は一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。
「おまえは好《す》いていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩《おん》を忘《わす》れてはならないぞ」
そのあとでかれはいつも言い足した。
「だがしかたがなかったのだ」
こう言う親方のことばを、初《はじ》めはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人《ふじん》がそばへ置《お》きたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。
親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確《たし》かであった。そのうえこのことばの中には後悔《こうかい》に似《に》た心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしを残《のこ》しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。
でもなぜかれがミリガン夫人《ふじん》の申し出を承知《しょうち》することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔《こうかい》しているということがわかって、わたしは心の底《そこ》に満足《まんぞく》した。
もうこれでは親方も承知《しょうち》してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望《きぼう》の目標《もくひょう》になった。
それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。
それはローヌ川を上って行くはずであった。そうしてわたしたちはその川の岸に沿《そ》って歩いていた。
それで歩きながらわたしの目は両側《りょうがわ》を限《かぎ》っている丘《おか》や、豊饒《ほうじょう》な田畑よりも、よけい水の上に注がれていた。
わたしたちがアルルとか、タラスコンとか、アヴィニオン、モンテリマール、ヴァランス、ツールノン、ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場《はとば》か橋の上で、そこから川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を探《さが》した。遠方に半分、深い霧《きり》にかくれてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。
でもそれはいつも白鳥号ではなかった。
ときどきわたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしの探《さが》す美しい船の模様《もよう》を話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でもかれらはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。
このごろでは親方も、わたしをミリガン夫人《ふじん》にわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう想像《そうぞう》されたから、もはやわたしの素性《すじょう》を告《つ》げたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの事件《じけん》は親方とミリガン夫人との間の相談《そうだん》でうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしいゆめでいろいろに事件を処理《しょり》してみた。ミリガン夫人はわたしをそばに置《お》きたいと言うだろう。親方はわたしに対する権利《けんり》を捨《す》てることを承知《しょうち》してくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。
わたしたちは何週間もリヨンに滞在《たいざい》していた。そのあいだひまさえあればいく度もわたしはローヌ川と、ソーヌ川の波止場《はとば》に行ってみた。おかげでエーネー、チルジット、ラ・ギョッチエール、ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。
しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。
わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン夫人《ふじん》に二度と会う希望《きぼう》を捨《す》てなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへ別《わか》れて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの夢想《むこう》の結末《けつまつ》であった。
いよいよいけなくなったことは、冬がいまや目近《まぢか》にせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない宿屋《やどや》かまたは物置《ものお》き小屋《ごや》につかれきってたどり着くと、もうは
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