正気は失《うしな》われかけていた。ちょうどきわどいところであった。けれどまだ運ばれて行くという意識《いしき》だけはあった。わたしは救助員《きゅうじょいん》たちが水をくぐって出て行ったあとで、毛布《もうふ》に包《つつ》まれた。わたしは目を閉《と》じた。
また目を開くと昼の光であった。わたしたちは大空の下に出たのだ。同時にだれかとびついて来た。それはカピであった。わたしが技師《ぎし》のうでにだかれていると、ただ一とびでかれはとびかかって来た。かれはわたしの顔を二度も三度もなめた。そのときわたしの手を取る者があった。わたしはキッスを感じた。それからかすかな声でつぶやくのを聞いた。
「ルミ。おお、ルミ」
それはマチアであった。わたしはかれににっこりしかけた。それからそこらを見回した。
おおぜいの人がまっすぐに、二列になってならんでいた。それはだまり返った群集《ぐんしゅう》であった。さけび声を立てて、わたしたちを興奮《こうふん》させてはならないと言つけられたので、かれらはだまっていたが、この顔つきはくちびるの代わりにものを言っていた。いちばん前の列に、なんだか白い法衣《ころも》と錦襴《きんらん》のかざりが日にかがやいているのをわたしは見た。これはぼうさんたちで、鉱山《こうざん》の口へ来て、わたしたちの救助《きゅうじょ》のためにおいのりをしてくれたのであった。わたしたちが運び出されると、かれらは砂《すな》の中にひざまでうずめてすわっていた。
二十本のうでがわたしを受け取ろうとしてさし延《の》べられた。けれど技師《ぎし》はわたしを放さなかった。かれはわたしを事務所《じむしょ》へ連《つ》れて行った。そこにはわたしたちをむかえる寝台《ねだい》ができていた。
二日ののち、わたしはマチアと、アルキシーと、カピを連《つ》れて、村の往来《おうらい》を歩いていた。そばへ来て、目になみだをうかべながら、わたしの手をにぎる者もあった。顔をそむけて行く者もあった。そういう人たちは喪服《もふく》をつけていた。かれらはこの親もない家もない子が救《すく》われたのに、なぜかれらの父親やむすこが、まだ鉱山《こうざん》の中でいたましい死がいになって、暗い水の中をただよっているのであろうか、それを悲しく思っていたのであろう。
音楽の先生
坑《こう》の中にいるあいだに、わたしはお友だちができた。あのおそろしい経験《けいけん》をおたがいにし合った仲間《なかま》が一つに結《むす》ばれた。ガスパールおじさんと「先生」は、とりわけたいそうわたしが好《す》きになった。
技師《ぎし》も災難《さいなん》をともにはしなかったが、自分が骨《ほね》を折《お》って危《あや》ういところを救《すく》い出した子どもということで、わたしに親しんだ。かれはわたしをそのうちへ招待《しょうたい》した。わたしはかれのむすめに坑《こう》の中で起こったことを残《のこ》らず話してやらなければならなかった。
だれもわたしをヴァルセへ引き止めたがった。技師《ぎし》は、わたしが望《のぞ》むなら、事務所《じむしょ》で仕事を見つけてやると言った。ガスパールおじさんも鉱山《こうざん》でしじゅうの仕事をこしらえようと言った。かれはわたしが坑《こう》へ帰ることがごく自然《しぜん》なように思っているらしかった。かれ自身はもうまもなく、毎日《まいにち》危険《きけん》をおかすことに慣《な》れた人の見せるようなむとんちゃくさで、また坑《こう》へはいって行った。でもわたしはもうそこへ帰って行く気はしなかった。鉱山《こうざん》はひじょうにおもしろかった。それを見たということはたいへんゆかいであったけれど、そこへ帰って行こうとはゆめにも思わなかった。
それよりもわたしはいつも頭の上に大空を、それは雪をいっぱい持った大空でも、いただいていたかった。野外の生活がわたしにはずっと性《しょう》に合っていた。そう言ってわたしはかれらに話した。だれもおどろいていた。とりわけ「先生」がおどろいていた。カロリーはとちゅうで出会うと、わたしを「やあ、ひよっこ」と呼《よ》んだ。
