れでわたしの考えが決まった。
「二百十フランで買おう」わたしは事件《じけん》が解決《かいけつ》したと思って、そう言いながら牛のはづなを取ろうとした。
「おまえさん、つなを持って来たか」と百姓《ひゃくしょう》は言った。「わしは牛は売るがはづなは売らないぞ」こう言ってかれは、せっかくおなじみになったのだから、特別《とくべつ》ではづなを六十スーで売ってやると言った。はづなは入り用であったから、もうあとそれでわたしのふところには二十スーしか残《のこ》らないと思いながら、六十スー出した。それで二百十三フランを数えて、それから手を出そうとした。
「おまえさん、なわを持っているか」と百姓《ひゃくしょう》は言った。「わしははづなは売っても、なわは売らないぞ」
それで最後《さいご》の二十スーも消えてしまった。
これで雌牛《めうし》はとうとうわたしたちの手にわたった。けれどわたしたちは牛に食べ物を買ってやるにも、自分が食べるにも、一スーの金ももう残《のこ》らなかった。獣医《じゅうい》にはていねいに世話になった礼を言って、手をにぎってさようならを言った。そして宿屋《やどや》に帰ると、雌牛《めうし》をうまやにつないだ。
きょうは町に市場があるので、ひどくにぎわって、ほうぼうから人が集まってもいたから、マチアとわたしは別《べつ》べつに出かけて、いくらお金ができるか、やってみることに相談《そうだん》を決めた。
その夕方、マチアは四フラン。わたしは三フランと五十サンチーム持って帰った。七フラン五十サンチームのお金で、わたしたちはまたお金持ちになった。女中にたのんで雌牛《めうし》の乳《ちち》をしぼってもらったので、夕食には牛乳《ぎゅうにゅう》があった。これほどうまいごちそうを、わたしたちは味わったことはなかった。わたしたちは乳《ちち》のいいのにめちゃめちゃにのぼせ上がってしまって、食事がすむとさっそくうまやへ出かけて、わたしたちの宝物《たからもの》をだいてやりに行った。雌牛《めうし》はいかにも優《やさ》しくしてもらったのがうれしいらしく、その返礼にわたしたちの顔をなめた。
わたしたちは雌牛《めうし》をキッスしたり、雌牛からキッスされて感じるゆかいさを人一|倍《ばい》感じるわけがあった。それにはマチアもわたしも、これまでけっして人からちやほやされすぎたことがなかったということを記憶《きおく》してもらわなければならない。わたしたちの生まれ合わせは、ほかのあまやかされて育《そだ》った子どもたちが、あんまり多いキッスにへいこうしてそれをさけなければならないのとは、大ちがいであった。
そのあくる朝、わたしたちは太陽といっしょに起きて、シャヴァノン村に向かって出発した。わたしはマチアがあたえてくれた助力に、どれほど感謝《かんしゃ》していたであろう。かれなしには、わたしはけっしてこんな大金をためることはできなかった。わたしはかれに雌牛《めうし》を引いて行く楽しみをあたえようと思った。そこでかれはたいへん得意《とくい》らしく雌牛のつなを引いて行くと、わたしはあとからついて行った。かの女はひじょうにりっぱに見えた。それは大様《おおよう》にすこしゆれながら、自分で自分の値打《ねう》ちを知っているけものらしく歩いていた。わたしは雌牛をくたびれさせないようにしたいと思ったので、その晩《ばん》おそくシャヴァノンに着くことはよして、それよりもあしたの朝早く行く計画にした。ところがそのうちにこういうことが起こった。
わたしはその晩《ばん》、むかし初《はじ》めてヴィタリス親方ととまって、カピが悲しそうなわたしを見てそばへ来てねてくれた、あの村にとまることにした。
