ました」
こう言ってわたしは背嚢《はいのう》から人形を出して、リーズのおとなりのいすにのせた。そのときのかの女の目つきをわたしはけっして忘《わす》れることはできない。
バルブレン
パリへ行くのを急ぎさえしなかったら、わたしはリーズの所にしばらく足を止めていたであろう。わたしたちはおたがいにあれほどたくさん言うことがあって、しかもおたがいのことばではずいぶんわずかしか言えなかった。かの女は手まねでおじさんとおばさんがどんなに優《やさ》しく自分にしてくれるか、船に乗るのがどんなにおもしろいかということを話した。わたしはかの女にアルキシーの働《はたら》いている鉱山《こうざん》で危《あぶ》なく死にかけたこと、わたしのうちの者がわたしを探《さが》していることを話した。それがためパリへも急いで行かなければならないし、エチエネットの所へ会いに行くことができなくなったことを話した。
もちろん話は、たいていお金持ちらしいわたしのうちのことであった。そうしてお金ができたときに、わたしのしようと思ういろいろなことであった。わたしはかの女の父親と、兄《あに》さんや姉《あね》さんたちをとりわけかの女を幸福にしてやりたいと思った。リーズはマチアとちがってそれを喜《よろこ》んでいた。かの女はお金さえあれば、たいへん幸福になるにちがいないと信《しん》じきっていた。だってかの女の父親はただ借金《しゃっきん》を返すお金さえあったなら、あんな不幸《ふこう》な目に会わなかったにちがいないではないか。
わたしたちはみんなで――リーズとマチアとわたしと三人に、人形とカピまでお供《とも》に連《つ》れて、長い散歩《さんぽ》をした。わたしはこの五、六日ひじょうに幸福であった。夕方まだあまりしめっぽくならないうちは家の前に、それからきりが深くなってからは炉《ろ》の前にすわった。わたしはハープをひいて、マチアはヴァイオリンかコルネをやった。リーズはハープを好《す》いていたので、わたしはたいへん得意《とくい》になった。時間がたって、わたしたちが別々《べつべつ》にねどこへ行かなければならないときになると、わたしは、かの女のためにナポリ小唄《こうた》をひいて歌った。
でもわたしたちはまもなく別《わか》れて別《べつ》の道を行かなければならなかった。わたしはかの女にじき帰って来ると言った。かの女に残《のこ》したわたしの最後《さいご》のことばは、
「ぼくは今度来るとき、四頭引きの馬車で来て、リーズちゃんを連《つ》れて行くよ」というのであった。
そうしてかの女もわたしを信《しん》じきって、あたかもむちをふるって馬を追うような身ぶりをした。かの女もまたわたしと同様に、わたしの富《とみ》とわたしの馬や馬車を目にうかべることができるのであった。
わたしはパリへ行くのでいっしょうけんめいであったから、マチアのために食べ物を買うお金を集めるのに、ときどき足を止めるだけであった。もう雌牛《めうし》を買うことも、人形を買うこともいらなかった。お金持ちの両親の所へお金を持って行ってやる必要《ひつよう》もなかった。
「取れるだけは取って行こうよ」とマチアは言って、無理《むり》にわたしがハープを肩《かた》からはずさなければならないようにした。「だってパリへ行っても、すぐにバルブレンが見つかるかどうだかわからないからねえ。そうなると、きみはあの晩《ばん》、空腹《くうふく》で死にそうになったことを忘《わす》れていると言われてもしかたがないよ」
「おお、ぼくは忘れはしない」とわたしは軽く言った。「でもきっとあの人は見つかるよ。待っていたまえ」
「ああ、でもあの日、きみがぼくを見つけたとき、お寺のかべにどんなふうによりかかっていたか、ぼくは忘《わす》れない。ああ、ぼくはパリで飢《う》えて苦しむのだけはもうつくづくいやだよ」
「ぼくの両親のうちへ行けば、その代わりにたんとごちそうが食べられるよ」とわたしは答えた。
「うん。まあ、なんでも、もう一ぴき雌牛《めうし》を買うつもりで働《はたら》こうよ」とマチアは聞かなかった。
