、いまのうち物を習う習慣《しゅうかん》をつけておいて、いつか回復《かいふく》したとき、むだになった時間を取り返すことができるようにしたいと考えたのであった。
 ところがその日までもかの女はそれが思うようにならないでいた。アーサはけっして勉強することをいやだとは言わなかったが、注意と熱心《ねっしん》がまるでがけていた。書物を手にのせればいやとは言わずに受け取った。手は喜《よろこ》んでそれを受け取ろうとして開いたが、心はまるで開かなかった。ただもう機械《きかい》のように動いて、しいて頭におしこまれたことばを空《くう》にくり返しているというだけであった。
 そういうわけでむすこに失望《しつぼう》した母親の心には、絶《た》え間《ま》のない物思いがあった。
 だから、アーサがいまたった半時間でお話を覚《おぼ》えて、一時をちがえず暗唱《あんしょう》して聞かせるのを聞いたとき、かの女のうれしさというものはなかった。それはもっともなわけであった。
 わたしはいま思い出しても、この船の上で、ミリガン夫人《ふじん》やアーサと過《す》ごしたあのじぶんが、少年時代でいちばんゆかいなときであったと思う。
 アーサはわたしに熱《あつ》い友情《ゆうじょう》を寄《よ》せていた。わたしのほうでもわざとでなしに、また気のどくという同情《どうじょう》からでなしに、しぜんとかれを兄弟のように思っていた。二人はけんか一つしたことはなかった。かれにはかれのような身分にありがちないばったところはみじんもなかった。わたしのほうも少しもひけめは感じなかった。またひけめを感じなければならないなどと思ったことすらなかった。
 これはきっとわたしが子どもで、世の中を知らないためであったろう。しかしそれにはたしかに、ミリガン夫人《ふじん》の行《ゆ》き届《とど》いた親切のおかげもあった。かの女はたいてい自分の子どものようにしてわたしに話しかけた。
 それにこの船の旅がわたしにはじつにおもしろかった。一時間とたいくつしたこともなければ、つかれたと思うこともなかった。朝から晩《ばん》までわたしの心はいつも充実《じゅうじつ》しきっていた。
 鉄道ができて以来《いらい》、フランス南部地方の運河《うんが》を見に来る人もなければ、知る人すらないようになったが、でもこれはやはりフランス名物の一つであった。
 わたしたちはローラゲーのヴィーフランシュから、アヴィニオンヌまで行って、アヴィニオンヌからノールーズの岩まで行った。ノールーズにはこの運河の開鑿者《かいさくしゃ》であるリケの記念碑《きねんひ》が、大西洋《たいせいよう》に注ぐ水と地中海《ちちゅうかい》に落ちる水とが分かれる分水嶺《ぶんすいれい》の頂《いただき》に建《た》てられてあった。
 それからわたしたちは水車の町であるカステルノーダリを下って、中世の都会であったカルカッソンヌへ、それから貯水溝《ちょすいこう》のめずらしいフスランヌの閘門《こうもん》(船を高低の差のある水面に上げたり下ろしたりするしかけのある水門)をぬけてベジエールに下った。
 おもしろい所ではわたしたちはたいそうゆっくり船を進めた。けれど景色《けしき》がつまらなくなると馬は引き船の道を早足にとっとっとかけた。
 いつどこでとまって、いつまでにどこまでへ着かなければならないということもなかった。毎日同じ決まった食事の時間に露台《ろだい》の上に集まって、静《しず》かに両岸の景色《けしき》をながめながら食事をした。日がしずむと船は止まった。日がのぼると船はまた動き出した。
 雨でも降《ふ》ると、わたしたちは船室の中にはいって、勢《いきお》いよく燃《も》えた火を取り巻《ま》いてすわる。病人の子どもがかぜをひかないためであった。そういうとき、ミリガン夫人《ふじん》はわたしたちに本を読んで聞かせたり、画帳を見せたり、美しいお話をして聞かせたりした。
 それから夜、晴れた日には、わたしには一つ役目があった。船が止まったときわたしはハープをおかに持って下りて、少し遠くはなれた木のかげにこしをかける。それから木のえだのしげった中にかくれて、いっしょうけんめいにひいたり、歌を歌ったりするのである。静《しず》かな晩《ばん》など、アーサは、だれがひいているか見えないようにして、遠くの音楽を聞くことを好《この》んだ。そこでわたしがアーサの好《す》きな曲をひくと、かれは「アンコール」(もっと)と声をかける。それでわたしは同じ曲を二度くり返してひくのである。
 それはバルブレンのおっかあの炉《ろ》ばたに育ち、ヴィタリス老人《ろうじん》とほこりっぽい街道《かいどう》を流浪《るろう》して歩いたいなか育ちの少年にとっては思いがけない美しい生活であった。
 あの気のどくな養母《ようぼ》がこしらえてくれた塩《しお》
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