この村にはいるまえにわたしたちはきれいな青い草の生えた所に来た。荷物をほうり出してわたしたちはそこで休むことにした。わたしたちは雌牛《めうし》をみぞの中に放してやった。初《はじ》めはなわで引いていようと思ったが、この雌牛はたいへんすなおで、草を食べることによく慣《な》れているようであったので、わたしはしばらくつなを牛の角に巻《ま》きつけて、そのそばにこしをかけて晩飯《ばんめし》を食べ始めた。もちろんわたしたちは雌牛よりずっとまえに食べてしまった。そこでさんざん雌牛を感心してながめたあとで、これからなにをしようというあてもないので、わたしたちはしばらく遊んでいた。それがすんでも牛はまだ食べていた。わたしがそばへ行くと、雌牛《めうし》は草の中に固《かた》く首をつっこんでいて、まだ腹《はら》が減《へ》っているというようであった。
「すこし待ってやりたまえ」とマチアが言った。
「だってきみ、雌牛は一日だって食べているんだぜ」とわたしは答えた。
「まあ、しばらく待ってやりたまえ」
わたしたちはもう背嚢《はいのう》と楽器《がっき》をしょったが、まだ牛はやめなかった。
「ぼくは牛のためにコルネをふいてやる」と、じっとしていられないマチアが言った。「ガッソーの曲馬には、音楽の好《す》きな雌牛《めうし》がいたよ」
かれはゆかいなマーチをふき始めた。
初《はじ》めの音で、雌牛は頭を上げた。するととつぜんわたしがかれの角にとびかかってつなをおさえるまもないうちに、かの女はとっとっとかけ出した。わたしたちはいっしょうけんめい、止まれ、止まれと呼《よ》びながら、あとから追っかけた。わたしはカピに牛を止めるように声をかけた。だがだれでも万能《ばんのう》ということはできない。牛飼《うしか》い、馬飼いの犬なら鼻づらにとびついたであろうが、カピは牛の足にとびついた。
牛はとうとうわたしたちが通って来た最後《さいご》の村までかけもどった。道はまっすぐであったから、遠方でもその姿《すがた》を見ることができた。おおぜいの人が通り道をふさいでつかまえようとしているのも見えた。わたしたちは牛を見失《みうしな》う気づかいはないと思ったので、すこし速力《そくりょく》をゆるめた。こうなるとしなければならないことは、牛を止めてくれた人たちから、それを受け取ることであろう。
わたしたちがそこへ着いたとき、おおぜいの人間がもう集まっていた。そしてわたしたとが考えていたように、すぐに牛をわたしてはくれないで、どうして牛を手に入れたか、どこから牛をとって来たかをたずねた。
かれらはわたしたちが牛をぬすんだこと、そして牛は持ち主の所へかけて帰ろうとしたのだということを主張《しゅちょう》いた。かれらはほんとうのことがわかるまで、わたしたちは牢屋《ろうや》へ行かなければならないと宣告《せんこく》した。牢屋と言われたばかりで、わたしは青くなって、どもり始めた。おまけにさんざんかけて息が切れていたので、ひと言もものが言えなかった。そこへちょうど巡査《じゅんさ》がやって来た。二言三言で全体の事件《じけん》が説明《せつめい》された。それを聞いてもいっこうはっきりしないことであったから、とにかくかれは雌牛《めうし》を預《あず》かること、それがわたしたちのものだというあかしの立つまで、わたしたちを拘留《こうりゅう》することに決めた。村じゅうが行列を作って、わたしたちのあとに続《つづ》いて、ちょうど警察署《けいさつしょ》をかねていた町の役場までつながった。やじうまがわたしたちをつついたり白い歯を見せたり、ありったけひどい名前で呼《よ》んだりした。巡査《じゅんさ》が保護《ほご》してくれなかったら、かれらはひどい大罪人《だいざいにん》でもあるように、わたしたちを私刑《しけい》に行なったかもしれなかった。
役場を預《あず》かっている人で、典獄《てんごく》(刑務所の役人)と代理執行官《だいりしっこうかん》をかねていた人は、わたしたちを牢《ろう》に入れることを好《この》まなかった。わたしはなんという親切な人だろうと思ったけれど、巡査《じゅんさ》はあくまでわたしたちを拘留《こうりゅう》しなけばならないと言った。そこで典獄は二重になっているドアに、大きなかぎをつっこんで、わたしたちを牢《ろう》に入れてしまった。中へはいってはじめて、なぜ典獄《てんごく》がわたしたちを中へ入れることをおっくうがったかそのわけがわかった。かれはねぎをこの中へ干《ほ》しておいた。それがどのこしかけにも置《お》いてあった。かれはそれをみんなすみっこに積《つ》み重《かさ》ねた。わたしたちはからだじゅう捜索《そうさく》されて、金もマッチもナイフも取り上げられた。それからその晩《ばん》は閉《と》じこめられることになった。