これはいかにももっともな忠告《ちゅうこく》であったが、わたしはもうこれまでと同じに精神《せいしん》を打ちこんで歌を歌わなくなったことを白状《はくじょう》しなければならない。バルブレンのおっかあのために雌牛《めうし》を買い、またはリーズのために人形を買うお金を取るということは、まるっきりそれとはちがったことであった。
「きみはお金持ちになったら、どんなになまけ者になるだろう」とマチアは言った。だんだんパリに近くなればなるほど、ますますわたしはゆかいになった。そうしてマチアはますます陰気《いんき》になった。
わたしたちはどんなにしても別《わか》れないと言いきっているのに、どうしてまだかれが悲しそうにしているのか、わたしはわからなかった。とうとうわたしたちはパリの大門に着いたとき、かれはいまでもどんなにガロフォリをこわがっているか、もしあの男に会ったらまたつかまえられるにちがいないという話をした。
「きみはバルブレンをどんなにこわがっていたか。それを思ったら、どんなにぼくがガロフォリをこわがっているかわかるだろう。あの男が牢屋《ろうや》から出ていればきっとぼくをつかまえるにちがいない。ああ、この情《なさ》けない頭、かわいそうな頭、あの男はどんなにそれをひどくぶったことだろう。そうすればあの男はきっとぼくたちを引き分けてしまう。むろんあの人はきみをも子分にして使いたいであろうが、それをきみには無理《むり》にも強《し》いることができないが、ぽくに対してはそうする権利《けんり》があるのだ。あの人はぼくのおじだからね」
わたしはガロフォリのことはなにも考えていなかった。
わたしはマチアと相談《そうだん》をして、バルブレンのおっかあがそこへ行けば、バルブレンを見つけるかもしれないと言ったいろいろの場所へ行くことにした。それからわたしはリュー・ムッフタールへ行こう。それからノートル・ダーム寺の前でわたしたちは会うことにしよう。
わたしたちはもう二度と会うことがないようなさわぎをして別《わか》れた。わたしはこちらの方角へ、マチアは向こうの方角へ向かった。わたしはバルブレンが先《せん》に住んでいた場所の名をいろいろ紙に書きつけておいた。それを一つ、一つ、訪《たず》ねて行った。ある木賃宿《きちんやど》では、かれは四年前そこにいたが、それからはいなくなったと言った。その宿屋《やどや》の亭主《ていしゅ》は、あいつには一週間の宿料《しゅくりょう》の貸《か》しがあるから、あの悪党《あくとう》、どうかしてつかまえてやりたいと言っていた。
わたしはすっかり気落ちがしていた。もうわたしの訪《たず》ねる所は一か所しか残《のこ》っていなかった。それはあの料理屋《りょうりや》であった。そのうちをやっている男は、もう長いあいだあの男の顔を見ないといったが、ちょうど食卓《しょくたく》にすわって食べていたお客の一人が声をかけて、うん、あの男なら、近ごろオテル・デュ・カンタルにとまっていたと言ってくれた。
オテル・デュ・カンタルへ行くまえにわたしはガロフォリのうちへ行って、あの男の様子を見てマチアになにかおみやげを持って帰りたいと思った。そこの裏庭《うらにわ》へ行くと、初《はじ》めて行ったときと同様、あのじいさんがドアの外へきたないぼろをぶら下げているのを見た。
じいさんは返事はしないで、わたしの顔を見て、それからせきをし始めた。その様子で、わたしはガロフォリについてなんでも知っていることをよく向こうにわからせないうちは、この男からなにも聞き出すことができないことをさとった。
「おまえさん、あの人がまだ刑務所《けいむしょ》にはいっているというのではあるまい」とわたしはさけんだ。「だってあの人はもうよほどまえに出て来たはずではないか」
「ええ、あの人はまた三か月食らったのだよ」
ガロフォリがまた三か月刑務所にはいっている。マチアはほっと息をつくであろう。
