っているかもしれない」と父親が言った。「しかも急にまた思い出したように出かけて行って、おまえを赤んぼうのじぶん拾った人を訪《たず》ねたのだからなあ」
わたしはかれに自分のたいへんおどろいたこと、それからそれまでの様子をくわしく聞きたいことを話した。
「では炉《ろ》ばたへおいで。残《のこ》らず話してあげるから」
わたしは肩《かた》から背嚢《はいのう》を下ろして、勧《すす》められたいすにこしをかけた。わたしがぬれてどろをかぶった足を炉にのばすと、祖父《そふ》はうるさい古ねこが来たというように、つんと向こうを向いてしまった。
「おかまいでない」と父親は言った。「あのじいさんはだれも火の前に来ることをいやがるのだ。けれどおまえ、寒ければかまわないよ」
わたしはこんなふうに老人《ろうじん》に対して口をきくのを聞いてびっくりした。わたしはいすの下に足を引っこめた。そのくらいな心づかいはしなければならなとわたしは考えた。
「おまえはこれからわたしの総領《そうりょう》むすこだ」と父親が言った。「母さんと結婚《けっこん》して一年たっておまえは生まれたのさ。わたしがいまの母さんと結婚《けっこん》するとき、そのまえからてっきり自分と結婚するものと思っていたある若《わか》いむすめがもう一人あった。それが結婚のできなかったくやしまぎれに、生まれて六|月《つき》目のおまえをぬすみ出して行った。わたしたちはほうぼうおまえを探《さが》したが、パリより遠くへはどうにも行けなかった。わたしたちはおまえが死んだものと思っていたが、つい三|月《つき》まえ、このぬすんだ女が死んでね。死にぎわにわたしに悪事を白状《はくじょう》したのだ。わたしはさっそくフランスへ出かけて行って、おまえが捨《す》てられた地方の警察《けいさつ》から、初《はじ》めておまえがシャヴァノン村のバルブレンという石屋のうちに養《やしな》われていることを聞いた。わたしはバルブレンを探《さが》して、今度その人からおまえがヴィタリスという旅の音楽師《おんがくし》にやとわれて行ったこと、フランスの町じゅうを歩き回っていることを聞いた。わたしはいつまでもあちらに逗留《とうりゅう》してもいられないので、バルブレンにいくらかお金をやって、おまえを探《さが》すようにたのんだ。そうしてわかりしだいグレッス・アンド・ガリーへそう言って寄《よ》こすようにした。わたしはあのバルブレンにここの住まいを知らせておかなかったというわけは、わたしたちは冬のあいだだけロンドンにいるので、あとはずっとイギリスとスコットランドの地方を旅行して歩いているのだからね。わたしたちの商売は旅商人《たびあきんど》なのだよ。まあそんなふうにして、十三年目におまえがわたしたちの所へ帰って来たというわけだ。おえはわたしたちのことばがわからないのだから、はじめはすこしきまりが悪いかもしれないが、じきにイギリス語を覚《おぼ》えて、兄弟たちと話ができるようになるだろう。それはもうわけなく慣れるよ」
そうだ、もちろんわたしはかれらに慣れなければならない。かれらはわたしの一家の者ではないか。それはりっぱな絹《きぬ》の産着《うぶぎ》で想像《そうぞう》したところと、目の前の事実とはこのとおりちがっていた。でもそれがなんだ。愛情《あいじょう》は富《とみ》よりもはるかに貴《たっと》い。わたしがあこがれていたのは金ではない、ただ愛情である。愛情が欲《ほ》しかったのだ。家族が、うちが、欲しかったのだ。
わたしの父親がこの話をしているあいだに、かれらは晩餐《ばんさん》の食卓《しょくたく》をこしらえた。焼《や》き肉《にく》の大きな一節《ひとふし》にばれいしょ[#「ばれいしょ」に傍点]をそえたものが、食卓のまん中に置《お》かれた。
「おまえたち、腹《はら》が減《へ》っているか」と父親がマチアとわたしに向かってたずねた。マチアは白い歯を見せた。
「うん、机《つくえ》におすわり」
しかし席《せき》に着くまえに、かれは祖父《そふ》の竹のゆりいすを食卓《しょくたく》に向けた。それから自分の席《せき》をしめながら、かれは焼《や》き肉《にく》を切り始めた。背中《せなか》を火に向けて、みんなに一つずつ、大きな切れといもを分けた。
わたしはいい境遇《きょうぐう》の中に育ったわけではないが、兄弟たちの食卓《しょくたく》の行儀《ぎょうぎ》がひどく悪いことは目についた。かれらはたいてい指で肉をつかんで食べて、がつがつ食い欠《か》いたり、父母の気がつかないようにしゃぶったりした。祖父《そふ》にいたっては自分の前ばかりに気を取られて、自由の利《き》く片手《かたて》でしじゅうさらから口へがつがつ運んでいた。そのふるえる指先から肉を落とすと、兄弟たちはどっと笑《わら》った。
わたしたちは食事がすんでから、その晩《ばん》は炉《ろ》ばたに集まってくらすことと思っていた。けれども父親は友だちが来るからと言って、わたしたちにねどこに行くことを命じた。マチアとわたしに手まねをして、かれはろうそくを持って先に立ちながら、食事をした部屋《へや》の外にあるうまやへ連《つ》れて言った。そのうまやには荷台まで大きな屋台|付《つき》馬車があった。かれはその一つのドアを開けると中に小さな寝台《ねだい》二つ重なって置《お》いてあるのを見た。
「ほら、これがおまえたちのねどこだ」とかれは言った。「まあ、おやすみ」
これがわたしの家族からこの夜|初《はじ》めてわたしの受けた歓迎《かんげい》であった。
りっぱすぎる父母
父親はろうそくを置《お》いて行ったが、車には外から錠《じょう》をさした。わたしたちはいつものようにおしゃべりはしないで、できるだけ早くねどこの中へもぐった。
「おやすみ、ルミ」とマチアが言った。
「おやすみ」
マチアはわたしと同じように、もうなにもものを言いたがらなかった。わたしはかれがだまっていてくれるのがうれしかった。わたしたちはろうそくをふき消したが、とてもねむれそうには思えなかった。わたしはせま苦しい寝台《ねだい》の中で、たびたび起き返っては、これまでの出来事を思いめぐらした。わたしは上の寝台にいるマチアがやはり落ち着かずに、しじゅうねがえりばかりしている音を聞いた。かれもやはりわたしと同様、ねむることができなかった。
いく時間か過《す》ぎた。
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