職工と微笑
松永延造

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)心が行き達《とど》き

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)それは見|達《とど》けてないのですが
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   序言

 私は当時、単なる失職者に過ぎなかった。とは云え、私自身とは全体何んな特質を持った個体であったのか? 物の順序として、先ず其れから語り出されねばならない。
 別段大きな特質を持たぬという点が私の特質であった故に、私は私自身に就いて、其れ程長い説明を此処で試みようとは思わない。正直と簡単とを尊重して、私は次の事丈を読者に告げ得れば、もうそれで満足である。
 私は一時、小学校の教員であった。そして直きに免職となって了う事が出来た。何故免職となり得たか? 日本語の発音及び文典の改良策に就いてと、それから小児遊園地の設計に就いて校長と少し許り論争した結果、私自身が何かしら「思想」と言ったようなものを所持している事が発見されて了ったからである。実に其の思想がいけなかった。多くもない私の特性のホンの一部がいけなかったのである。断って置くが、私は何んな場合でも過激を遠慮する内気な人間の部類に属し、却って年老いた校長の方が進取的な気質に満ちて「堕落しても好いから、新しいもの!」と云う希求を旗印しに立てていたのであった。従って、此の場合では、世間に好くある新旧思想の衝突と云ったようなものが恰度逆の状態で醸成されたのである。
 少し冗長になるが、それを我慢して話すならば、校長は恐ろしいエスペランチストで、幼稚園の生徒へ向って迄、此の世界語の注入に熱中したのである。光を受け入れる若芽のような学童たちは珍らしいものに対して覚えが早かった。彼等は花や樹の葉の事、又「嬉しい嬉しい。」なぞと云う事を皆エスペラントで話し初めた。そして皆が
「ボー、ボー。」と叫んだ。
 此の「ボー。」が校長に取っては悪かった。彼も私が免職になってから直き、矢張り同じ運命になって了ったのである。
 そんな事は何方でも構いはしない。話したいのは、もっと別の点である。私は一体それから何うしたのか? 勿論貯金があったので喰うに困りはしなかった。否、寧ろ充分な閑暇を利用して、少しばかり学問を初めさえしたのである。そうして、一年許りの内には、三流文士として、四流の雑誌へ、小さな創作を掲げて貰える程に出世をした。
 私の創作が勝れたものか、それとも、極く平凡なものか、を私自身も未だ判定する事が出来なかった。そして勿論多くの一流批評家は私の作に目を通しては呉れなかったのである。彼等は悪いものには注意しなかった。そして恐らく良いものと同じ運命の下にあった。
 私は試みに、私の作風の一例を此処に引き出して見よう。

   其の人が通過した跡

 其の人は自分の母親を連れて歩いていた。彼の足は真直ぐで、母の背は曲りかけていた。彼は少しもクタビレないけれど、然も母親のクタビレたのを察する事が出来た。
「心が行き達《とど》き、他の心を察する事」之がその人の特性だったのである。
「お母さん。私は一度丈貴方を自動車に乗せて上げたいと思います。」と子は云った。
「お前は私がクタビレたと思って、そんな風に云って呉れるが、私は未だ歩けますよ。それにお前の足は大変活撥で、もっと地面を踏みたがっていますよ。本当に若い中は高い山なぞを見ると、直ぐそれへ登った所を想像する程だもの。然し年をとると、そこを越さずに、向うへ行ける道はないかと探すようになるのだね。」と母が微笑んで答えた。
 けれども其の人は自動車を呼んで、それから運転手に訊いた。
「B迄行くのですが、車の何方側へ多く日が当りますか。」
「右側ですよ。」と運転手が答えた。
「では、お母さん。私が右側へ座ります。お母さんは日影においでなさい。」
 之は暑い日の出来事であった。眠相であった運転手は不図目を上げて、幾らか恨めし相に青年とその母を見やった。彼は吐息を一つすると、直ぐ車を動かし初めた。走って居る間中、運転手は故郷へ置いて来た自分の母親の事を、あれから之と懐い続けるのであった。十日程前、手紙で母親を騙し、十円の金を送らせて、全く無益な酒色の為めに費して了った事が、彼自身にも口惜しくて、彼は思うさま大きく警笛を響かせた。それから、態と行路を替えて、廻り道をし、車上の老いた人へ日光を当ててやろうかとさえ考えたが、不意に眼へ一杯の涙をためて了ったのであった。
 親と子は車を降り去った。残った運転手は郵便局へ入って母へ宛てた為替を組んだ。それに添えて、「お母さん、丈夫かね。日中だけは畑へ出ず、体を大切にして下さい。」と下手な文字をも書きつらねた。
 田舎で、息子の手紙と、いくらかの金を受けとった母親の喜びは何んな風であったか? まして、そ
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