|閉《と》じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来《いらい》初《はじ》めてのふゆかいな晩《ばん》であった。それはおそろしくふゆかいな、長い熱病《ねつびょう》をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。
 たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなればかれらはどうしたってほんとうのことは知らずにいよう。かれらは、わたしの捨《す》て子《ご》だということを知らずにすむだろう。素性《すじょう》を知られることについてのわたしの羞恥《しゅうち》と恐怖《きょうふ》があまりひどかったので、もうアーサ母子《おやこ》と別《わか》れても、しかたがない。ヴィタリスがなんでも自分といっしょに来いと主張《しゅちょう》することを希望《きぼう》し始めたくらいであった。そうなれば少なくともかれらはこののちわたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。
 それから三日たってミリガン夫人《ふじん》はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。かれは夫人の文意をよくくんで、向こうから来てかの女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを連《つ》れて、かれに会いに停車場《ていしゃじょう》まで行くことを許《ゆる》された。
 その朝になると、犬たちはなにか変《か》わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしはひじょうに興奮《こうふん》していた。きょうこそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気《ゆうき》があったら、親方にたのんで捨《す》て子《ご》だということをミリガン夫人《ふじん》に言ってもらわないようにたのむことができたであろう。けれどもわたしはかれに対してすら『捨《す》て子《ご》』ということばを口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、ジョリクールは上着の下に入れて、停車場《ていしゃじょう》の片《かた》すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目にはいらなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。かれらは主人のにおいをかぎつけた。
 ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張《みは》りをゆるめていたので、かれらはぬけ出したのであった。ほえながらかれらは前へとび出した。わたしはかれらが親方にとびかかるのを見た。ほかの二ひきに比《くら》べてははげしくしかもしたたかにカピが、いきなり主人のうでにとびかかった。ゼルビノとドルスがその足にとびかかった。
 親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両うでをわたしのからだに投げかけた。初《はじ》めてかれはわたしにキッスした。
「ああよく無事《ぶじ》でいてくれた」とかれはたびたび言った。
 親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに優《やさ》しくはなかった。わたしはそれに慣《な》れていなかった。それでわたしは感動して、思わずなみだが目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしはかれの顔をながめた。刑務所《けいむしょ》にはいっているまにかれはひじょうに年を取った。背中《せなか》も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の気《け》はなかった。
「ルミ、わたしは変《か》わったろう。なあ」とかれは言った。「刑務所《けいむしょ》はけっしてゆかいな所ではなかった。それに苦労《くろう》というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来ればだいじょうぶだ。これからはよくなるだろう」
 それから話の題を変《か》えてかれは言い続《つづ》けた。
「わたしの所へ手紙を寄《よ》こしたおくさんのことを話しておくれ。どうしてそのおくさんと知り合いになったのだ」
 わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割《ほりわり》をこいでいたミリガン夫人《ふじん》とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから別《わか》れてミリガン夫人《ふじん》の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。
 わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしはかの女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。
「そのおくさんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルにはいったときにかれは言った。
「ええ、ぼくがいまおくさんの部屋《へや》に案内《あん
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