とかれはやがて静《しず》かに言った。「ランプの灯《ひ》を見なさい。ずいぶん心細くなっているではないか」
「魔法使《まほうつか》いみたいなことを言うな。なんのわけだ、言ってみろ」
「おれは魔法使《まほうつか》いをやろうというのではない。だがおぼれて死ぬことはないだろう。おれたちは気室の中にいるのだ。その圧搾空気《あっさくくうき》で水が上がって来ないのだ。出口のないこの竪坑《たてこう》はちょうど潜水鐘《せんすいしょう》(潜水器)が潜水夫《せんすいふ》の役に立つと同じりくつになっているのだ。空気が竪坑にたくわえられていて、それが水のさして来る力をせき止めているのだ。そこでおそろしいのは空気のくさることだ……水はもう一|尺《しゃく》(約三〇センチ)も上がっては来ない。鉱山《こうざん》の中は水でいっぱいになっているにちがいない」
「マリウスはどうしたろう」
「鉱坑《こうこう》は水でいっぱいになっている」と言った「先生」のことばで、パージュは三|層《そう》目で働《はたら》いていた一人むすこのことを思い出した
「おお、マリウス、マリウス」とかれはまたさけんだ。
 なんの返事もなかった。こだまも聞こえなかった。かれの声はわれわれのいる坑《こう》の外にはとおらなかった。マリウスは助かったろうか。百五十人がみんなおぼれたろうか。あまりといえばおそろしいことだ。百五十人は少なくとも坑の中にはいっていた。そのうちいく人《にん》竪坑《たてこう》に上がったろうか。わたしたちのようににげ場を見つけたろうか。
 うすぼんやりしたランプの光が心細くわたしたちのせまいおりを照《て》らしていた。


     生きた墓穴《はかあな》

 いまや鉱坑《こうこう》の中には絶対《ぜったい》の沈黙《ちんもく》が支配《しはい》していた。わたしたちの足もとにある水はごく静《しず》かに、さざ波も立てなかった。さらさらいう音もしなかった。鉱坑は水があふれていた。この破《やぶ》りがたいしずんだ重い沈黙が、初《はじ》め水があふれ出したとき聞いたおそろしいさけび声よりも、もっと心持ちが悪かった。
 わたしたちは生きながらうずめられて、地の下百尺(約三〇メートルだが、ここでは深いという意味)の墓《はか》の中にいるのであった。わたしたちはみんなこの場合の恐怖《きょうふ》を感じていた。「先生」すらもぐんなりしていた。
 とつぜんわたしたちは手に温《あたた》かいしずくの落ちるのを感じた。それはカロリーであった……かれはだまって泣《な》いていた。ふとそのとき引きさかれるようなさけび声が聞こえた。
「マリウス。ああ、せがれのマリウス」
 空気は息苦しく重かった。わたしは息がつまるように感じた。耳のはたにぶつぶついう音がした、わたしはおそろしかった。水も、やみも、死も、おそろしかった。沈黙《ちんもく》がわたしを圧迫《あっぱく》した。
 わたしたちの避難所《ひなんじょ》のでこぼこした、ぎざぎざなかべが、いまにも落ちて、その下におしつぶされるような気がしてこわかった。わたしはもう二度とリーズに会うことができないであろう。アーサにも、ミリガン夫人《ふじん》にも、それから好《す》きなマチアにも。
 みんなはあの小さいリーズにわたしの死んだことを了解《りょうかい》させることができるであろうか。かの女の兄たちや姉《あね》さんからの便《たよ》りをつい持って行ってやることができなかったことを了解させることができようか。それから気のどくなバルブレンのおっかあは……。
「どうもおれの考えでは、だれもおれたちを救《すく》うくふうはしていないらしい」とガスパールおじさんはとうとう沈黙《ちんもく》を破《やぶ》って言った。「ちっとも音が聞こえない」
「おまえさん、仲間《なかま》のことをどうしてそんなふうに考えられるかね」と「先生」は熱《あつ》くなってさけんだ。「いつの鉱山《こうざん》の椿事《ちんじ》でも、仲間《なかま》がおたがいに助け合わないことはなかった。一人の坑夫《こうふ》のことだって、あの二十人百人の仲間《なかま》がけっして見殺《みごろ》しにはしないじゃないか。おまえさん、それはよく知っているくせに」