わたしはできるだけ早く、このおそろしい路地《ろじ》をぬけ出して、オテル・デュ・カンタルへ急いで行った。わたしは希望《きぼう》と歓喜《かんき》が胸《むね》にいっぱいたたみこまれて、もうすっかりバルブレンのことをよく思いたい気になっていた。バルブレンという男がいなかったなら、わたしは赤んぼうのとき、寒さと飢《う》えのために死んでいたかもしれなかった。なるほどあの男はわたしをバルブレンのおっかあの手からはなして、よその人の手に売りわたしたにはちがいなかった。でもあのときはあの人もわたしに対してべつに愛情《あいじょう》もなかったし、たぶんお金のためにいやいやそれをしたのかしれなかった。とにかくわたしが両親を見つけるまでになったのは、あの人のおかげであった。だからもう、あの人に対してけっして悪意を持ってはならないはずであった。
わたしはまもなくオテル・デュ・カンタルに着いた、オテル(旅館)というのは名ばかりのひどい木賃宿《きちんやど》であった。
「バルブレンという人に会いたいのです。シャヴァノン村から来た人です」とわたしは写字机《しゃじづくえ》に向かっていたきたならしいばあさんに向かって言った。かの女は、ひどいつんぼで、いま言ったことをもう一度くり返してくれと言った。
「バルブレンという人を知っていますか」とわたしはどなった。
そうするとかの女は大あわてにあわてて両手を空へ上げた。その勢《いきお》いがえらかったので、ひざに乗っかっていたねこが、びっくりしてとび下りた。
「おやおや、おやおや」とかの女はさけんだ。「おまえさんが、あの人のたずねていなすった子どもかい」
「おお、あなた、知っているの」とわたしはむちゅうになってさけんだ。「ではバルブレンさんは」
「死にましたよ」と、かの女は簡潔《かんけつ》に答えた。わたしはハープにひょろひょろとなった。
「なに、死んだ」とわたしはかの女に聞こえるほどの大きな声でさけんだ。わたしはくらくらとした。いまはどうして両親を見つけよう。
「おまえさんがみんなの探《さが》していなさる子どもだね。そうだ、おまえさんにちがいない」とばあさんはまた言った。
「ええ、ええ、ぼくがその子です。ぼくのうちはどこです。わかりませんか」
「わたしはいま言っただけしか知りませんよ」
「バルブレンさんが、わたしの両親のことをなんとか言っていませんでしたか。おお、話してください」とわたしはせがむように言った。
かの女は天に向かって、高く両うでを上げた。
「ねえ、話してください。なんです。それは」
このしゅんかん、女中のようなふうをした女が出て来た。オテル・デュ・カンタルの女主人はかの女のほうへ向いた。
「たいへんなことではないか。この子どもさんは、この若《わか》だんなは、バルブレンさんがあれほど言っていなすったご当人だとよ」
「でもバルブレンにぼくのうちのことをあなたに話しませんでしたか」とわたしはたずねた。
「それは聞きましたよ――百度もね。なんでもたいへん、お金持ちのうちだそうですねえ、若《わか》だんな」
「それでどこに住んでいるのです。名前はなんというのです」
「それについてはバルブレンさんは、なにも話をしませんでしたよ。あの人はきみょうな人でしたよ。あの人は自分一人でお礼を残《のこ》らずもらうつもりでいたのですよ」
「なにか書き物を置《お》いては行きませんでしたか」
「いいえ、ただあの人がシャヴァノン村から来たということを書いたものだけです。その紙でも見つけなかったら、あの人のおかみさんの所へ死んだ知らせを出すこともできないところでしたよ」
「まあ、あなたは知らせてやりましたか」
「むろん、どうしてさ」
わたしはこのばあさんから、なにも知ることができなかった。わたしはしょんぼり戸口のほうへ向かった。
「おまえさん、どこへ行きなさる」とかの女はたずねた。
「友だちの所へ帰ります」
「ははあ、お友だちがありますか。それはパリにい
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