どうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。
わたしは楽器《がっき》を手に取って、船のへさきのほうへ行って、静《しず》かにひき始《はじ》めた。
貴婦人《きふじん》はふとくちびるに小さな銀《ぎん》の呼子《よぶこ》ぶえを当てて、するどい音《ね》を出した。
わたしはなぜ貴婦人がふえをふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。
自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの不安心《ふあんしん》らしい様子を見つけた。
「お母さまは馬を行かせるために、ふえをふいたんだよ」とかれは言った。
まったくそのとおりであった。馬に引かれた小舟《こぶね》は、そろそろと岸《きし》をはなれて、堀割《ほりわり》の静《しず》かな波を切ってすべって行った。両側《りょうがわ》には木があった。後ろにはしずんで行く夕日のななめな光線が落ちた。
「ひきたまえな」とアーサが言った。
頭をちょっと動かしてかれは母親にそばに来いという合図をした。かれは母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしはかれらのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。
最初《さいしょ》の友だち
アーサの母親はイギリス人であった、名前をミリガン夫人《ふじん》と言った。後家《ごけ》さんで、アーサは一人っ子であった。少なくとも生きているただ一人の子どもだと考えられていた。なぜというに、かの女はふしぎな事情《じじょう》のもとに、長男をなくした。
その子は生まれて六月《むつき》目に人にさらわれてしまった。それからどうしたかかいもく行くえがわからなかった。もっともその子がかどわかされたころ、ちょうどミリガン夫人《ふじん》はじゅうぶんの探索《たんさく》をすることのできない境遇《きょうぐう》であった。かの女の夫《おっと》は死にかかっていたし、なによりもかの女自身がひどくわずらって、身の回りにどんなことが起こっているか、まるっきりわからずにいた。かの女が意識《いしき》を取り返したときには、夫は死んでいたし、赤子はいなくなっていた。かの女の実の弟に当たるジェイムズ・ミリガン氏《し》はイギリスはもちろん、フランス、ベルギー、ドイツ、イタリアとほうぼうに子どもを探《さが》させたが、結局《けっきょく》行くえは知れなかった。そうなるとあとつぎの子どもがないので、この人がにいさんの財産《ざいさん》を相続《そうぞく》するつもりでいた。
ところがやはり、ジェイムズ・ミリガン氏《し》は、にいさんからなにも相続することができなかった。なぜというに、夫人《ふじん》の夫《おっと》の死後七か月目に、夫人の二番目のむすこのアーサが生まれたのであった。
けれどもお医者たちはこの病身な、ひよわな子どもの育つ見こみはないと言った。かれはいつ死ぬかもしれなかった。その子が死んだ場合には、ジェイムズ・ミリガン氏《し》は財産《ざいさん》を相続《そうぞく》することになるであろう。
そう思ってかれはあてにして待っていた。
けれども医者の予言《よげん》はなかなか実現《じつげん》されなかった。アーサはなかなか死ななかった。もう二十度も追っかけ追っかけ、なんぎな病《やまい》という病にかかって、それでも生きていた。そのたんびにこの子を生かしたものは母親の看護《かんご》の力であった。
最後《さいご》の病は腰疾《ようしつ》(こしの病気)であった。それにはしじゅう板にねかしておくがいいというので、板の上にからだを結《ゆわ》えつけて動けないようにした。けれどそれをそのままうちの中に閉じこめておけば、今度は気鬱《きうつ》と空気の悪いために死ぬかもしれない。
そこでかの女は子どものためにきれいな、ういて動く家をこしらえてやって、フランスの国じゅうのいろいろな川を旅行しているのであった。その両岸の景色《けしき》は、病人の子どもがねながら、ただ目を開いていさえすれば、目の前に動いて行くのであった。
もちろんこのイギリスの貴婦人《きふじん》とむすこについて、わたしはこれだけのことを残《のこ》らず、初《はじ》めての日に聞《き》いたのではなかった。わたしはときどきかの女といるあいだに少しずつ細かい話を聞いた。
わたしが初めの日に聞いたことは、ただこの船の名が白鳥号ということ、それからわたしが部屋《へや》と定められた船室がどんなものであるかということだけであった。
わたしは高さ七|尺《しゃく》(約二メートル)、はば三、四尺(約〇・九〜一・二メートル)のかわいらしい船室を一つ当てがわれた。それはなんというふしぎな部屋《へや》におもわれたであろう。部屋のどこにもしみ一つついていなかった。
その船室に備えつけ
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