じのことを考えました。それからひつじはなにをしているか考えます。『多くのひつじは安全なおりの中で住んでいました』というのだから、ひつじがおりの中で安心して転《ころ》がってねむっているところが見えてきます。そういうふうに目にうかべると忘《わす》れません」
「そうだそうだ」とかれは言った。「ぼくは見えるよ。黒いひつじだの、白いひつじだの、おりも、格子《こうし》も見える」
「ひつじの番をするのはなんですか」
「犬さ」
「ひつじがおりの中にいて番をしないですむとき、犬はなにをするでしょう」
「なんにも仕事はない」
「では犬はねむってもいいでしょう。ですから、『犬はねむっていました』と言うのです」
「そうだ。わけはない」
「ええ、わけはないのですとも、今度はほかのことに移《うつ》ります。では犬といっしょに番をするのはだれです」
「ひつじ飼《か》いさ」
「その犬やひつじ飼いは、ひつじがだいじょうぶだと思うとなにをしていたでしょう」
「犬は、ねむっていたのさ、ひつじ飼いは、遠くのほうへ行って、ほかのひつじ飼いたちとふえをふいて遊んでいた」
「あなたはそれが見えますか」
「ええ」
「どこにいます」
「にれの木のかげに」
「一人ですか」
「いいえ、近所のひつじ飼《か》いといっしょに」
「そらひつじやおりや犬やひつじ飼いのことを考えてごらんなさい。それができれば、このお話の初《はじ》めのほうは暗唱《あんしょう》ができるでしょう」
「ええ」
「やってごらんなさい」
「多くのひつじは安全なおりの中におりましたから、犬はみなねむっていました。ひつじ飼いも大きなにれの木のかげに、近所のひつじ飼いたちとふえをふいて遊んでいました。――覚《おぼ》えていた、覚《おぼ》えていた、まちがいはなかった」
アーサは両手を打ってさけんだ。
「あともそういうふうにして覚えたらどうです」
「そうだな、きみといっしょにやればきっと覚えられる。ああ、お母さまがどんなに喜《よろこ》ぶだろう」
アーサはやがてお話|残《のこ》らずを心の目にうかべるようになった。わたしはできるだけ一々の細かい話を説明《せつめい》した。かれがすっかり興味《きょうみ》を持ってきたときに、わたしたちはいっしょに文句《もんく》をさらった。そして十五分あとでは、かれはすっかり卒業《そつぎょう》いていた。
やがて母親は出て来たが、わたしたちがいっしょにいるのでふきげんらしかった。かの女はわたしたちが遊んでいたと思った。けれどアーサはかの女に口をきかせるいとまをあたえなかった。
「ぼく、覚《おぼえ》えました」とかれはさけんだ。「ルミが教えてくれました」
ミリガン夫人《ふじん》は、びっくりしてわたしの顔を見た。けれどかの女がわけを問うさきに、アーサは『おおかみと小ひつじ』のお話を暗唱《あんしょう》しだした。わたしはミリガン夫人の顔を見た。かの女の美しい顔は微笑《びしょう》にほころびた。そのうちわたしはかの女の目になみだがうかんだと思った。けれどかの女はあわててむすこのほうをのぞきこんで、そのからだに両うでをかけた。かの女が泣《な》いていたかどうか確《たし》かではなかった。
「ことばには意味がないのだから、目に見える事がらを考えなければいけないのです。ルミはぼくにふえをふいているひつじ飼《か》いだの、犬だのひつじだの、それからおおかみだのを考えさせてくれました。おまけにひつじ飼いのふいていた節《ふし》まで聞こえるようになりました。お母さま、ぼく、歌を歌ってみましょうか」
こう言ってかれは、イギリス語の悲しいような歌を歌った。
今度こそミリガン夫人《ふじん》はほんとうに泣《な》いていた。なぜならかの女が席《せき》を立ったとき、わたしはアーサのほおがかの女のなみだでぬれているのを見た。そのとき夫人《ふじん》はわたしのそばに寄《よ》って、わたしの手を自分の手の中におさえて、優《やさ》しくしめつけた。
「あなたはいい子です」とかの女は言った。
わたしがこのちょいとした出来事を長ながと書くにはわけがある。ゆうべまではわたしも宿《やど》なしのこぞうで、一座《いちざ》の犬やさるたちを連《つ》れて、船のそばへやって来て、病人の子どもをなぐさめるだけの者であった。けれどこの課業《かぎょう》のことから、わたしは犬やさるから引きはなされて、病人の子どもの相手《あいて》になり、ほとんど友だちになったのである。
もう一つ言っておかなければならないことがある。それはずっとあとで知ったことであるが、ミリガン夫人《ふじん》は実際《じっさい》このむすこの物覚《ものおぼ》えの悪いこと、もっと正しく言えばなにも物を覚えないことを知って、ふさぎきっていた。病人の子ではあっても、勉強はさせておきたいと夫人は思った。それには病気が長びくだろうから
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