そうになって来た。
そして私は正直な人間に改まったか?
否又しても大きな障碍は持ち来された。
火事の際に焼け死んだ看護婦長の黒焦になった屍体を何時迄も記憶から除く事の出来ない私に取って、婦長の実弟である若い薬剤師と時々顔を合せるのは随分とつらい刑罰であった。私は彼を見ると釘附けにされたように血が凍り、冷たい沼の底へ落ちて行くような慚愧の念でなやまされた。ある時の如きは、狂気になったように、その弟へ縋り附いて、私は地面に坐った儘、許しを乞うた事もあったのである。
「あの白痴娘の責任は全部私に転嫁されているのです。あれを怨まずに、私を罰して下さい。私を……」
「いや、人を怨む必要はないのです。犯罪は常に一種の過失ですもの。」諦め深い若い薬剤師は人なつこく私を慰撫した。
「けれど、貴方は内心思っていらっしゃる、他の事を! 他の事を!」
「いいえ、之丈です。貴方の妹は寧ろ罪がなさ過ぎた。それが今度の過失の原因なのです。」
「貴方は何かしら私と別の考え方をしていますね?」
「そうです。探索している内に、段々と真相が別って来たのです。」
「真相?」私は直立して斯う叫んだ。
「そうです。もっと検べたら、一層真実となる所の真相です。……妹さんは単に仕事がつらい丈で火を附けたのでしょうか。え? 之は可笑しいです。いや、此処に何か秘密が隠れて居そうではないでしょうか。妹さんは力の沢山ある、そして労働をいとわない質の女であったのを私はよく知っています。それが急にナゲヤリな気を出し、仕事をなまけ初めたので、私も実は不思議に思っていたのですが、すると間もなくあんな大事をやってしまったんです。」と薬剤師は声をひそめた。
「何故妹は放火の以前、なまけだしたのでしょう。病気か過労かに依るのでしょうか?」
「其処です。勿論労れているようではあったが、病気とは見えませんでした。此の機会に貴方へ話して置きますが、妹さんは恋――たしかに恋のようなものをしていたと推定せねばなりませんよ。」
「それは過ちでしょう。第一相手になる男がないでしょう。」
「いや、男は意地の汚いものです。そして恐らく女だってね……」
「では妹は懊悩のために、仕事をなまけていたのですね。」
「恐らくそうです。」
「相手は……妹の相手は一体誰なんですか。」
「私は断言しますが……それは院長と、それから次には院長の子息ですよ。」
「え? 院長の子息! そして院長も?」
「私は此の眼で見たんですからね。」[#底本では「。」が抜けている]
「何を……いまわしい事をですか?」
「妹さんは紫色の室で寝た事があるんですよ。」
「え。あの小さい噴水のある室?」
「ハハハハ院長の大好きな室なんだ。あの室へ入って助かった女はないんだからな。」
「そして、院長の死んだ後には、その子息があの室を使ったのですか?」
「それは見|達《とど》けてないのですが。他の場所で、二人の立って居る所を私は一寸見掛けたのです。そして私は二人の間に何かしら恋愛の火花が行交うているのを感じたんです。勿論その時は感じた丈なんですが……」
「では……あとで、もっと委しく判明したと仰言るんですね。」
「不幸な事に、その通りなんです。」
「何を見たんです。云って下さい。何うか遠慮なしに……」
「貴方! 紫色の室の直ぐ隣りは未だ人の入った事もない不用の室ですが、知って居ますか。あの室は全く何の目的もなしに空いているんです。貴方の妹さんはあの室を一週間に一度丈掃除するのですが、それに掛る時間は何時も二十分なんです。薬局の前を通って行って、又帰って来ると二十分丈何時も過ぎるんです。それが或時、三十分たっても帰って来ないんです。(私はその時或る薬を煮ていて、一定の煮沸時間を知るため、時計に注意していたんですがね。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]可笑しいな、と私は考えました。一寸した戯れの心から、私はあの不用の室へ様子を見に行ったんです。すると何うでしょう。扉がしまっていて、私が押しても引いても動かないんですね。ははあ之は中から鍵がかけてある、そして、鍵がその儘、鍵穴へ嵌っている、と私は感づきました。そして室を掃除するのに、鍵を掛けると云うのは何より理に合わない話しではありませんか?」
「妹は……中に居ったのですか? 泣いてでもいたんですか?」兄である私は当然他人よりも熱心になって訊いた。
「私は悪い所へ来て了ったと思いました。唯それ丈です。勿論ハタキの音も何も聞えませんでした。それから、ずっと後になって妹さんに鍵を持っているのかと尋ねて見たんです。答えは私の予想通り、若い主人が持っているのだと云うことでした。私は単なる興味丈で、そう云う事を探るのは罪だと思いましてね、その先を突き詰めて聞くのを態と避けたのですが、今になって見ると
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