、もっと深く知って置けばよかったと悔いているのです。と云うのは……」と薬剤師は悲しげに、私の方へ顔を寄せた。
「先へ伺って置きたいのですが、あの放火と、その恋愛とには、何か関係があるのでしょうか?」私は斯う念を入れた。
「あるからこそ、お話ししてるんです。」
「では、何故、判決以前に知らして呉れないんです。」
「その頃はね、何しろ、姉の非業な最期のために、私も反省や洞察の力を全然失って了っていたし、未だ、本統の急所は気附かずにいたものですからね。」
「そうです。貴方の姉さんの死の事を考えると、私はもう肋骨を引きはがされるようなんです。」と私は下を向いて呟いた。
「油で黒くなって、眼球から湯気の立っていた有様を私は何うしても忘れ去れないんです。」薬剤師は涙をためて私を怨めし相に睨め、それから又思い出して続けた。
「もう云いますまいね。貴方も私も不快になる丈ですから。……いや、それより、あの院長の子息が大変好色な事は死んだ姉からもよく聞きました。姉へも妙な話を持ち掛けたんだ相ですからね。それから貴方も姉に云い寄った事があるそうですね。姉は貴方を讃めていましたよ。」
「それは何かの間違いでしょう。貴方の姉さんは私にそれとなく何かを仰言ったり、手紙を呉れたりしましたがね。未だ何でもなかったんです。私から云い寄るなんて、そんな事はありませんでした……」私は黒焦げの女を思い出しつつ気味悪く否定した。
会話は長く続けられた。そして何でも一番の罪は院長の子息にあるらしいと云う判定に到着した。一部の噂に依ると、息子は父の残した大きな借財の始末に窮し果てていたのである。そして院長の死後急に寂れ出した大きな病院の維持も覚つかなくなっていたらしい。「焼けて了った方が結局利益になる。保険金が入れば、それで他の小さい事業に移れる訳だ。」と云う考えは当然息子の頭の中を往来したのであろう。けれども自分で放火すれば陰謀は直ぐ発覚して了うに相違ない。色仕掛けで心を捕えて、白痴の娘を利用しようと云う悪辣な考案が何うして続いて起らずにいるだろうか。
「それなんです。」と薬剤師は恐ろしい形相をして云いよどんだ。
「確かですか?」
「恐らく之より確かなことはない筈だ。貴方が女から生れたと云う事より、もっと確かだ。分りますか? 然も貴方が女から生れかかっている所を誰も見たのではないんです。」
「それで息子の罪については、何の證拠もないと云うのですか?」
「少しはあるんです。妹さんは時々独り言を云う癖があるでしょう。或る時、洗濯物を抱えた儘で『貴方、貴方、貴方!』と口走っていたんです。誰だって、自分の事を貴方なんて云いはしませんからね。」
「それは證拠とは云えませんね。」と私は薬剤師を少し疑った。けれども、私は妹が院長の息子のために貞操を傷けられ、その上、詐欺的犯罪の犠牲となって、獄舎へ迄も引かれたのだと云う漠然とした観念を植えつけられずにはいなかった。
怨恨と憤怒とは再び私の心を領した。薬剤師と心を組んで、色々の噂や、息子の様子を探れば探る程、疑いは真実と代って行った。
残忍な内謀は日に日に私の心の中で育って行った。読者は忘れたであろうか? 私は一時自暴自棄と依怙地とから、犬殺しにさえ進んでなった、暗怪な青年である。
私は殺人を夢み、又妄想し、遂に意図し、企画し初めたのである。刃物は用意され、逃げる道が地図の上に赤い線で記された。
ある人は私の愚を詰って云うであろう。何故お前は真の犯人たる院長の息子を其の筋へ訴えないのか? と。
けれど、それは私の眼から見るなら無駄事としか思われない。起訴した処で、我々が敗けるのは初めから判明しているのではないか。
息子は妹を強いて姦したと云うのではない。又放火を教唆したとしても、その證拠は上っていない。それに裁判官達にも名誉と云うものが必要である。そして之は真理を葬ることに慣れた一地方に起った事である。間違った判決をその儘で通すのが、彼等に取って最も利益であるのは判り過ぎているではないか。それが彼等の妻子を安全に暮させる最上の方法である。それが彼等の鬚に滋養をつけ、一層上方へ伸び上げるようにする最適の方法なのである。裁判長の鬚は後ろからでも見える――その鬚こそ此の地方での最も誇る可き名物だったのだ。裁判長は神経衰弱に落ちて、カルシュームを含むカルピスと精力素と云う薬と、ヘモグロピンとヴィタモーゲンとを服用し、その上にビフステキを食べるのだが、其れが皆鬚になって了うのである。
朝鮮人を憐む支那人
何うして忘れ得よう。そして何を忘れようと云うのであるか。いや、反対に、私は記憶のあらゆる粒を一時に思い浮べるのだ。
私は歯がみをし、骨が響きを発する程に腕を振り、又眼前の物体は何に限らず蹴返した。あの沈着で痩薄な院長、
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