彼が恐らく病的に迄も進んでいた色魔であったことを、私は今漸くにハッキリと思い当たる。私が紫色の室に休んでいた時も、記憶力の鈍い院長は誰か女性を閉じ込めてあるように錯覚して、私のもとへ忍んで来たのかも知れなかった。あの赤くなった顔、私に媚びを作る猫のように光った眼なぞが、一時に私の頭の中を這い廻った。おお、そして院長の子息も斯んな卑しい気質を残らず遺伝していたのである。妹は何と云う哀れな娘であったろう。彼の女は二人の乞食の耻を、一人で受けたようなものではないか。
それだのに、私の復讐心は何故もっと強烈に燃え上らないのか? 私は実に自分が中気病みででもあるかの如く、町や室中をよろめき歩いた。けれど、何時迄待っても妄想が実行に変化する機会を捕え得なかったのは一体何故なのであろうか――私は自分に聞いて見ている――勇気! それから真心! この二つが欠けた所に、興味中心の残忍性丈が狂い廻っているのではないか? そして私は遂に心の弱い青年――悩む事を知って、切り抜ける事を悟れぬ愚かな男に過ぎなかったのであろうか。
興味から来る残忍! それは多くの殺人者に取って必須の要件である。けれど、私の場合では、その興味を求める願望が本能的と云える程には狂暴でなかったに相違ない。
「駄目なのか? 本統に実行出来ないのか?」私は自分の胸を棒で打っては斯う問い続けたのである。
私は実に、斯んな工合であった。自分を嘲ける悪魔の声が、自分の心の中で聞え初めた時、私は何んなに絶望して床の砂を嘗めたであろう。悪人ぶると云うことを誇る程、私は未だ幼稚で善良であったのか? 殺人の妄想は単に脆弱な心の強がりであったのか? 曲った心の敗け惜しみに過ぎなかったのか? 之が問題なのであった。と云っても、私は何一つ弁解しようとは思わない。自分はやはり、結局、こんな工合で中気病みを続けた丈なのである。
その頃、私は自ら進んで、ある免職の小学教員と知り合いになった。事の初まりは、私が彼の落した財布を送り達《とど》けてやったと云う些末な点に過ぎない。けれども、私達は直ぐ親しく語り、連れ合って散歩する迄に友誼を進める事が出来たのであった。
或る日――二人は約束に依って、裁判所の前で出会い、此の町で起った一つの大きな事件――朝鮮人の十三人斬り――に関する裁判を傍聴した。その小学教員は「社会から不当な取り扱いを受けた哀れな男が、如何に彼自身も亦社会を不当に取り扱うか。」と云う事の実例を求めるため、私は又私の流儀で、十三人の人を斬るには何んな決意と勇気とを要するかを知るために、耳を澄ましたのである。
約《つづ》めて云って了えば斯うである。哀れな被告、高と云う名の朝鮮人は、裁判長のやさしい質問に対し、一気に答えるのであった。
「私は馬鹿者です。何故この日本へやって来たのか? それが分らないのです。いや分っている。故郷で義理の兄にえらく侮辱され、蹴飛ばされたんです。その有様を、私の恋している女が見て笑ったのです。それで日本が大変恋しくなって、そこへ行ったら、お金にもなり、やさしい人が待っていて呉れるように思えて、到頭、跣足になる程貧乏しながら、このお国へ渡って来たのです。それから六神丸と云う薬と翡翠とを行商して日を暮し、もっと悪い事もしながら、夜学で法律普通科を半分やりました。電車の車掌になってからは、日本人の女工を妻に貰いましたが、その女は私の子を妊んで呉れないのです。「何うか一人丈でも好いから生んで呉れ。」と願っても、女は唯笑っていて、やはり生んでは呉れないのです。私はそれが不思議で困りました。きっと私を愛していないのだと気づくと淋しくて、又帰郷したくなりました。斯んなつらい思いをしながら、私は妻の兄夫婦と一軒の家を借り、半分ずつ使って、半分ずつ家賃を払っていました。所が義理の兄は子供が二人もあると云う口実で、段々室を大きく使い、台所も自分等丈で使うようにシキリをして了うし、私が寝ていると、態とまたいで便所へ行き来し、その上、私の妻へ一人の男の子を抱いて寝かさせ、私は戸棚を開けてそれへ二本の足を突込んで寝なければならない程、場所をふさげられました。そんな事を忍べば忍ぶ程、兄夫婦やその子は私を馬鹿扱いにし、嘲けり笑い、私が卸した許りの手拭いで泥の手をふいたり、私の茶碗へつぶした南京虫を一杯入れたり、六神丸を無断で売って、その金を使って了ったり、私が買った炭を平気で盗み、その度に私へ悪口をつくのです。兇行の前の日、兄の妻が私の金だらいへ穴を明けて、知らぬふりでいるから我慢出来ないで、二言三言云い争いをしたが、その事を兄へ云いつけたと見えて、兄は醤油の壜で私をなぐったのです。血と醤油とに染って私は眼を開く事も出来ずに、唯暴れていると、兄の妻は口惜しまぎれに私の急所をつかんだので、私は気絶
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