みんながわたしをヴァルセに止めたがって、いろいろ勧《すす》めているあいだ、マチアはひどくぼんやりして考えこむようになった。そのわけをたずねると、かれはいつも、なになんでもないと打ち消していた。
いよいよ三日のうちにここを立つことをわたしがかれに話したとき、かれは初《はじ》めてこのごろふさいでいたわけを語った。
「ああ、ぼくはきみがここにこのまま残《のこ》って、ぼくを捨《す》てるだろうと思ったから」とかれは言った。
わたしはかれをちょいと打った。それはわたしを疑《うたが》わないように、訓戒《くんかい》してやるためであった。
マチアはいまではもう自分で自分の身を立てることができるようになっていた。わたしが鉱山《こうざん》にはいっていたあいだ、かれは十八フランもうけた。かれはこのたいそうな金をわたしにわたすとき、ひどく得意《とくい》であった。なぜならわたしたちがまえから持っている百二十八フランに加《くわ》えれば、残《のこ》らずで百四十六フランになるからであった。例《れい》の「王子さまの雌牛《めうし》」はもう四フランあれば買えるのであった。
前へ進め、子どもたち。
荷物《にもつ》を背中《せなか》へ結《むす》びつけてわたしたちは出発した。カピが喜《よろこ》んで、ほえて、砂《すな》の中を転《ころ》げていた。
マチアは、雌牛《めうし》を買うまでにもう少しお金《かね》をこしらえようと言った。金が多いだけいい雌牛が買えるし、雌牛がよければ、よけいバルブレンのおっかあがうれしがるであろう。
パリからヴァルセに来るとちゅう、わたしはマチアに読書と、初歩《しょほ》の楽典《がくてん》を授《さず》け始めた。この課業《かぎょう》を今度も続《つづ》けてした。わたしもむろんいい先生ではなかったし、マチアもあまりいい生徒《せいと》であるはずがなかった。この課業は成功《せいこう》ではなかった。たびたびわたしはおこって、ばたんと本を閉《と》じながら、かれに、「おまえはばかだ」と言った。
「それはほんとうだよ」とかれはにこにこしながら言った。「ぼくの頭はぶつとやわらかいそうだ。ガロフォリがそれを見つけたよ」
こう言われると、どうおこっていられよう。わたしは笑《わら》いだしてまた課業《かぎょう》を続《つづ》けた。けれどもほかのことはとにかく、音楽となると、初《はじ》めからかれはびっくりするような進歩をした。おしまいにはもうわたしの手におえないことを白状《はくじょう》しなければならなくなったほど、かれはむずかしい質問《しつもん》を出して、わたしを当惑《とうわく》させた。でもこの白状はわたしをひどくしょげさした。わたしはひじょうに高慢《こうまん》な先生であった。だから生徒《せいと》の質問に答えることができないのが情《なさ》けなかった。しかもかれはけっしてわたしを容赦《ようしゃ》しはしなかった。
「ぼくはほんとうの先生に教わろう」とかれは言った。「そうしてぼく、質問を残《のこ》らず聞いて来よう」
「なぜ、きみはぼくが鉱山《こうざん》にいるうち、ほんとうの先生から教えてもらわなかった」
「でもぼくはその先生に、きみの金からお礼を出さなければならなかったから」
わたしはマチアが、そんなふうに「ほんとうの先生」などと言うのがしゃくにさわっていた。けれどわたしのばかな虚栄心《きょえいしん》はかれのいまのことばを聞くと、すうとけむりのように消えて行かなければならなかった。
「きみは人がいいなあ」とわたしは言った。「ぼくの金はきみの金だ。やはりきみがもうけてくれたのだ。きみのほうがたいていぼくよりもよけいもうけている。きみは好《す》きなだけけいこを受けるがいい。ぼくもいっしょに習うから」
さてその先生は、われわれの要求《ようきゅう》する「ほんとうの先生」は、いなかにはいなかった。それは大きな町にだけいるようなりっぱな芸術家《げいじゅつか》であった。地図を開けてみて、このつぎの大きな町は、マンデであることがわかった。
