れが一度も子供から親切にされた覚えのない母親であって見れば、尚更の事である。
母親はよろけ乍ら、隣家の方へ駈けて行った。然し、此の喜びを、そうたやすく他人に打ち明けてはなるまい、と思ったか、再び我が家へ走って来て、声を上げて、息子の簡単な手紙を読んだ。声の終りの方は小鳥のそれのように顫えた。人が文字以外の文字を読むのは実にそんな時である。簡単は立派な複雑になり、ほんの西瓜の見張り小屋のような文章が、何だか有難く宏壮なお寺様のようになって了うのである。
母親は誰かしらに此の喜びを分け与えねば、自分の体がたまらないような気がして来た。それで又家を出て見ると、彼の女が貸した金を仲々返して呉れない男の何人目かの子が、直ぐその弟を背負うた儘、転んで了って、重い負担のために、起き上る事も出来ず、藻掻いているのに、行き会った。母親は急いで、子供を抱き起し、「可哀相に……」と繰返した。
「之は利息だよ。」と子供は帯の間から十銭の紙幣を二枚出した。
老いた女は少し顔を赤くして考えた。お金が哀れな人の所へ行って、利子と云うものを盗んで帰って来ると……
「そのお金は少いけれど、お前のお父さんと、お母さんが、暑い日中、畑へ出て、働いて出来たのだね。それは暑さの籠ったお金だね。ああ暑い日中丈は畑へ出ぬように……」と老いた人は独語とも祈りとも判明しない言葉を、天に向き、又地に向いて呟いた。
それから彼女は二十銭を可愛い子供に与え、子供はその半分で果物を買い、半分で鉛筆のような品を求めた。
さっき迄意地悪くしていた子供は大変嬉し相に飛び立った。そうして、自分の家の鳩へ、他所の犬をけしかけるのをやめた。
子供は何かしら三つ許りの歌を一緒に混ぜて歌い乍ら、庭に落ちている鳩の抜け羽を拾って遊んだ。
「斯んなにして、毎日羽をためたら、今に妹の枕が出来ようか?」と子供は母と覚しき女性に尋ねた。
「丹精にしていれば、出来相もないと思われた色々の事さえ、思いがけぬ程早く出来るものだ。」と母らしい人は答えた。
此の有様を巣の入口で眺めて居たのは年をとった一羽の鳩であった。
鳩……この小さい脳髄は何を考えて居たであろう。鳩は何度か首を傾け、あたりに犬の居ないのを確めて後、恐らく次のように鳴いた。
「自分の惜しく思う品を、思い切って人に与えても、その品を人が自分と同じように大切にしているのを知る事は、何とも云えない喜びである。」
我々は思い出す。自動車に乗った、さっきの母子は、唯街路の一角を通ったに過ぎなかった。けれども、その影は運転手の手紙と共に、田舎へ走り、老いた農民のもとに居り、転んで起きられぬ子供のそば近く歩み、鳩の巣のほとりに、思い深くもたたずんだのである。至極あたり前の深切、一寸した思いやりも、それが命を持って居る故に、水の輪のように、動いて他の方へ行くのは面白い事である。
(おわり)
読者は倦怠したであろうか? 振り返って云うが、私の小品というのは以上の如きもので代表されるのであった。それは簡単で、従って未熟であろうか? 私が教員時代に学童へ向って熱心に話した訓話の痕跡が取り切れて居ないと、読者は叱責するであろうか。
それは何うでも好い。話は実に之からなのである。
機縁とは何であるか? 何処が初まりで、何処が終りなのであろうか。私には何も分らないが、或る雨の日に、ある濡れた青年が、私を訪ねて来たのは確かな事実である。
彼は幾分か私を尊敬する風であったが、そうかと云って彼自身の傲慢を強いて隠す程でもなかった。彼は概して陰鬱であり、時に不思議な嘲りに似た笑いを洩らした。彼は一個の労働者であると告白したが、そんな低い階級に似ず、恐らく私も及ばぬ知見を持っていた。
彼は自身が経験した或る事件に就いて、一つの伝記風な小説を書きかけている事、それを順々に見て貰い、批評して貰いたい事を私に告げた。
「私が何んな奴だか、今に皆別って来ます。すっかり分って了います。」と少し気味悪い動作の青年は悲し相に舌をふるわした。
軈て私は何を見、そうして驚いたか!
私の嘗て知らない不思議な世界が此処から開け初めた。青年の文章は暗い光とでも云う可きものを以て私の胸を照らした。此処には「神聖なものへの反抗」があり、私の心の中には見出せない複雑な考えがあった。
「悪」それが主位を占め、そして君臨する所の精神を、私は単なる心理学的興味からでなしに、もっと異様な驚きと嘆きとで見入った。私はそれに引つけられ、又蹴はなされた。それにも拘らず、私は彼の青年へ何処迄も接触して行こうとする勇気の為めに立ち上った。ああ此の青年が何んなに私の平安な生活を破壊して呉れたか? それは後に皆明白となるであろう。
彼の青年は確かに私達とは別な性質を到る所で発露した。たとえば、彼は面識なき
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