のじゃがいもと、ミリガン夫人《ふじん》の料理番《りょうりばん》のこしらえるくだもの入りのうまいお菓子《かし》やゼリーやクリームやまんじゅうと比《くら》べると、なんというそういであろう。
 あのヴィタリス親方のあとからとぼとぼくっついて、沼《ぬま》のような道や、横なぐりの雨や、こげつくような太陽の中を歩き回るのと、この美しい小舟《こぶね》の旅と比べては、なんというそういであろう。
 料理《りょうり》はうまかった。そうだ、まったくすばらしかった。腹《はら》も減《へ》らないし、くたびれもしないし、暑すぎもせず、寒すぎもしなかった。けれどほんとうに正直なことを言えば、わたしがいちばん深く感じたのは、この夫人《ふじん》と子どもの、めずらしい親切と愛情《あいじょう》であった。
 二度もわたしはわたしの愛《あい》していた人たちから引きはなされた。最初《さいしょ》はなつかしいバルブレンのおっかあから、それからヴィタリス親方から、わたしは犬とさるといっしょに空腹《くうふく》で、みじめなまま捨《す》てられた。
 そこへ美しい夫人《ふじん》がわたしと同じ年ごろの子どもを連《つ》れて現《あらわ》れた。わたしをむかえて、まるでわたしが兄弟ででもあるようにあつかってくれた。
 たびたびわたしはアーサが寝台《ねだい》に結《ゆわ》えつけられて、青い顔をしてねむっているところを見ると、わたしはかれをうらやんだ。健康《けんこう》と元気に満《み》ちたわたしが、かえって病人の子どもをうらやんだ。
 それはわたしがうらやむのは、この子を引き包《つつ》んでいるぜいたくではなかった。美しい小舟《こぶね》ではなかった。それはかれの母親であった。ああ、どのくらいわたしは自分の母親を欲《ほ》しがっているだろう。
 かれの母はいつでもかれにキッスした。そして、かれはいつでもしたいときに、両うでにかの女をだくことができた。その優《やさ》しい夫人《ふじん》の手はたまたまわたしに向けられることもあっても、わたしからは思い切ってそれにさわり得《え》ないのではないか。わたしは自分にキッスしてくれる母親、わたしがキッスすることのできる母親を持たないことを悲しいと思った。
 あるいはいつかまたわたしもバルブレンのおっかあには会うことがあるかもしれない。それはどんなにかうれしいことであろう。でもわたしはもうかの女を母親と呼《よ》ぶことはできない。なぜならかの女はわたしのほんとうの母親ではないのだから。
 わたしは独《ひと》りぼっちだった。わたしはいつでも独りぼっちでいなければならない……だれの子どもでもないのだ。
 わたしはもうこの世の中は、そうなんでも思うようになる所でないことを知るだけに大きくなっていた。それでわたしは母親もないし、家族もないから、友だちでもあればどんなにうれしいだろうと思っていた。だからこの小舟《こぶね》に来て、わたしは幸福であった。ほんとうに幸福であった。けれど、ああ、それは長く続《つづ》けることはできなかった。わたしがまたむかしの生活に返る日はおいおいに近づいていた。


     捨《す》て子《ご》

 旅の日数《ひかず》のたつのは早かった。親方が刑務所《けいむしょ》から出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるに従《したが》って、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。
 船の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの苦労《くろう》もなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなけれはならないときがじき来るのだ。
 これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもう寝台《ねだい》もなければ、クリームもない。お菓子《かし》もなけれは、テーブルを取り巻《ま》いた楽しい夜会もなくなるのだ。
 でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン夫人《ふじん》とアーサとに別《わか》れることであった。わたしはこの人たちの友情《ゆうじょう》からはなれなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。
 わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちといっしょにくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちと別《わか》れなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、愛《あい》し愛されたりするようなものであった。
 このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの心痛《しんつう》がわたしの心をくもらせた。
 ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン夫人《ふじん》に、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が刑務所《けいむしょ》から出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったの
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