《おぼ》えるのがなかなか困難《こんなん》であるらしく見えた。しじゅう母親は優《やさ》しく責《せ》めていたが、同時になかなか手ごわかった。
「いいえ」とかの女は最後《さいご》に言った。「アーサ、あなたはまるで覚《おぼ》えていません」
「ぼく、できません。お母さま、ぼく、ほんとにできないんです」とかれは泣《な》くように、言った。「ぼく病気なんです」
「あなたの頭は病気ではありません。アーサ、病人だからといって、だんだんばかになるような子をわたしは好《す》きません」
これはずいぶん残酷《ざんこく》なようにわたしには思われた。けれどかの女はあくまで優《やさ》しい親切な調子で言った。
「なぜ、あなたはわたしにこんな情《なさ》けない思いをさせるでしょう。あなたが習いたがらないのが、どんなにわたしには悲しいかわかるでしょう」
「ぼく、できません、お母さま、ぼくできないんです」こう言ってかれは泣《な》きだした。
けれどもミリガン夫人《ふじん》は子どものなみだに負かされはしなかった。そのくせかの女はひじょうに感動して、ますます悲しそうになっていた。
「わたしもけさあなたをルミや犬たちと遊ばせてあげたいのだけれど、すっかりお話を覚《おぼ》えるまでは遊ばせることはできません」こう言ってかの女は本をアーサにわたして、一人|置《お》き去りにしたまま向こうへ行った。
わたしの立っていた所までかれの泣《な》き声《ごえ》が聞こえた。
あれほどまでに愛《あい》しているらしい母親がどうしてこのかわいそうな子どもにこれほど厳格《げんかく》になれるのであろう。アーサの覚《おぼ》えられないのは病気のせいなのだ。かの女は優《やさ》しいことば一つかけないではいってしまうのであろうか。
しばらくたってかの女はもどって来た。
「もう一度二人でやってみましょうね」とかの女は優しく言った。
かの女は子どものわきにこしをかけて、本を手に取って、『おおかみと小ひつじ』というお話を読み始めた。アーサはその読み声について文句《もんく》をくり返した。
三度|初《はじ》めからしまいまで読み返して、それから本をアーサに返して、あとは一人で習うように言いつけて、船の中にはいってしまった。
わたしはアーサのくちびるの動くのを見た。
かれはたしかにいっしょうけんめい勉強していた。
けれどもまもなく目を本からはなした。かれのくちびるは動かなくなった。かれの目はきょろきょろとあてもなく迷《まよ》ったが、本にはもどって来なかった。
ふとかれの目はわたしの目を見つけた。
わたしは課業《かぎょう》を続《つづ》けてやるようにかれに目くばせした。かれは注意を感謝《かんしゃ》するように微笑《びしょう》した。そしてまた本を読み始めた。けれどもまえのようにやはりかれは考えを一つに集めることができなかった。かれの目は川のこちらの岸から向こう岸へと迷《まよ》い始めた。ちょうどそのとき一|羽《わ》のかわせみが矢のように早く船の上をかすめて、青い光をひらめかしながら飛んだ。
アーサは頭を上げてその行くえを見送った。鳥が行ってしまうと、かれはわたしのほうをながめた。
「ぼく、これが覚《おぼ》えられない」とかれは言った。「でもぼく、覚《おぼ》えたいんだ」
わたしはかれのそばへ行った。
「この話はそんなにむずかしくはありませんよ」とわたしは言った。
「うん、むずかしい。……たいへんむずかしいんだ」
「ぼくにはずいぶん易《やさ》しいと思えますよ。あなたのお母さまが読んでいらっしゃるときに聞いていて、ぼくはたいてい覚《おぼ》えました」
かれはそれを信《しん》じないように微笑《びしょう》した。
「言ってみましょうか」
「できるもんか」
「やってみましょうか。本を持っていらっしゃい」
かれはまた本を取り上げた。わたしはその話を暗唱《あんしょう》し始めた。わたしはほとんど完全《かんぜん》に覚《おぼ》えていた。
「やあきみ、知っているの」
「そんなによくは知りません。けれどこのつぎのときまでには、一つもちがえずに言えるでしょう」
「どうして覚《おぼ》えたの」
「あなたのお母さまが読んでいらっしゃるあいだ、ぼくは聞いていました。ただいっしょうけんめいに、そこらの物を見向したりなんぞせずに、聞いていたのです」
かれは顔を赤くした、そして目をそらした。
「ぼくもきみのようにやってみよう」とかれは言った。「けれど一々のことばをどうしてそう覚《おぼ》えたか、言って聞かしてくれたまえ」
わたしはそれをどう説明《せつめい》していいかわからなかった。そんなことを考えてみたことはなかった。けれどやれるだけは説明してみた。
「このお話はなんの話でしょう」とわたしは言った。「ひつじのことでしょう。ねえ、だからなにより先にぼくはひつ
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