「ぼくをぶってくれたまえ」とわたしたちだけになると、マチアが情《なさ》けなさそうに言いだした。
「ぼくの耳をぶつか、どうでも気のすむようにしてくれたまえ」
「ぼくも雌牛《めうし》のそばで、コルネをふかせるなんて、大きなばかだった」とわたしも答えた。
「ああ、ぼくはそれをずいぶん悪いことに思っている」かれはおろおろ声で言った。「かわいそうな雌牛、王子さまの雌牛」とかれは泣《な》き始めた。
そのときわたしはかれに、これはそんなにむずかしいことではないわけを話してなぐさめようとした。
「ぼくたちは雌牛《めうし》を買ったあかしを立《た》てればいいのだ。ユッセルの獣医《じゅうい》の所へ使いをやればいい……あの人が証人《しょうにん》になってくれる」
「でもそれを買った金までもぬすんだものだと言われたら」とかれは言った。「わたしたちはそれをもうけた証拠《しょうこ》がない。運悪くゆくと、みんなはどこまでも罪人《ざいにん》だと思うだろう」
これはまったくであった。
それにさしあたりだれか牛を養《やしな》ってくれるだろうかと、マチアががっかりして言った。
「まあ、みんなが牛は養っていてくれるだろうよ」
「あしたたずねられたら、なんと言うつもりだ」とマチアが聞いた。
「ほんとうのことを言うさ」
「そうなれば、あの人たちはきみをバルブレンの手にわたすだろう。バルブレンのおっかあが一人きりだったら、あの人に向かってわたしたちの言うことがうそかどうか聞こうとする。そうなればもうあの人の不意《ふい》を驚《おどろ》かすことができなくなる」
「おやおや」
「きみはバルブレンのおっかあとは長いあいだ別《わか》れている。あの人がもう死んでしまって、いないとも限《かぎ》らない」
このおそろしい考えだけはついぞこれまでわたしも起こしたことがなかった。でもヴィタリス老人《ろうじん》も死んだ……わたしはかの女までも亡《な》くしたかもわからない、という考えが、どうしてこれまで起こらなかったろう。
「なぜきみはそれを先に言わなかった」とわたしは言った。
「だってつごうのいいじぶんには、そんな考えは起こらなかったからさ。ぼくはきみの雌牛《めうし》をバルブレンのおっかあにおくるという考えでずいぶんうれしくなっていた。あの人がどんなに喜《よろこ》ぶだろうと思うと、死んでいるかもしれないなんていう考えはてんで起こらなかった」
こう何事につけても悪いはうばかり見るのは、この暗い部屋《へや》のせいにちがいなかった。
「それから」とマチアはとび上がって、両うでをふり上げながら言った。「バルブレンのおっかあが死んで、あのこわいバルブレンのほうが生きていて、そこへぼくたちが行ったら、きっと雌牛《めうし》を取り上げて自分のものにしてしまうだろう」
午後おそくなって、ドアが開かれ、白いひげを生やした老紳士《ろうしんし》が拘留所《こうりゅうしょ》にはいって来た。
「こら悪党《あくとう》ども、このかたに答えするのだぞ」といっしょについて来た典獄《てんごく》が言った。
「それでよろしい」と紳士《しんし》は言った。この人は検事《けんじ》であった。「わしは自分でこの子を尋問《じんもん》する」
こう言ってかれは指でわたしをさし示《しめ》した。
「きみはもう一人の子を預《あず》かっていてもらいたい。そのほうはあとで調べるから」
わたしは検事《けんじ》と二人になった。じっとわたしの顔を見つめながらかれは、わたしが雌牛《めうし》をぬすんだとがで告発《こくはつ》さ
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