統の唖かも知れなかったのである。
「お嬢さんの名は?」と私は試しに尋ねた。
「ミサ……」と女性は服従的に答えた。
おお此の女性は本当の悪人ではない。彼の女はすっかり恐怖している。そして私を巡査と同じように尊敬している。人が悪事を後悔した瞬間程屈従的な心に変ずるものはない。そんな時には弱い子供に打たれても、打ち返す力さえ出ないのである。
「之、貴方の家?」私は少し威嚇的に訊ねた。屈従に対して威嚇を強いるのは人間の持ち前である。
「ええ……」
「あしたの晩、ここへ忍んで来るから会って下さいね。私は貴方を美しいと思ってるんです。」私はやさしく、大人しく頼んだ。
女性の顔は再び変った。彼の女はよろけながら後じさりをした。困惑と絶望とが体中に見えた。
「ああ……それは……」
「いけないと云うんですか?」
「でも……」
「あの事……あの事が世間へ知れたら困りますよ。分ってますね。」
「分ってます。さ。お返ししますわ。許して下さいましね。」娘は初めて涙を落した。
「それは入りません。そのハンカチを下さい。」私は斯う云って女性の手にあるハンケチを取り上げた。
「では、きっと私に会って下さいね。私はもう、貴方に恋して了っているんです。」
女性は私を眤と見詰めた。そして恐怖しながらも、私の顔が嫌いでないのを感じた如くに見受けられた。彼の女は少しの間、目を閉じて考え続け、やがて黙って家へ入ろうとした。
「あしたの晩の八時! 間違いなくね。それでないと世間へ知れますからね。」
「え! 考えときますわ。」
「今、承知して下さい!」
「では、八時!」
娘は家の裏へ逃げて行った。私は緊張の後の疲れを感じて、淋し相に店の方へ帰った。
ああ何と云う悲しい陰惨な計略!
私は闇を歩き乍ら、自分を憐愍して、女のように嘆いた。本当に電柱へ縋って嘆いたのであった。
全体之は何であるか? 私は何を悩み、何を為しつつあったか?
私には全く反省力が欠けているのか?
否、私は自分の心の闇を見詰めるのが恐ろしいのであった。然もそれは結局|発《あば》かれずに済まされないものだった。
私は静かに注意力を集め、見る可きものを指摘せねばならない。分っている。私が本来望んでいるのは女性を虐待する事ではなかったではないか。妹のための復讐! それが初めでもあり、終りでもある唯一のそして重要な予定ではなかったか?
皆分って了っている。今更弁解は一切不用であろう。分っている。実に、人々よ。鬱積せる復讐心、満たさるる事なき一つの願望、それが目的の道を閉ざされた時には、必ず曲った方向へ外れて行かねばならない。
精神分析家はそんな傾向から来る悪い行為を「復讐の代償」と呼ぶが好い。私は実に新しい相手へ向って無意識的に「代償」を実行したに相違ないではないか。自分の苦悩を軽減するために、他人の苦悩するさまを見て楽しむとは……ああ、それは虎にも獅子にも具わっていない特異なる残忍性の発露である。私が男らしくなく泣き崩れ、何処にも救いを見出せない闇の中を這い廻ったのは、以上の事に気附いたからであった。
蛇と鰐と狐とを混ぜ合して煮ても、私の心よりひどい濁りは浮いて来まい。
今、今ならば何うにか直せそうである。早く、早く、私はあの娘にもう一度会って、私の醜い謀みを詫びよう。ああ彼の女は何んなに眠れぬ時間を持ち扱い、悔恨と困惑とで懊悩している事であろう。彼の女は罠に陥ちた兎よりも、もっと憐れ深く悶えているに相違ないのであった。
「復讐の代償」……そんな卑怯な陰惨なものがあって好いだろうか? 実にもう何の弁解も入りはしない。唯一つ云って置こう。弱い心と卑怯とは同じものを意味するのである。
悪心の中に包まれ育つ善心
闇は限りなく濃くなって、気体でなく、固体――油じみた古い布団のように私を圧した。眠ろうとしても心の静かにならない哀れさ。髪の毛の生え目は一つ一つに痛み、眼や鼻は硫黄の煙りで害されたように渋く充血した。
道を曲げてはいけない! 一つの目的を明確に意識せねばならない! 復讐の相手の顔から眼を外らしてはいけない!
正直な心、曲らぬ心、何故それをはっきりと保ち得ないのか?
けれど軈て私は熱っぽい眠りに堕ちて行った。夢は再び私を悲しく覚醒させた。何でも太って赭い顔の男が私に斯う話したのである、
「兄弟を殺しても、御免なさいと云やあ、それで済んだ時代があったさ。時代、時代がね。」
それから想起し得ない混乱の後に、私の亡父が表れ、不快な舌を以て呟いた。
「帽子を盗んでも、首を切っても、同じ位の罪しか感ぜぬ人間もあった。それから、それで好い時代もあった。時代も。」
私は恐怖する。之等の夢の示現は何を意味しているのか? 私は心の奥底から後悔していない為めに、斯んな荒れた考えを夢みる
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