で澄み返つてゐた。私は早自分で息を殺し切れなくなつた。私の若い心は謎《なぞ》を解く事よりも、それを破壊して了ふ事を望む程にあせり出した。
「ウラスマル君!」と私はせんかたも尽きて、今はこらへてゐた息を俄《には》かに強く外方へと押し出した。その声につれて、初めて燈火はゆらぎ、太い異人の腕は動いた。
「その原因を話して下さい。」と私は上を仰いで彼れに聞いて見た。青年は出来るだけゆるやかな態度で首を出し、少し考へてから、私に英語で次の意味を答へた――
「私は恥かしい。唯《た》だ、向うの方を見てゐたのです。」
「単に、闇をですか?」と、私は眼を見はつて反問した。
「さうです……」彼は無器用に答へ、少しの間、沈思してから、又|呟《つぶや》いた――「闇は非常に広いものであるが、然しそれを見ようとすると、ほんの少ししか眼に映らない……」
「貴方《あなた》の国では、闇の事をマーヤの帷《とば》りだなぞとは云ひませんか?」
「云ひません。」彼れは彼れ独特なそして極く秘密な闇の観照を私から発見された事にひどい羞《はぢ》らひを感じてゐるらしく、その羞らひは彼れの心を多少とも不機嫌《ふきげん》へと転じた如くであつた。そのためか、それとも、他の動機からか、彼れは室《へや》の中を行つたり来たりしつつ、独《ひと》りで次の如き古風な音調を口誦《くちずさ》んだ――
「サバパーパス、カラーナンム、クシヤラース、ウパサムパーダ、サチッタパーリョウダパナーンム……」
 以上の言葉は彼れが散歩中に、又は沈思中に、時々呟くものであつたから、私はそれの大部分を記憶し、場合によつては、微笑しながら、ほんの戯れに、彼れと合唱する事さへ出来たのである。勿論その句の意味は私の知らぬ所であり、彼れ自身の教へようとせぬ所でもあつた。

「それにしても……」と、私はその夜更《よふけ》、一人で帰途を急ぎつつ、考へにふけつた。私の未だ無経験な頭には、その時、ふと、次の如き詩句が強い力で湧き起つて来るのだつた。
[#ここから2字下げ]
私は戸口に立つて、燈をかかげ
お前の行く道を照らしてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
「確かに……」と、私は再び空想した。ウラスマルは何かしら恋の如きものを経験してゐるに相違ない。それだからこそ彼れはあの秘密な行為を私から発見された時、異常な羞恥《しうち》を感じてたじろいだのであらう。

       二
 曾《かつ》て、私の不意の訪問が、ウラスマルの静かな心へ困惑と動乱とそして大きい羞恥をさへ与へた事を思うては、その後|成《な》る可《べ》くあの異人から遠ざかつてゐるやうにとの遠慮が私の心を占めるのは自然であつた。然も、私はウラスマルのすぐれた同族サーキヤムニの非常に珍らしい逸話の続きを、もう一度聞きたいと云ふ望みにかられて、再びあの無花果《いちじゆく》の立つてゐる庭へと足を向けたのである。尤《もつと》も、私はその場合でも、極く妥当な心づかひから、斯《か》う呟《つぶや》く事を忘れはしなかつた――
「明け方、早く、あたりが霞《かす》んでゐる内に彼を訪《たづ》ねて見よう。」私は夜の訪問で失敗したから、その失敗から遠ざかるため、全然類似せぬ時間を選んだ訳なのである。
 印度人には早起きのものが至つて多い。私が朝日の昇るよりも早く、ウラスマルの家を驚かした時、彼れは既に髪を梳《す》き終へ、石油厨炉で一個の鶏卵をゆでてゐた。然《しか》し、見受けた所、彼の機嫌はこの日も別段すぐれて明るいと云ふ程ではなかつた。
 私は彼れとの会話がさう容易には融合の中心へと這入《はい》つては行かないらしい事を、私は彼れの様子によつて漸《やうや》く察したので、自分の聞きたい話も要求せず、ただ時間が自然と流れるのを見詰めるより他仕方がないのを感じ出した瞬間である、ウラスマルはアツと発声すると共に、立ち上り、瀬戸物の敷きつめられた床をけたたましく走り出した。見る間に、彼は踏み台へ乗ると、例の窓から首を出して、純然たる印度語で、何かしらを外の方へ云ひ放つた。外からも直《す》ぐ答への声が聞き取れた。それはウラスマルの太い声に対比して、非常に細く、且つ音楽的であつた。
 軈《やが》て、ウラスマルはその短く太い首をめぐらして、私の方を見ながら、最も稀《ま》れな微笑を見せた。その顔色の中に、私は又しても彼れの烈《はげ》しい羞恥心を読む事が出来たので、非常な悔いを感じつつ、遂《つひ》に椅子から立ち上つた――説明するまでもない、私は「悪い場所へ来合せて了つた」と云ふ意識で、自分を悩まし初めたのである。
「いや、その儘《まま》、居て下さい。」と、ウラスマルは掌と掌をこすり合せながら、右方の眼尻《めじり》へだけ小皺《こじわ》を寄せて、私に納得させ、それから次に、英語でもつて、外の客人へ、カムインと呼びかけた。
 庭
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