を真黒にしている色々の心配と当惑を拭い去ってやった。そうすると女は一層自分の心を明瞭に見る事が出来、更に強い悔恨を発見して、新らしい涙を降らせた。
親切な教員は私の元へ戻って来て、起った事の凡てを話し、その上それらを記録に書きとどめて、私に与えた。
「聞き流すと云うのは好い事でない。貴方は此の記録を時々読み返して、自分を善くするように努めなくては……」
教員はその後、五回ばかり、例の処女と面会した。そして記録はその度に増補されたのである。
盗みをした処女に就いての記録
此処では教員が幾らか観念化して書きとどめた所の、哀れな処女の経歴を掲げさせて貰いたい。
「……私(処女自身)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]は考えて弁解致すのではありませんが、それでも之丈は申し上げたいのです。私は初めから悪い人間では御座いませんでした。誰だって、そうで御座いましょう。悪につけ、善につけ、それを段々と強くして行くためには相当の時間が必要なのは何より明らかで御座います。悪行さえ、幾らか習熟を要すると云う事は、少くとも私の場合では真実で御座いました。或る人は申します、悪行をなすには放任で足り、善行をなすには教育が必要だと云う風にね。けれど、悪行をすすめる養成所と云ったようなものが、此の世には沢山あるので御座います。皆包まず、お話し致しましょう。実は斯う云う訳なのです。
私の真の母親が私を妊娠して居りました頃、私の父と云うのは何か商売の上で大きな損を招いて、母を置き去ったまま、何処かへ出奔して了ったのです。残された母は妊婦預り所へ泣き入って、絶望と悲愁の中に、私を生み落したので御座いました。それから私は炭屋へ貰われて行き、其処から又或る煙草屋へ遣られた相でした。所が物心のつく頃になると、私は場末の或る小さい小鳥屋の子になって居りました。私は殆ど本能的に哀れな生物を愛する事が好きで御座いました。細かい泡粒を赤い嘴で噛んで、皮丈を吐きすてる紅雀や、大豆程の卵を生んでは一生懸命に孵すカナリヤの母親なぞを可愛がって眺めますのは、私の一番大きい楽しみでもあり、悲しい時の慰めでもありました。
それから鳥達の個々に就いて、その性質を観察し、それをよく飲み込んでやるのは、私に取って何んなに大きな仕事で御座いましたろう。小鳥の心配、不満、恐怖、安心、満足、そんな気持を察してやり、それぞれ適当な取り扱いをしてやるには本統に熟練と愛情とが必要なのでした。
或る鳥は羽が絹のように美しいのに、唯もう粟と水と丈で満足して居りました。『まあ何うして、味のない水と穀物と丈が、あんなに美しい生命に変るのだろう。』と私は好く思い、嘆息しました。又或る鳥は意地の悪い顔をしているのに、牛乳をかけた御飯でないと食べず、他のは棒の形に固めたスリ餌でないと不満な様子を致しました。『何て贅沢な鳥達だろう。山に居た頃は何うして暮していたの。』と私はフザけて笑った事も御座います。
斯んなにして十八になる迄、淋しく暮して来た私は、偶然な機会から、本統の父親に見出され、その方へ引き取られる手筈になりました。私は何んなに喜んだでしょう。之から今迄知らなかった愛情の国に住めるのだと思うと心も落ち着きませんでした。移って行った父の家には、もう一羽の紅雀も居ては呉れませんでしたが、その代りに私の実母ではない若い母親が待って居りました。そして小鳥たちを見失って、唯の雀をでも見るのをせめてもの楽しみにして、夫を見送っている私へ向っては、『お前のように小さい生きものを可愛がったり、恋しがったりする娘はないよ。きっとお前は石女だろう。』と申しました。それはもう詰らない云い伝えに過ぎませんね。いいえ、お話はもっと別の事で御座いましたっけ。(けれども私は石女かも知れませんわ)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
一緒に住んで見ると、私の父と申すのは、本統に悪い人でした。ああ、もし、父さえ善良な気質を見せて呉れたなら。私は何もあの復讐の心を抱くようにはならなかった筈ですのに……。いえ、復讐と申すのは、あの事なのです。妊娠中の母を捨てて、音信もしなかった不親切、私はその事から、父を怨み初めるようになったのでした。父さえ母を捨てなかったら、母だって、私を妊婦預り所へ置き去りにして、行衛不明にはならなかったで御座いましょう。母は唯、父の真似をしたのだ。それで私は孤児になったのだ、と斯んな風に感じたのでした。考えれば、私が小鳥屋へ貰われて行ったのは、斯んな父の手で育てられるより、幸福でした。一羽の無心な小鳥が悪いそして凡庸な教育者よりも善い事を教えて呉れると云うのは、もう本統のお話しですもの。だのに、私は矢張り、変化を望み、新らしい世界にあくがれました。孤児である身を悲しむ
前へ
次へ
全37ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松永 延造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング