に面した次の室の扉をウラスマルがいんぎんに引きあけると、其処から快い風のやうに這入つて来たのは、年の頃、二十位とも見ゆる小柄な――然し、均斉の好く取れた――一個の女性であつた。斯う云ふ場合、誰れもが感ずるらしい、気の引けるやうな、又、罪深いやうな心持ちをしながら、私は斜めに、彼の女をそつと一瞥《いちべつ》した。彼の女は名匠ヴェラスケスによつて屡《しばし》ば描かれたやうな卵形の顔をした、額の余り高くない美人であつた。彼の女の耳にはそれ程高価とも思へぬ耳飾りが下り、彼の女の左腕には三つ以上も象牙の腕輪がはまり、それが相互に当り合つて鳴り響いた。云ふ迄もなく彼の女はその深いまなざしと長い睫毛《まつげ》が語つてゐる通り、混り気のないアリア人であつた。
彼の女はその軽快な薄い唇に「……ルシムラ……」と云ふ風な、私には意味の分らぬ呟きをのぼしつつ、私へ向つても会釈《ゑしやく》した。
それから三人の会話が何《ど》う進んで行つたかを正確に思ひ起す事は不可能であるが、兎《と》も角《かく》も、女が男よりも一層快活であつた事|丈《だけ》は人々の想像し得る通りであつた。私の記憶が誤りでなくば、女は、たしか、男へ向つて、訛《なま》りの多い英語で斯う呟いて見せさへしたのである――
「私、御飯を一杯につめ込んで了つたあとのやうなつまらない感じがしますわ。だつて貴方は何だか余り堅い事ばかり話すんですもの、それとも、他にお客様が居るので、態《わざ》とさうなさつてゐるの?」
彼の女の訛つた英語を、さう解釈したのは私のつまらぬひがみであつたらうか? 然し、この淋《さび》しい解釈は明らかに私を一種の苦渋と圧迫感へ誘ひ込んだ。仕方なしに私は立ち上つて、其の場を去らうと試みた。けれど、それを見て取るとウラスマル君の顔面には可成り烈しい困惑と憐愍《れんびん》に似た表情とが起つた。彼れは之《これ》から手風琴を弾《ひ》いて聞かせるから、もう少しこの座に居て呉《く》れと、さも私を慰撫《ゐぶ》するやうに囁《ささや》いて呉れた。
褐色をした手風琴のごく古いものが直ぐ其処へ持ち出された。ウラスマルは不器用な手でそれを弾かうとし初めたが、何故《なぜ》か其の楽器からは寒さうな風の音ばかりが発して、本統の快い響が出て来なかつた。女は素早い眼で、風琴の一部に破れた穴の大きなのを見出すと、誇張的な声で軽侮の笑ひを吐きつつ斯う云つた――
「では好い? 私が親指でこの穴をおさへてゐて上げるから、出来るだけ、そつと弾くのよ。」
この悲む可《べ》き簡素を私は黙つてじつと見詰めた。と、手風琴は極く珍妙な節廻しで鳴り出した。女も興に乗つて来ると何かしら男へ向つて新らしい歌を弾くやうに註文し、さて、自身もあまり高くない声で、楽に合せつつ歌ひ出した。その歌曲には馬のひづめの音や、いななきを真似《まね》た音楽が仕組まれてゐて、可成りに興の深いものであつた。
其処へ、いきなり声をかけたのは、同居者のシャンダーラム夫人であつた。彼の女は半白の髪を平らに撫《な》でつけ、白いレースで胸を蔽《おほ》ひ、恐ろしく大きい出眼を早く動かしながら、三人を一瞬の内に見廻して這入つて来た。
彼の女は直ぐウラスマルへ斯う呟いたのである――
「お約束のカシミヤブーケは之だけしか上げられませんよ。」そして、前へ出した彼の女の黒い手には、二三滴の香水をひそませた一個の壜《びん》が握られてゐた。すると、例の若い女は急に頓狂《とんきやう》な声で笑ひ出し、そして、口早に軽侮の言葉を射放つた――
「この野暮な人が香水ですつて?」
三
それ程深い交際にと入り込んでゐる訳でない私は、其の後ウラスマルの新鮮な恋が何う進んでゐるかを実際に知る事が出来なかつたのも道理であるが、そのため、不思議にも、私の空想力は却《かへ》つて敏活に働くものの如く、実に次のやうな断定へと急いで行つた――
「彼れは貧困のため、女の歓心を充分に買ふ事が出来ないで今や非常に悩んでゐる。女は彼れよりも上段に立つて、むしろ、彼れを軽蔑《けいべつ》さへしてゐる。所で、ウラスマルはあの野暮な、何の取り柄もない体を飾る唯一のものとして、カシミヤブーケを選んだとは何たる気の毒な分別《ふんべつ》だらう。然も、それを自身の金銭で買ひ得ず、同居人から僅かに一二滴を貰ふと云ふのは充分悲惨で、憐愍《れんびん》す可き事ではあるまいか。」
私は以上の断定を真実なものとして堅く信じ初めたのである。
私がウラスマル及びその高慢な恋人に会つた日から四日後の事である。私は勉学に労《つか》れた頭を休めるため、桜の若葉を見ようとして、横浜公園の内部へと這入つて行つた。そして偶然にも、其処の或るベンチに、深く考へ込んでうなだれてゐるウラスマルを見出したのだつた。私は若《も》しや例の女性も
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