ない》しましょう」とわたしは言った。
「それにはおよばないよ」とかれは答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちといっしょにわたしを待っておいで」
 わたしは、いつでもかれに従順《じゅうじゅん》であったけれども、この場合はかれといっしょにミリガン夫人《ふじん》の部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当でもあり自然《しぜん》なことだと思っていた。けれども手まねでかれがわたしのくちびるに出かかっていることばをおさえると、わたしはいやいや犬やさるといっしょに下に残《のこ》っていなければならなかった。
 どうしてかれはミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを好《この》まなかったか。わたしはこの質問《しつもん》を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快《めいかい》な答えが得《え》られずに考えこんでいたときにかれはもどって来た。
「行っておくさんに、さようならを言っておいで」とかれはことば短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分のうちにたつのだから」
 わたしはかみなりに打たれたような気がした。
「それ」とかれは言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」
 かれはまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的《きかいてき》にわたしは服従《ふくじゅう》して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。
「あなたはおくさんになんとお言いに……」二足三足行きかけてわたしは問いかけた。
「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要《ひつよう》なのだ。従《したが》ってわたしはおまえに対するわたしの権利《けんり》を捨《す》てることはできませんと言ったのさ。行って来い。いとまごいがすんだらすぐ帰れ……」
 わたしは自分が捨《す》て子《ご》だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性《すじょう》を話したからだとばかり思っていた。
 ミリガン夫人《ふじん》の部屋《へや》にはいると、アーサがなみだを流している。そのそばに母の夫人が寄《よ》りそっているところを見た。
「ルミ、きみ行ってはいやだよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」とかれはすすり泣《な》きをした。
 わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人《ふじん》がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。
「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知《しょうち》してくださいませんでした」とミリガン夫人《ふじん》は、いかにも悲しそうな声で言った。
「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。
「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたがだいじで手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる……あの人はああいう身分の人のようではない、どうしてりっぱな口のきき方をなさいました。お断《ことわ》りになる理由としてあの人の言われたのは――そう、こうです、――わたしはあの子を愛《あい》している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに授《さず》けている世間の修業《しゅぎょう》は、あれにとって、あなたがたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それはほんとうだ。なるほどあなたはあれのちえを養《やしな》ってはくださるだろう、だがあれの人格《じんかく》は作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難《かんなん》ばかりです。あれはあなたの子にはなれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地《いごこち》がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから――とこうお言いになるのですよ」
「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサはさけんだ。
「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に従《したが》うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で貸《か》したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」
「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしはさけんだ。
「それはどういうわけです」
「いいえ、どうかよしてください」
「でもそのほかにしかたがないんですもの」
「ああ、どうぞよしてください」
 ミリガン夫人《ふじん》が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がく
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