たたった一つの道具は、衣装《いしょう》戸だなであった。けれどなんという戸だなだろう。寝台《ねだい》とふとんとまくらと毛布《もうふ》とがその下から出て来た。そして寝台についた引き出しには、はけ[#「はけ」に傍点]やくし[#「くし」に傍点]やいろいろなものがはいっていた。いすやテーブルというようなものも少なくともふつうの形をしたものはなかったが、かべに板がぴったりついている、それを引き出すと四角なテーブルといすになった。この小さな寝台《ねだい》にねむることをどんなにわたしは喜《よろこ》んだであろう。生まれて初《はじ》めてわたしはやわらかいしき物をはだに当てた。バルブレンのおっかあのうちのはひじょうに固《かた》くって、いつもあらくほおをこすった。ヴィタリス老人《ろうじん》とわたしはたいていしき物なしでねむった。木賃宿《きちんやど》にあるものは、みんなバルブレンのおっかあのうちのと同様にごりごりしていた。
 わたしはあくる朝早く起きた。一座《いちざ》の連中《れんじゅう》が一晩《ひとばん》どんなふうに過《す》ごしたか知りたかったからである。
 見るとかれらはみんなまえの晩《ばん》入れてやった所にいて、このきれいな小舟《こぶね》はもう何か月もかれらの家であったかのようによくねいっていた。犬たちはわたしが近づくとはね起きたが、ジョリクールは片目《かため》を開いているくせに動かなかった。かえってラッパのような大いびきをかき始めた。
 わたしはすぐにそのわけをさとった。ジョリクールはたいへんおこりっぽかった。かれは一度|腹《はら》を立てると、長いあいだむくれていた。いまの場合は、ゆうべわたしがかれを船室に連《つ》れて行かなかったのをおもしろく思わなかったので、わざとふてねをして、ふきげんを示《しめ》していたのであった。
 わたしはなぜかれを甲板《かんぱん》の上に置《お》いて行かなければならなかったか、そのわけを説明《せつめい》することができなかった。それで少なくとも外見だけでも、わたしはかれにすまなかったと感じているふうを見せるために、かれをうでにだいて、なでたりさすったりしてやった。
 初《はじ》めはかれもむくれたままでいたが、まもなく、気が変《か》わりやすい性質《せいしつ》だけに、なにかほかのことに考えが移《うつ》って、手まねで、よし、外へ散歩《さんぽ》に連《つ》れて行くなら、かんべんしてやろうという意を示《しめ》した。
 甲板《かんぱん》をそうじしていた男が、気軽に板をわたしてくれたので、わたしは部下を連《つ》れて野原へ出た。
 犬とかけっこしたり、ジョリクールをからかったり、ほりをとんだり、木登りをしたりして遊んでいるうちに時間がたった。帰ってみると、馬ははこやなぎ[#「はこやなぎ」に傍点]の木につながれて、すっかり仕度ができていて、小舟《こぶね》はいつでも出発するようになっていた。
 わたしたちがみんな船の上に乗ってしまうと、まもなく船をつないだ大づなは解《と》かれて、船頭はかじを、御者《ぎょしゃ》は手《た》づなを取った。引きづなの滑車《かっしゃ》がぎいぎい鳴って、馬は引き船の道をカッパカッパ歩きだした。
 これでも動いているかと思うはど静《しず》かに船は水の上をすべって行った。そこに聞こえるものは小鳥の歌と、船に当たる水の音、それから馬の首につけたすずのチャランチャランだけであった。
 所どころ水はこい緑色に見えてたいへん深いようであった。そうかと思うと水晶《すいしょう》のようにすみきっていて、水の底《そこ》できらきら光る小石だの、ビロードのような水草をすかして見ることができた。
 わたしが水の中をじっとのぞきこんでいると、だれかがわたしの名前を呼《よ》んだ。それはアーサであった。かれは例《れい》の板に乗せられて運び出されていた。
「きみ、よくねられたかい、野原にねむるよりも」とかれはたずねた。わたしは半分、ミリガン夫人《ふじん》にあいさつするように、ていねいによくねむられたことを話した。
「犬は」アーサが聞いた。
 わたしはかれらを呼《よ》んだ。かれらはジョリクールといっしょにかけて来た。このさるはいつも芝居《しばい》をやらされると思うときするように、しかめっ面《つら》をしていた。
 ミリガン夫人《ふじん》はむすこを日かげに置《お》いて、自分もそのそばにすわった。
「それでは、あちらへ犬とさるを連《つ》れて行ってください。わたしたちは課業《かぎょう》がありますから」とかの女は言った。
 わたしは連中《れんじゅう》を連《つ》れてへさきのほうへ退《しりぞ》いた。
 あの気のどくな病人の子どもに、どんな課業《かぎょう》ができるのだろう。
 わたしはかれの母親が手に本を持って、むすこに課業を授《さずけ》けているのを見た。
 かれはそれを覚
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