リエス患者のコルセットを造るため、セルロイドを取り扱う事に習熟したので、その後もあるセルロイド工場へ入って生活費を得ていたのである。
 そして、他を罰してやるためには、自分を出来る丈正しく保たねばならないと云う考えで、自分を鞭打った。けれども之が私に取って無効なる痛みに過ぎなかったのは、何と云う悲しさであったろう。
 正直に云って了う。一つの憤怒を抱いた人間は、却ってその憤怒のために堕落しやすいものである。ああ、私は何れ程心の平静を望んだ事であろう。此の憤怒! この動乱がいけないんだ、と叫んでは、自分の爪で自分の胸を掻きむしった。之は何と云う矛盾した心理であろうか。憤怒があればこそ罰を謀《たくら》むのであり、罰を謀むから、正しい心を欲するのであるのに、正しい心を持つには、憤激それ自身が邪魔となるのである。
「えい! 何たる苦しみの鼬ごっこだ!」何度操返しても、それは実に同じであった。
 然し私は心を取り直した。(少くともそう思われる。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]同じ工場に通う老いた職工が火傷のために休職し、喰うにも困っているのを聞くと、私は深甚な同情のようなものに刺戟され、そして、露店を出してセルロイドの櫛やシャボン入れや、その他の小さい道具を小売りし、儲けた利益丈をその老人と家族へ恵んでやろうと云う企画で私を喜ばした。
 実際、私はその企画を実行する勇気を持つ事が出来た。ほんの宵の中丈露店を開くのではあるが、疵物なぞを安く割引して売るために、客の足は思ったよりも繁かった。そこ迄は実によく行ったのである。その先は何と云う悲惨であろう。
 私は薄暗い燈火を前にして、地面の上に坐ってい乍ら、眼前に蹲踞んで、櫛を漁っている美しい若い女性を横目で見た。彼の女の挙動には強いて落ち着を見せようとするため、却って慌てているような風が窺われた。いやそれのみではない。彼の女が私の眼から隠れて、一本の櫛を盗み取り相にする所を私は不意と直覚した。勿論その時に、私が眼を正面へ向けたならば、女性は罪を犯し得なかったに相違ない。けれど意地の悪くなっている私は自然にそうする事を耐えて了った。
「待てよ。あの女は盗もうとしている。だが私の注意を恐れて、躊躇している。悪い女め! 私が何も知らないと思っているのか? 私がお前を罪に陥してやろうとして、態と見ぬふりをしているのが分らないのか?」
 之は何よりも悪い思想である。盗む機会を態と与えてやる人は、恐らくその機会に引き入れられて、盗みを行う人よりもより多く有罪であるに違いない。
 私の不注意と無関心とを覘っていた娘は、不意に一本の櫛を抜き取って、袖の下へ隠した、立ち上ると、今度は袂の中へ押し込んで、急いで闇の濃い方へ消え去ろうとした。
 痛々しい生活に疲れて、何の慰みもない私は、此の時久しぶりに淋しい微笑を洩らしたのである。それは何とも云えぬ意地悪い、悪魔的な笑いであった。私は網を掛けて太った鴨を捕えた百姓と同じ心持になって立ち上った。
 私は或る露店で女性の後ろ姿に追いついた。
「へへへへへ―へへへへへ」と私は唯笑って跡に従った。けれど、「貴方は盗んだね。」と難詰する事を何故か控えて了った。此の忍耐が何よりも悪かったのである。私は何も弁解しまい。私には実を云うと私の心理がよく分らない。痛み――何か漠然とした痛みがあった丈なのである。
 娘は一寸振返った。彼の女は確かに驚いた如く見えた。見えたと云っても、其処は全くの闇の中だったので、或いは彼の女は私を見なかったかも知れない。又私を見たとしても、それがセルロイドやエボナイトの商人だとは感附かなかったかも知れないのである。
 私は忍耐した。それは実に悪性の忍耐であった。露店の方を捨てて置く訳に行かないのを感附いた私は、盗人の娘から分れると直ぐ道を取って返した。ところが半ば迄帰って来ると一つの悪心が明瞭にカマ首を持ち上げて来たのを、私は闇の中に見附けた。
「店は何うでもなれ! 私は面白い事の方へ行くんだ!」
 私は再び娘を追った。そして何処迄も声を掛けずに跡をつけた。娘は一つの家の前に止まり、中へ入ろうとして一寸注意深そうに後ろを見た。その時である!
「お嬢さん。へへへへへ」と私は闇から首を伸ばした。娘は血が凍ったように直立した。そして、何処からか漂うて来る極く僅かな燈光で私の顔を見入った。彼の女は初め歯の根も合わぬ口を動かして、何か云い出そうとするようであったが、不図思い返したように恐る恐る袂から例の櫛をそっと出して、今度は力強く突きつけた。
「そんなもの、地面へお捨てなさい。へへへそんなもの入りません。へへへ」と私は低い劬るような声で呟いた。それが却って娘を戦慄させたらしかった。彼の女は唖のように唯オオオオオと口走った。事に依ったら本
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