「それはそうだよ」とガスパールおじさんがつぶやいた。
「思いちがいをしてはいけないよ。みんなもこちらへ近寄《ちかよ》ろうとしていっしょうけんめいやっているのだ。それには二つしかたがある……一つはこのおれたちのいる下まで、トンネルをほるのだ。もう一つは水を干《ほ》すのだ」
 人びとはその仕事を仕上げるにどのくらいかかるかというとりとめのない議論《ぎろん》を始めた。結局《けっきょく》少《すく》なくともこの墓《はか》の中にこの後八日ははいっていなければならないことに意見が一致《いっち》した。八日。わたしも坑夫《こうふ》が二十四日も穴《あな》の中に閉《と》じこめられた話は聞いたが、でもそれは「話」であるが、このほうは真実《しんじつ》であった。いよいよそれが、どういうことであるか、すっかりわかると、もう回りの人の話なんぞは耳にはいらなかった。わたしはぼんやりした。
 また沈黙《ちんもく》が続《つづ》いた。みんなは考えにしずんでいた。そんなふうにして、どのくらいいたか知らないが、ふとさけび声が聞こえた。
「ポンプが動いている」
 これはいっしょの声で言われた。いまわたしたちの耳に当たった音は、電流でさわられでもしたように感じた。わたしたちはみんな立ち上がった。ああ、われわれは救《すく》われよう。
 カロリーはわたしの手を取って固《かた》くにぎりしめた。
「きみはいい人だ」とかれは言った。
「いいや、きみこそ」とわたしは答えた。
 でもかれはわたしがいい人であることをむちゅうになって主張《しゅちょう》した。かれの様子は酒に酔《よ》っている人のようであった。またまったくそうであった。かれは希望《きぼう》に酔《よ》っていたのだ。
 けれどわたしたちは空に美しい太陽をあおぎ、地に楽しく歌う小鳥の声を聞くまでに、長いつらい苦しみの日を送らなければならなかった。いったいもう一度日の目を見ることができるだろうか。そう思って苦しい不安《ふあん》の日をこの先送らなければならなかった。わたしたちはみんなひじょうにのどがかわいていた。パージュが水を取りに行こうとした。けれど「先生」はそのままにじっとしていろと言った。かれはわたしたちのせっかく積《つ》み上げた石炭の土手がかれのからだの重みでくずれて、水の中に落ちるといけないと気づかったのであった。
「ルミのほうが身が軽い。あの子に長ぐつを貸《か》しておやり。あの子なら、行って水を取って来られるだろう」とかれは言った。
 カロリーの長ぐつがわたされた。わたしはそっと土手を下りることになった。
「ちょいとお待ち」と「先生」が言った。「手を貸《か》してあげよう」
「おお、でもだいじょうぶですよ。先生」とわたしは答えた。「ぼくは水に落ちても泳げますから」
「わたしの言うとおりにおし」とかれは言い張《は》った。「さあ、手をお持ち」
 かれはしかしわたしを助けようとしたはずみに足をふみはずしたか、足の下の石炭がくずれたか、つるり、傾斜《けいしゃ》の上をすべって、まっ逆《さか》さまに暗い水の中に落ちこんだ。かれがわたしに見せるつもりで持っていたランプは、続《つづ》いて転《ころ》がって見えなくなった。
 たちまちわたしは暗黒の中に投げこまれた。そこにはたった一つの灯《ひ》しかなかったのであった。みんなの中から同じさけび声が起こった。幸いにわたしはもう水にとどく位置《いち》に下りていた。背中《せなか》で土手をすべりながら、わたしは老人《ろうじん》を探《さが》しに水の中にはいった。
 ヴィタリス親方と流浪《るろう》していたあいだに、わたしは泳ぐことも、水にはいることも覚《おぼ》えた。わたしはおかの上と同様、水の中でも楽に働《はたら》けた。だがこのまっ暗な穴《あな》の中で、どうして見当をつけよう。わたしは水にはいったとき、それを少しも考えなかった。わたしはただ老人がおぼれたろうと、そればかり考えた。どこをわたしは見ればいいか、どちらのそばへ泳いで行けばいいか、わたしは困《こま》っていると、ふとしっかり肩《かた》をつかまえられたように感じた。わたしは水の中に引きこまれた、足を強くけって、わたしは水の面《おもて》へ出た。手はまだ肩をつかんでいた。