わたしたちがマンデに着いたのは、もう夜であった。つかれきっていたので、その晩《ばん》はけいこには行かれないと決めた。わたしたちは宿屋《やどや》のおかみさんに、この町にいい音楽の先生はいないかと聞いた。かの女はわたしたちがこんな質問《しつもん》を出したので、ずいぶんびっくりしたと言った。わたしたちはエピナッソー氏《し》を知っているべきはずであった。
「ぼくたちは遠方から来たのです」とわたしは言った。
「ではずいぶん遠方から来たんですね、きっと」
「イタリアから」とマチアが答えた。
そう聞くと、かの女はもうおどろかなかった。なるはどそんな遠方から来たのでは、エピナッソー先生のことを聞かなかったかもしれないと言った。
「その先生はたいへんおいそがしいんですか」とわたしはたずねた。そういう名高い音楽家では、わたしたちのようなちっぽけなこぞう二人に、たった一度のけいこなどめんどうくさがってしてくれまいと気づかった。
「ええ、ええ、おいそがしいですとも。おいそがしくなくってどうしましょう」
「あしたの朝、先生が会ってくださるでしょうか」
「それはお金さえ持って行けば、だれにでもお会いになりますよ……むろん」
わたしたちはもちろん、それはわかっていた。
その晩《ばん》ねに行くまえ、わたしたちはあしたこの有名な先生にたずねようと思っている質問《しつもん》の箇条《かじょう》を相談《そうだん》した。マチアは求《もと》めていた「ほんとうの音楽の先生」を見つけたので、うれしがってこおどりしていた。
つぎの朝、わたしたちは――マチアはヴァイオリン、わたしはハープと、てんでんの楽器《がっき》を持って、エピナッソー先生を訪《たず》ねて行くことにした。わたしたちはそういう有名な人を訪《たず》ねるのに犬を連《つ》れて行く法《ほう》はないと思ったから、カピは置《お》いて行くことにして、宿屋《やどや》の馬小屋につないでおいた。
さて宿屋のおかみさんが、先生の住まいだと教えてくれたうちの前へ来たとき、わたしたちは、おやこれはまちがったと思った。なぜなら、そのうちの前には小さな真《しん》ちゅうの看板《かんばん》が二|枚《まい》ぶら下がっていて、それがどうしたって音楽の先生の看板ではなかった。そのうちはどう見ても床屋《とこや》の店のていさいであった。わたしたちは通りかかった一人の人に向かって、エピナッソー先生のうちを教えてくださいとたのんだ。
「それそこだよ」とその男は言って、床屋の店を指さした。
だがつまり先生が床屋《とこや》と同居《どうきょ》していないはずもなかった。わたしたちは中へはいった。店ははっきり二つに仕切られていた。右のほうにははけ[#「はけ」に傍点]だの、くし[#「くし」に傍点]だの、クリームのつぼだの、理髪用《りはつよう》のいすだのが置《お》いてあった。左のほうのかべやたなにはヴァイオリンだの、コルネだの、トロンボンだの、いろいろの楽器《がっき》がかけてあった。
「エピナッソーさんはこちらですか」とマチアがたずねた。
小鳥のように、ちょこちょこした、気の利《き》いた小男が、一人の男の顔をそっていたが、「わたしがエピナッソーだよ」と答えた。
わたしはマチアに目配せをして、床屋《とこや》さんの音楽家なんか、こちらの求《もと》めている人ではない。こんな人に相談《そうだん》をしても、せっかくの金がむだになるだけだという意味を飲みこませようとしたが、かれは知らん顔をして、もったいぶった様子で一つのいすにこしをかけた。
「そのかたがそれたら、ぼくの髪《かみ》をかってもらえますか」とかれはたずねた。
「ああ、よろしいとも。なんなら、顔もそってあげましょう」
「ありがとう」とマチアが答えた。わたしはかれのあつかましいのに、どぎもをぬかれた。かれは目のおくからわたしをのぞいて、「そんな困《こま》
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