「しっかりおしなさい、先生」とわたしはさけんだ。「首を上に上げていれば助かりますよ」
 助かると。どうして二人とも助かるどころではなかった。わたしはどちらへ泳いでいいかわからなかった。
「ねえ、だれか、声をかけてください」とわたしはさけんだ。
「ルミ、どこだ」
 こう言ったのはガスパールおじさんの声であった。
「ランプをつけてください」
 ランプが暗やみの中から探《さぐ》り出されて、すぐに明かりがついた、わたしはただ手をのばせば土手にさわることができた。片手《かたて》で石炭のかけらをつかんで、わたしは老人《ろうじん》を引き上げた。もう、少しで危《あぶ》ないところであった。
 かれはもうたくさんの水を飲んでいて、半分|人事不省《じんじふせい》であった。わたしはかれの頭をうまく水の上に上げてやったので、どうにかかれは上がって来た。仲間《なかま》はかれの手を取って引き上げる。わたしは後からおし上げた。わたしはそのあとで今度は自分がはい上がった。
 このふゆかいな出来事で、しばらくわたしたちの気を転じさせたが、それがすむとまた圧迫《あっぱく》と絶望《ぜつぼう》におそわれた。それとともに死が近づいたという考えがのしかかってきた。
 わたしはひじょうにねむくなった。この場所はねるのにつごうのいい場所ではなかった。じきに水の中に転《ころ》がり落ちそうであった。すると「先生」はわたしの危《あぶ》なっかしいのを見て、かれの胸《むね》にわたしの頭をつけて、わたしのからだをうででおさえてくれた。かれはたいしてしっかりおさえてはいなかったが、わたしが落ちないだけにはじゅうぶんであった。わたしはそこで母のひざにねむる子どものようにねむった。
 わたしが半分目が覚《さ》めて身動きすると、かれはただきつくなった自分のうでの位置《いち》を変えた。そして自分は動かずにすわっていた。
「お休み、ぼうや」とかれはわたしの上にのぞきこんでささやいた。「こわいことはない。わたしがおさえていてあげるからな」
 それでわたしは恐怖《きょうふ》なしにねむった。かれがけっして手をはなさないことをわたしはよく知っていた。


     救助《きゅうじょ》

 わたしたちは時間《じかん》の観念《かんねん》がなくなった。そこに二日いたか、六日いたか、わからなかった。意見がまちまちであった。もうだれも救《すく》われることを考えてはいなかった。死ぬことばかりが心の中にあった。
「先生、おまえの言いたいことを言えよ」とベルグヌーがさけんだ。「おまえ水をかい出すにどのくらいかかるか、勘定《かんじょう》していたじゃないか。だがとてもまに合いそうもないぜ。おれたちは空腹《くうふく》か窒息《ちっそく》で死ぬだろう」
「しんぼうしろよ」と「先生」が答えた。「おれたちは食べ物なしにどれくらい生きられるか知っている。それでちゃんと勘定がしてあるのだ。だいじょうぶ、まに合うよ」
 このしゅんかん、大きなコンプルーが声を立ててすすり泣《な》きを始めた。
「神様の罰《ばち》だ」とかれはさけんだ。「おれは後悔《こうかい》する。おれは後悔する。もしここから出られたら、おれはいままでした悪事のつぐないをすることをちかう。もし出られなかったら、おまえたち、おれのために神様におわびをしてくれ。おまえたちはあのヴィダルのおっかあの時計をぬすんで、五年の宣告《せんこく》を受けたリケを知っているか……だがおれがそのどろぼうだった。ほんとうはおれがとったのだ。それはおれの寝台《ねだい》の下にはいっている……おお……」
「あいつを水の中にほうりこめ」とパージュとベルグヌー
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